おもしろおかしくやるんべぇ~ゆとり世代も悪かねぇ~

THEゆとり世代。さとり世代とも言われる世代「ふたば」の見方や考え方、そして日々の学びをまとめたブログ。

最近なかなか読む本が…という話。

 

最近なかなか読みたいという本がありません。

 

しかし何かは読みたいなぁと思ったので、

図書館から「古典文学全集」を借りてきて、

一通り読んでみようかなと思いました。

 

まずは古事記物語

 

児童向けですが、古事記の復習を兼ねながら読めて良い感じです(^^)

なかなか読みごたえもあります。

 

前半部分はほぼ頭に入っていたけれど、

後半のヤマトタケル以降の話は抜けてたなー

 

 

全26巻。

週に1巻として、今年中に読みきれると良いなぁ✨

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

 

今年になってから読んだ本にハズレがない話。

 

今回読んだ本はこちら。

始まりの木

始まりの木

 

夏川草介さんの「始まりの木」

 

ある方に薦めてもらい、読んでみました。

 

 

 

偏屈な民俗学者、古屋神寺郎と、

彼を指導教官とする大学院生、藤崎千佳。

 

民俗学の研究は足で積み重ねる」

という古屋の揺るがない哲学のもと、

 

「藤崎、旅の準備をしたまえ」の一言で、

2人は日本中を飛び回り知見を広げている。

 

しかしそれは彼の独創ではなく、

さかのぼれば「遠野物語」の柳田國男に至り、

江戸期の博物学者、菅江真澄の技法として紹介している。

 

と、

フィクションではあるのだけど、参考にした文献も多く、

実話なんじゃないかと思わせるほど。

 

情景描写も巧みで、一緒に旅をしているような気分になります。

 

 

 

最初は偏屈な古屋の口調に、若干めんどくさくなりましたが、

旅を重ね、いろいろなことが分かるうちに、

その魅力にどんどんハマッていきました。

 

 

夏川さんの文章、好きだわぁ(^^)

 

 

 

全部で5話の構成。

 

第1話「寄り道」は、弘前岩木山、嶽温泉が舞台。

旅先でおこる特別講義などから、古屋の想いや過去が分かります。

 

第2話「七色」は、鞍馬が舞台。

不思議な体験をします。

 

第3話「始まりの木」は、伊那谷が舞台。

タイトルにもある「始まりの木」に迫ります。

 

第4話「同行二人」は、宿毛が舞台。

遍路道での、これまた不思議な体験。

 

そして第5話「灯火」は、大学のある東京に舞台が移り、

あるお寺の住職とのやり取り。

1~4話の旅はそれぞれのエピソードという感じで、

第5話は総まとめ、といった感じです。

 

 

 

文章の中で、気に入った言葉を載せたいと思います。

 

 

かつて、この国にはいたるところに無数の神がいた。

木や岩に、森や山に、当たり前のように日本人は神を見ていた。その神々は言うまでもなく、大陸の一神教的な強力な神とは、大きく性質を異にしている。

日本人にとっての神とは、信じる者だけに救いの手を差し伸べる排他的な神ではない。人間は皆生まれながらに罪人だと宣言する恐ろしい神でもない。ただ土地の人々のそばに寄り添い、見守るだけの存在だ。

 

日本の神には、大陸の神に見られるような戒律も儀式もない。教会もモスクも持たない。それゆえ、都市化とともにその憑代(よりしろ)である巨岩や巨木を失えば、神々はその名残りさえ残さず消滅していくことになる。

この国の人にとって、神は心を照らす灯台だった。

灯台に過ぎなかった、と言い換えてもいい。もとより灯台が旅の目的地を決めてくれるわけではない。航路を決めるのは人間だし、船を動かすのも人間だ。何が正しくて何が間違っているのか、灯台は一言も語らない。静まり返った広大な海で、人は自ら風を読み、星に問い、航路を切り開くしかない。絶対的な神の声がない以上、船はしばしば迷い、傷つき、ときには余人の船と衝突することもある。しかし絶対的な教えがないからこそ、船人たちは、自分の船を止め、他者と語り合うこともできたのだ。己の船が航路を誤っていないか、領分を越えて他者の海に迷い込んでいないか、そのことは、寄って来る港を振り返りさえすれば、灯台の火が教えてくれる。私が今どこにいるのか、どれほど港と離れているか、人はささやかな灯を見て航路を改め、再び帆を張ることになる。この国の人々はそうして神とともに生きてきた。この地の神とはそういう存在だったのだ。その神が、今姿を消しつつある。それはつまり、灯台の光が消えようとしているということだ。

 

神について語る古屋の声は、しばしば熱を帯びる。

"無論、私がここで言う神とは、迷える子羊を導いてくれる慈悲深い存在ではない。弱者を律し、悪者を罰する厳格な審判者でもない。たとえ目には見えなくても、人とともにあり、人とともに暮らす身近な存在だ。この神は、人を導くこともあれば、ときに人を迷わせたり、人と争ったり、人を傷つけることさえある。かかる不思議な神々とともに生きていると感じればこそ、この国の人々は、聖書も十戒も必要としないまま、道徳心や倫理観を育んでこられたのだと私は考えている"

こういう古屋の大胆なフィールドから見れば、神と仏を区別する議論や、日本人が宗教を持つ民族であるか否かを問う議論そのものが、見当違いということになるだろう。

少なくともこの国の人々は、古代から路傍の巨石や森の大樹をはじめとして、山や滝や海や島や、あらゆるものに手を合わせてきたのである。

 

分かる気がするなぁ。

こうやって一之宮巡拝の旅をしているわけですが、 

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立派な社殿はもちろんですが、

境内の巨木や巨石にも魅力を感じます。

むしろ最近はそちらの方がメインになってきています。

長い年月、人々が守り続けてきたからこそ今もあるんだよなぁ。

 

 

 

登場する住職の話より、

信じるかどうかじゃない。感じるかどうか。

感じるかどうかっていうのは、この国の神様の在り方なんだ。例えばキリスト教イスラム教やユダヤ教ってのは、みんな信じるかどうかってことを第一に考える。そりゃそうだ。神様自身が自分を信じなさいって教えているんだからね。しかしこの国の場合はそうじゃない。神様でも仏様でもどっちでもいいんだが、とにかく信じるかどうかは大きな問題じゃない。ただ、感じるかどうかなんだ。

 

神も仏もそこらじゅうにいるんだよ。風が流れたときは阿弥陀様が通り過ぎた時だ。小鳥が鳴いたときは 、観音様が声を掛けてくれた時だ。そんな風に、目に見えないこと、理屈の通らない不思議なことはたくさんあってな。そういう不思議を感じることができると、人間がいかに小さくて無力な存在かってことがわかってくるんだ。だから昔の日本人ってのは謙虚で、我慢強くて、美しいと言われていたんだ。

 

これは前回読んだ本にも通ずるところがあります。

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これは古屋の言葉、

学問とはそういうものだ。大局的な使命感を持たなければ、たちまち堕落する。自らがどこへ向かって進むべきかを見失っている学者は、目先の新しいこと、奇抜なことを特別な発見であるかのように錯覚し、他者を攻撃することで自身のささやかな業績を誇ろうとする。柳田國男の下宿の家賃を調べて喜んでいるくらいならまだ可愛いが、一歩も研究室から動かず、卓上の資料を科学や統計学の刃でもって裁断し、学者の側に都合のいいように解釈して、偉大な先人たちを越えた気になっている連中まで目にすることがある。学問の衰退もここに極まるといったところだ。

 

この国には、この国特有の景色がある。その地に足を運ばなければわからない、不思議で理屈の通らぬ、怪しささえ秘めた景色だ。その景色と向き合い、何が起こっているのかをただ見るだけでなく感じ取らなければいけない。

土地を歩くということは楽なことではない。苦労も苦悩も厭(いと)うてはならない。どうせ歩くなら、抜け道でも近道でもなく、王道を歩きたまえ。

 

頼るべき指針を失い、守るべき約束事もなく、ただ膨張する自我と抑え込まれた不安の中でもだえているように見える。精神的極貧状態とでもいうべき時代だ。

 

どうすればこの貧しさから脱出できるのか、誰かが考えなければいけないが、かつてこの道に向き合ったはずの多くの学問が、今はことごとく目を逸らしているように見える。神学は過去の遺物となり、医学は科学の先兵に成り果て、哲学は言語ゲームに興じ、文学は露悪趣味に堕している。

 

民俗学の出番だとは思わんかね。 

 

 これは学問をする時に意識したいことですね。

 

 

 フィクションではあるのですが、そこから考え方や在り方など、

学ぶことが多くありました。

 

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 こうやって足袋で旅することは、

私にとってのフィールドワークとなっているのかもしれません。

 

 

知らず知らずのうちに古屋先生っぽいことをしていたこともあり、

民俗学に興味が沸いてきました。

 

まずは柳田國男さんの「遠野物語」読もっと!

 

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

新年一発目から良い本発見!の話

 

今回読んだ本はこちら。

日本習合論

日本習合論

 

 

内田樹さんの「日本習合論」

 

「習合」と聞くと、「神仏習合」や「神仏分離」というワードを思い出し、

日本の歴史をイチから考えさせられます。

 

この本を読みながら、なるほどなぁと考えさせられたことをまとめていきます。

 

 

 

「雑種」は日本文化の本態である

 

一言でいうと、コレに尽きます。

(まぁ、一言でまとめようとするあたり、筆者の考えとは違うのでしょうが笑)

 

 

日本に仏教が伝来してきたとき、

排除するのではなく上手く神道の神と習合させた。

 

海外から新しいものが入ってきたときも、

それを上手く日本風に取り入れ、圧倒的なクオリティに高めてしまう。

 

これが日本という島国が選択した生存戦略でした。

 

 

ところが明治維新の頃、「神仏分離」をした。

神仏分離」を通して新政府が何をしたかったのかは言える。

しかし、そうした理不尽な命令に対して、なぜ組織的な抵抗運動があまり起こらなかったのか、

筆者はそこに疑問を持ちます。

 

そして

「なぜ起きたのか?」

という視点とともに、

 

 

「なぜ起こりうることが起こらなかったのか?」

という視点も大事にしていきたいと述べています。

 

 

私も「なぜ?」「どうして?」と考えることが好きですが、

「なぜ起こりうることが起こらなかったのか」という視点で物事を考えることは少なかったように思います。

こうした視点から物事を考えてみうのも面白そう!

これからやっていこうと思います(^^)

 

 

現実と非現実の境界線をきちんと引くことはむずかしい

 

 筆者は武道をされているのですが、

脳内に生じる「念」が、現実に影響を与えることがかなりあるそう。

 

例えば「相手の腕をつかんで…」と目の前の現実を相手にするよりも、

「想像上の剣を…」というようにその場にないものを操作するほうが技が効くことがあり、

「現実に存在しないものとかかわっているほうが現実変成力が大きい」

ということがよく起こるそうです。

 

 

現実に居つくと「念」が生じ、心身の能力が低下する。

だから武道の稽古では「念を去る」とか「無念になる」ということが言われる。

 

 

ときどきこうして「外部のもの」が境界線を越えて、人間たちの世界に侵入してくる。

逆に人間が境界線をうっかり踏み越えて、「外」に迷い込んでしまうこともある。

 だから「外部のもの」を迎え入れたり、押し戻したりするための、あるいは「外」に迷い込んだ人を呼び戻すための儀礼や戒律が伝統的に存在する。

 

(中略)

 

どの宗教においても、儀礼や戒律の起源は遠い人類史の闇に消えている。どういう起源から発生したのか分からない。そういうときに「だからそんなものには意味がない」と言い切れる人と、「いや、そこには古代人には感知できたけれど、現代人には感知できない、何らかの働きがあったのではないか」というふうに留保をつける人がいる。僕は後者を「霊的にピュア」な人というふうに類別したい。人知によってははかり難いことによって僕たちの世界は満たされている。シェークスピアだって、そう言っている。

 

 

「外」っていうのが、いわゆる「サムシンググレート」やら「無我の境地」やら「神の領域」という言葉で表される部分だろう。

「そんなものは存在しない」と言い切ることもできる。

「もしかしたらそういうものもあるのかもしれない」と考えることもできる。

 

自分にはそういうものは感知できないけれど、

後から振り返ると「あれってものすごい神がかり的なことだったな」

と気づかされることがたまにある。

人の縁とか。

 

自分には直接的な能力は無いけれど、

自分に気づかないように、上手く周りが動いているのかもしれない。

 

あ、これが「霊的にピュア」ってこと?(^^)笑

 

 

人を見る目

 

 「人を見るときは、自分の哲学を持っているかどうかを基準にしろ」

 

筆者が、筆者の父親から何度も聞かされたことだそうです。

 

戦後の極限状態を生き延びた人にとって、

「人として信じるに足るかどうか」は重要。

 

こうやってブログにあれこれ気づきや学びをまとめていますが、

それは自分の哲学を持つことにも繋がっているのかもしれません。

そして忖度せず正直に書いてます。

迎合はしません。馴れ合いも好きじゃない。

 

少数派には少数派の価値がある。

と思わなきゃやってらんないよね(^^)

 

 

「理解と共感に基づく共同体」はつらい…

 

家族が地獄になるのは、親が子どものことを理解していると思い込んで、事細かにコントロールしようとするときと、子どもが親に対して「オレのことをもっとわかってくれよ!」という無体な要求をするとき。いずれも家庭はメンバー同士の相互理解と共感の上に築かれるべきだという信憑がもたらすトラブル。

 

わかるー!

別に自分がそういう状況にあるわけではないけれど、

こういう状況に苦しんでいる人って結構多いのではないかと思う。

 

相手のことが分からないから、もっと知りたいと思うものだし、

でも完全には分かり合えないのだろうなというちょっと寂しい思いもある。

それが人間関係の基本なんだよなぁ。

 

筆者の主張に同意ってことは、やはり少数派だね、自分は(^^)

 

事大主義の再来

 

「事大」とは「大に事(つか)える」。

「寄らば大樹の陰」「長いものには巻かれろ」と同義で、

弱い者が強い者の言いなりになって、身の安全を図ること。

 

 高度経済成長期というのは、人々は「身の程を知らない欲望」に駆動されて、「おのれの分際をわきまえず」に枠を踏み外し、「身の丈に合わない」大きな仕事を引き受けた。国に勢いがある時はそういうもの。

「早めに自分のキャラを設定して、自分のタコツボを見つけてそこに一度はまり込んだらそこから出るな」

こうした定型句が二十一世紀に入ってから増えた。それは単純に日本人が貧乏になったから。 

 

(中略)

 

「現状に不満があったら、まず現状を変えられるくらい偉くなれ」という言明は、人を現状にくぎ付けにするためのもの。

勝ち残ることができなくて途中で脱落すれば、現状は変えられない。

勝ち残ってしまったら「自分を出世させてくれたシステム」を変える必然性がなくなる。

 

これはまさにそうだなぁ。

意見が言えるような立場になるまでに相当な時間が掛かってしまいます。

そのうちに熱が冷めたり純粋な気持ちが薄れてしまったりするかもしれません。

現状を打破したいなら、思い立った時にやるしかないですね(^^)

 

 

 

タイトルの「日本習合」ということと少しずれてきているような感じがしますが、

要するに多様な価値観を尊重すべき、ということかなと。

 

この後はいろいろな事例が語られるのですが、それをすべてまとめているととてもじゃないけど時間が足りないのでカットで。

 

 

 

ただ個人的に一番興味を持ったのが「食」に関してのこと。

 

 

まぁ自分がこうやって畑をやっているからなんでしょうが。

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自然農の畑は、

・肥料を入れない

・農薬を使わない

・耕さない(私は少し耕してるけど)

 

という極めてシンプルなもの。

 

筆者はこの本を通して「純化」「シンプル主義」への「恐怖心」を伝えているのに、

それと反しているような気がします。

 

しかし実は慣行農法の方が、よりシンプルなものなのかなと。

耕して、肥料を入れて、薬を使って、

同じようなものを安定的に作るわけですから。

 

しかし自然農は人の介入を最小限に、シンプルにしているのであって、

実際はもの凄く複雑。

多様な虫や微生物、植物が関係し、絶妙なバランスで成り立っています。

できるものの味も形もばらばら。

よくできるものもあれば、そうでないものもある。

そんなもんです。

 

ただこれは筆者も言っているように、

どんなものでも美味しく食べられることが、生存に有利。

他の人と競争にならないわけだから。

 

 

慣行農業は慣行農業で必要。

無ければ外食産業を支えることができません。

 

あとは自分が何を選択するか、それだけ。

いろんな形のものがあること、多様性があることが一番良いのだろう(^^)

 

 

あと、

 

富はいくらでも増やすことができる。

農作物はたくさん取れたところで、人が食べる量には限りがあり、

それを越えた部分は廃棄するしかない。

農作物は商品ではなく、

農業に市場経済理論を持ち込むのは、そもそも無理がある。

というのもなるほどなぁと、納得!

 

 

民主主義と非民主主義の違い

 

最後に民主主義について。

 

民主主義ってとにかく決定が遅い。

いろんな立場の人のことを考えるので、これって結局誰のため?

という結論になることもある。

 

正常性バイアスがかかった眼で現実を眺めて、どれほど効率的にシステムを回すかということばかり考えている人間から見ると、民主制ほど効率の悪い政治システムは無いように見える。確かにその判断は正しい。

国運が上昇している時は、独裁制の方が効率が良いに決まっている。決定が早いから。おかげで国民も豊かになる。多少の市民的自由の制限を受け入れてもおつりがくるくらい「いいこと」がある。でも一旦「つまづく」と非民主性は脆い。「ここを支えろ。ここの穴を塞げ」という指示があれば人々は動きますが、「ここを支えないとまずい。ここの穴を塞がないと大変なことになる」と分かっても、自己裁量でつっかえ棒を噛ませたり、穴を塞いだりする人間が出てこない。久しく自己裁量ということそのものが禁止されていたから。「トップは無謬である」という前提で制度設計がなされている政体では、現場で自己裁量で決めることは原理的に許されない。でもシステムの危機というのは、中枢的にコントロールが利かないくらいに同時多発的にトラブルが起こること。そういうトラブルには現場現場が自律的に動くシステムでないと対応できない。

独裁制では、極端に言えば、賢者は独裁者ひとりでいい。賢い独裁者以外は全員、上の指示に従うだけの幼児で構わない。逆に民主制では、誰の指示が無くても、自律的にシステムの最適解を見出して、それを実行できる人をできるだけ多く要求する。民主制は市民の成熟から大きな利益を得るシステムであり、非民主制はそうではない。だから長期的に見ると、民主制を維持している方が「大人」がたくさん生まれる。民主制が「長期的に見ると他の政体よりまし」なのは、そういう理由によるのだと僕は思います。

 

なーるほどー!

確かに上向きな時のことばかりを考え、下降傾向に陥ったときのことは考えてなかったなぁ。

最初は強いリーダー性によって引っ張っても良いのかもしれない。

しかし次第に、信頼して任せる。

失敗も経験として成長につながるように。

 

当たり前と言えば当たり前のことかもしれませんが、

ちょうどいいタイミングで思い出させていただきました(^^)

 

 

 

学び多く、非常に良い一冊でした!

新年早々良い感じ✨

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

最近は小説を、の話。

 

今回読んだ本はこちら。

ツナグ(新潮文庫)

ツナグ(新潮文庫)

 

 

辻村深月さんの「ツナグ」

 

辻村さんの作品を読むのは2作目。

以前「かがみの孤城」を読んだことがありました。

かがみの孤城

かがみの孤城

 

 

その時はおススメされて読んだのですが、

おもしろくって一気に読み切ったことを覚えています。

 

そして今回の「ツナグ」もまた、おススメされたので読んでみました。

(ツナグの方がかがみの孤城より過去の作品だけど)

 

 

一生に一度だけ、死者との再会を叶えてくれるという「使者(ツナグ)」。

使者である主人公の歩美と、依頼主ごとに違うエピソードがまとまった長編小説です。

 

かがみの孤城を読んでからだったので、小学校高学年くらいでも読みやすいものかと思いきや、

生者と死者、立場の違う両者の心情から、生と死についても深く考えさせられる、

深いというありきたりな言葉でしか説明できない自分の語彙力のなさを恥ずかしく思う作品でした。

 

最初は「同じようなエピソードが続くのだとしたら先が長いなぁ」と感じながら読んでいたのですが、

「親友の心得」の章、女子高生のストーリーで、一気に没入スイッチ入りました。

この心理描写、すごいわぁ(またしても語彙力のなさが…)。

 

そして最終章、「使者の心得」も良かった。

個人的に、それぞれの章が独立しているのではなくて、どこか繋がっているパターンが好きなのでそれもハマった要素の一つ。

 

 

最近はYouTubeで動画ばかり観ているのだけれど、正直飽きてきた。

動画は分かりやすくていいのだけれど、その分かりやすさがつまらなさにもなる。

 

何か新たな情報、ノウハウを得たいときには、動画は分かりやすくていい。

DIYやら料理やら。

 

ただ物語は、分かりやすさが邪魔になる時もある。

自分の経験と重ね合わせたり、想像で補ったりできる余地が欲しい。

 

映画って難しいなぁ、と思う。

一つの物語を語るのに、2時間という尺は短い。

結果として詰め込みすぎになってしまうし、かといって時間を伸ばしてだらだらと続くのも飽きる。

最近はストーリーよりも映像美で勝負してる感があるので、ちょっと私の望むものとは違う。

 

ただ、小説は小説で、読むのに時間が掛かるんだよなぁ…

そのあたりも、難しいなぁ。

 

 

絵本やらマンガやら、絵があると分かりやすい。

しかしその分かりやすさに、いつか飽きる時が来るのではないか。

活字の本を子どもに読ませたいと思うなら、

まずは飽きるほど絵本やマンガを読ませればいいのではないかと思う。

絵本やマンガには絵本やマンガの魅力があり、

活字の本には活字の本の魅力がある。

 

同じように、ラジオなどの音声には音声の、

テレビ、映画、YouTubeなど、動画には動画の魅力がある。

 

これらは対立するものではなく、

どれが優れたものか、と考えるのも少し違う気がする。

 

それぞれの良さがあり、あとは好み。

私は、よりシンプルなものが好きかな。

そう考えると、情報を極限まで削った「俳句」という文化、凄いなぁ。

ハマったりして(^^)

 

 

 

あ、「ツナグ」には続編もあるらしいので、

いつか読みたいなぁと思います。

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

同じタイミングで同じ本を!?の話。

 

今回読んだ本はこちら。

モモ (岩波少年文庫)

モモ (岩波少年文庫)

 

 

ミヒャエル・エンデ作の「モモ」です。

 

ずっっっっっと前に一度、読もうと思ったことがあったのですが、

長くてその時は途中で挫折しました。

 

しかしいつかまた読みたいなぁと思っており、

今回ようやく最後まで読むことができました。

 

対象は小学校5・6年生以上とありますが、

大人が読んでも十分楽しめると思います。

 

というよりも、絵本のように、

大人になってから読むとまた違った気付きを得られるような、

忘れていた大切なことに気づかされるような、そんな感じのする本です。

 

主人公モモが時間泥棒に立ち向かっていくストーリーにわくわくし、楽しく読めるのはもちろんですが、

自分自身の「時間」の使い方についても考えさせられます。

 

効率の良いこと、速いことが良いことのように思われますが、

そうやって生み出した時間を何に使うのか。


そこが一番大事なのに、忙しさの中で考えることすらしなくなってしまう、できなくなってしまう、

それでは本末転倒だなと思います。

 

 

最近はこんな感じで、 

www.futaba1107.com

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畑仕事やら足袋旅やらをしているわけですが、

効率を求めないこと、一見無駄と思われることをする方が、

かえって充実感を得て、凄く楽しいです(^^)♪

 

これが生きた時間の使い方ってことなのかなぁ、なんて。

 

 

 

 

 

そして!

 

 

な、な、なんと!!

今日!!

 

www.youtube.com

 

オリラジのあっちゃんも、

YouTube大学で「モモ」を紹介しているではありませんか!!!

 

 

同じようなタイミングで、同じ本を読んでいるなんて!

 

ビックリだ!!

 

 

 

長めの本ではありますが、それだけの時間を費やして読む価値ありです✨


年末年始など、時間のある時に是非読んでみてください!

おススメします(^^)

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

またもやお笑い芸人さんの本を、の話。

 

今回読んだ本はこちら。

哲学 (幻冬舎よしもと文庫)

哲学 (幻冬舎よしもと文庫)

 

 

島田紳助さんと松本人志さんが、

お互いの価値観について語ったことをまとめた一冊です。

 

お笑い芸人は人を笑わせることが仕事。

傍から見れば楽しそうだけれど、きっと本人たちには本人たちの大変さがあるはずです。

しかしテレビではそうした姿は見せず、むしろ笑いに変えてしまったりする。

 

そうした姿から何か学べることは無いか、

またどうやって人を惹きつけているのか、

そう思い、芸人さんの本を探していました。

 

中でも特に、島田紳助さんの本を探していました。

しかしなかなか見つからず。

そんな時にようやく見つけたのがこの本でした。

 

 

ちなみに前回読んだのは光浦靖子さんの本も、

その時に一緒に見つけたものでした。 

www.futaba1107.com

 

 

どんな内容かなぁと思って読んでみると、笑いの要素はほぼ無し。

なかなか真面目な内容でした。

 

随分と前の本なので、今とは価値観が変わっていることもあるかもしれません。

特に松ちゃんは、茶髪なんて、と言ってるのに今の自分は金髪だし。

 

 

B&Bというのは名前だけは聞いたことがありました。

その一人が島田洋七さん。「佐賀のがばいばあちゃん」の。

紳助さんが洋七さんに憧れていたとか、そうしたことは初めて知りました。

そこから徹底的にネタを分析し、ツービートが人気になっていったことも。

 

そしてまた、松ちゃんが紳助さんに憧れていたことや、

ダウンタウンの登場にツービートが解散を決めたことも。

 

こうした知らなかった過去の話を知ることができ、面白かったです(^^)

 

 

CDを買ってほしいという娘の要望に応えなかった紳助さん。

自分で買わないことには、真の喜びは得られないから、ということらしい。

そうした話をしっかりと子どもたちとする。

紳助さんの教育観、さらに気になるなぁ。

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

たまにはさらっと読めるような本を、の話。

 

ある時ふと、この記事を目にしました。

news.yahoo.co.jp

 

光浦さんのことは、めちゃイケでずっと観てきました。

ブスキャラとしていていじられつつも、それが彼女の芸風であり、

それなりのポジションを得ているのだと思っていました。

 

ところが女性芸人が増えたり、めちゃイケが終わったり、

このコロナ禍で仕事が無くなったり、

 

記事に「仕事がない=価値がない、としか思えなくなってしまいました」とあるように、これまで仕事一筋でやってきたような人ほど、仕事がないことが精神的にも大きなダメージとなってしまうのかなぁと思います。

 

時間的なゆとりが生まれ、海外留学しようと思うも、それも叶わず…

あれあれ…

 

でも今この機会に、これまでの生き方を見直し、

新しいことを始めてみようという人は多いのではないかと思います。

 

飾らない等身大の生き方が素敵だなぁと思って、

光浦さんの書かれた本を探して読んでみました。

 

ハタからみると、凪日記

ハタからみると、凪日記

  • 作者:光浦 靖子
  • 発売日: 2018/06/22
  • メディア: 単行本
 

 

「はじめに」には、

 

この日記を読んで、

なんだこの人もたいしたことねーな、

自分のほうがマシだな、と思っていただけたら、

これ幸いです。

 

とあります。

 

全くもって、大したことない人でなどではないのですが、

自虐っぽい書き方が共感を誘い、読者を勇気づけてくれます。

 

テレビで長年活躍している人でもこうなんだなぁ、と。

 

 

 

 

とあるトラブルに巻き込まれ、「怒り」しかなかった光浦さんが、

そのトラブルをも楽しむ仲間を見て思ったこと。

 

「正しい、正しくない」じゃなくて、

次に笑っていられるにはどうしたらいいかを優先すること、

それが大事なんだ!

 

相手の間違いを指摘することもできる。もちろんそうした方が良い時もある。

しかし旅行のように、せっかくの楽しみたい時間を、わざわざ相手の間違いを指摘して怒りの感情に振り回されるのはもったいない。

「次に笑っていられるにはどうしたらいいか」っていいなぁ(^^)

 

 

いろいろなエピソードから光浦さんのものの見方や考え方を知ることができたり、

その書き方がなんとも心地よいものであったり、

 

ビジネス系、自己啓発系の本やYouTube動画は、許容量を超えると良くないなぁ。

行動できていない自己の否定になってしまったりする。

 

だからと言って行動しないことを正当化するわけではなく、

時には小休止、適度な休息も大事だよね、と。

一回休んで、それからまた動き出せばいい。

 

光浦さんだってものすごい努力家なのにそれをひけらかさず、むしろ自虐的。

彼女の文章から「自分も、ぼちぼち頑張るかぁ」と活力をいただき、癒されたのでありました(^^)

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪