一歩先に進むためには「ゆるむこと」の話。

 

休み時間中、

最近私が頑張っていること。

 

それは、

 

一輪車

 

 

始めたきっかけは忘れましたが、

やり始めたらハマりました(^^)

 

良い感じで乗れたと思っても、

最初は5,6漕ぎが限界でした。

 

 

そんな姿を見かねたのか、

ある時から師匠が現れました。

 

 

師匠は小学2年生。

 

日々、

「今日はここから〇〇まで。できなかったらもう一回。」

と課題を出してくれます。

 

休憩時間はありません。

 

疲れて休んでいると、

「それじゃあ、△△まで行くからついてきてね。」

と、なかなかスパルタです。

 

 

止まってしまうとバランスを崩しやすくなってしまいますが、

前に進んでいるうちはバランスが取りやすいです。

これは自転車とも似ていると思います。

 

しかし自転車と違うところが、強く漕いではいけないということ。

強く漕ぐと、そちらにバランスを崩してしまいます。

 

一漕ぎ一漕ぎ、力んでいるので、

前に進めたとしても、真っ直ぐではなくジグザグジグザグ。

 

わずか15~20分ほどの練習ですが、

終わるといつも足がガクガク。まともに歩けませんでした。

 

 

ある時、転機が訪れます。

連日の特訓の疲労が溜まったからか、漕ぐときに力が入れられなくなりました。

 

そうしたら、すいすいと漕ぎ進めることができました。

一度その感覚を掴んでからは、どんどん距離が伸びていって、

今では50mはいけるようになりました!

 

 

 この感覚、どこかで経験したことがあるなぁと思えば、

 

 

 

まずはゴルフ!

 

最初は力が入ってスイングしていたので、すぐに手にまめができました。

芯を食わなかった時の衝撃がまた、痛いのなんの。

 

振り続けたら疲れて、あまり力まないようになってきて、

それからスライスしなくなりました。

それどころか、軽く振っているのに、飛距離も伸びました。

 

始めた頃は、ボールがあっちにこっちに。

カートに乗る時間などなく、常にクラブを持ってボールを探しにダッシュ

 

でもそうしていると疲れて力が抜けてきて、いいショットが打てたりしました。

 

 

 

 

それから、

 

スノーボード

 

 

最初のうちは力技で板をずらすようなターンでしたが、

ずっとそれをやっていると足が疲れます。

 

なので長いコースを休憩なしで滑れませんでした。

滑り終わると足がガクガク。

力を抜いた方が良いことは分かっているけれど、

逆エッジで転ぶのは怖いので、常に身も心も緊張しっぱなし。

 

しかしある時から疲労がピークに達し、踏ん張れなくなります。

 

その時、力に頼らず重心移動で、

エッジの噛んだ良いターンができたりしました。

 

 

そして極めつけは、

 

授業(^^)

 

 

ここではこういう発問を、

時間はこれくらいで、

 

と、練りに練った授業ほど、

あれもこれもと盛り込みすぎ、

力んでしまって、消化不良に。

 

費やしたものの割に効果が薄い。

 

 

案外と、

何の変哲もない、

いつも通りのふつーうの授業の方が、

 

「あれ?今の時間、なんか神がかってたな。」

 

と思うことがあったりします。

 

子どもたちもよく理解できているし、

毎回、不思議だなぁと思います。

 

 

 

では手を抜けばいいのかと言えば、そういうわけではなく、

 

ゴルフだってクラブを振らなければならないし、

あまり意識してはいませんが、インパクト時には、一瞬グッと力が入っているのだと思います。

 

スノーボードも、ターンに入る前の角付けの時には、

グッと踏ん張っています。

それ以外は結構リラックスしています。

 

授業の中でも、「なんか今良かったな」という時には、

きっとポイントポイントで、必要な力が加わっているのだと思います。

 

 

もちろん最初は、ノウハウや型があったり、師匠がいたりしても良いのだと思います。

でもそれを忠実に守っている段階では、そこから先へはなかなか進めなくて、

 

一つは、忠実にやり続けた末に、意識しなくとも自動化された時。

つまりは、ゆるんだとき。

 

一つは、忠実にやり続けて、「もうこれ以上は無理」と限界が来たとき。

つまりは、ゆるんだとき。

 

 

一歩先に進む道が拓けるのかなぁと思います(^^)

 

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

「おかげさま」の話。

 

 今回読んだ本はこちら。

 

おかげさまで生きる (幻冬舎文庫)

おかげさまで生きる (幻冬舎文庫)

 

 

矢作直樹先生の、「おかげさまで生きる」。

 

このブログでたびたび紹介している保江先生。

その保江先生に「業捨」という施術を紹介したのは矢作先生。

なので矢作先生の本をいつか読もうと思っていたところでした。

 

 

保江先生や業捨については、以下の記事を

www.futaba1107.com

www.futaba1107.com

www.futaba1107.com

 

 

救急医療の最前線で、多くの人の生と死と向き合ってきた矢作先生。

その矢作先生が何を語るか。

読んで心に残ったことをまとめました。

 

 

 

体が衰えても楽しいことは見つかる。

 

そもそも体を大事にすることにお金はさほどかからない。

質素だけれどバランスの取れた食事、適度な運動、穏やかな心持ち、たったこれだけの要素を大切にするだけで、つまり、その生活シーンごとの「質」をしっかり保つことで、誰しも本来持つ輝きを失わない。究極は何も気にしないこと。

不老不死というのも、いつまでも若くありたい、人と比べてきれいでいたい、老いたくない、死にたくない、といった欲望が滲み出た言葉。

 

エイジング(加齢)を楽しむ余裕を持つこと。

余計な見栄を張らず、周囲の評価を気にせず生きている人は、輝いて見える。

 

多額の費用を要するような健康法や治療法などは、本来自然なことではないのだと思います。

そうしたものに頼らなくても済むようにするには、日々の生活の質を高めること。

それも無理にではなく、できることを、自然に。

 

 

人生は「運・鈍・根・金・健」

 

矢作先生が若い頃、恩師からもらった言葉。

「運・鈍・根・金・健」

周囲に振り回されずに自己実現するには、運気、鈍感、根気、金銭、健康が大切な要件。

必要以上にそれらを欲することは無明にほかならないが、ある程度身につけることで他人が気にならなくなる。

 

ではすべてにおいて鈍感だったらいいのかと言えば、そうではなく、私たちに普段見えないもの、人とのご縁、霊性、おかげさま、お互いさまなどのエネルギーに対しては、逆に敏感になることが必要。

目には見えないからこそ、そういうものが自分の周囲に存在するのだという意識が必要。ここは鈍感になってはいけない。

 

目には見えないものには敏感に。

世の中のせわしなさには鈍感に。

意識レベルを高めるには、二つのスタイルが重要。

 

最近物事が気にならなすぎて、それはそれでどうなんだろうというくらい笑 

鈍感力、最高です(^^)

 

その反面、目には見えないけれど、そういうものもあるのかなと思って、大切にする感覚もなんとなく分かります。

スピリチュアルとかどうこうというわけでなく、すべての物事に対して「ありがたさ」を感じることによって、心豊かな生活を送れるからです。

目に見えないものを信じることで、かえって苦しくなるのならば、そういうものとはさようならだと思っています(^^)

 

 

 

私はもともと、目に見えないものや理論的に証明できないものは信じないタイプです。

だって、見えないので(^^)

 

しかし今理論的に証明できているものは、「過去に誰かが理論的に証明したから」です。

それ以前は、「理論的に証明できないけれど、きっとなんらかの力がはたらいている」という解釈だったのでしょう。

 

そう考えれば、今目に見えているもの、理論的に証明できているものが全てではなく、まだまだ観測できないもの、分からないこともたくさんあるのだと思います。

 

 

自分の置かれた場で、自分にできる最善のことを尽くす。

そうしているうちに、「なんだかよく分からない、大いなるものに支えられている、応援されている」というような感性が磨かれるのかもしれません。

 

それが「おかげさま」ということかな!

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

畑を通じたコミュニティーの話。

 

「先生、畑を始めました!」

 

先週、子どもたちから言われた言葉にびっくり。

 

 

どうやら家に使っていない畑があるらしく、

何人かで集まって耕し、畝を作り、種を蒔いてみたとのこと。

 

 

まさか、自分のやっていることから興味をもち、

畑を始める子が出てくるとは思わなかったです。

 

おじいちゃんおばあちゃんが手伝ってくれているはずなので、

これをきっかけに孫たちとの関わりが増えたのなら、良いですねぇ。

 

 

畑の良いところって、野菜が育つ様子を実感できること。

そして収穫したら食べられること。

この体験ってすごく大きい気がします。

 

規模が大きくなければ、そんなに手もかかりません。

遊びのレパートリーの一つとして。

販売目的でないから、いろんなことを試せます。

 

畑を遊び場として子どもたちが集う。

なんて豊かな経験なのだろう。

 

 

大人になって、

仕事は仕事で別にやりつつ、

こうやって共同で畑を運営し、自分たちで食材の一部を賄う。

 

これからの時代の生き方としていいかも(^^)

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

「時間割」の話。

 

「これから〇時間目の△△の授業を始めます、礼」

 

という挨拶に始まる授業が日に6回。

週5日間で計30回。

 

今回、時間割について考えるきっかけになったのが、

キンコン西野さんのこの動画。

 

www.youtube.com

 

始まった瞬間から一気にエンジン全開ならいいけれど、

だんだんと乗ってきたところで、チャイムが鳴って終了、

というのはよくあること。

 

その5分、10分後には、また他教科の学習モードに切り替えなくてはいけない。

 

 

西野さんが言うように、ゾーンに入っているときにブレーキをかけなくてはいけないのって、すごくストレスがかかるし、何より生産性が落ちる。

今やっていることに没頭するという、子どもの頃に多く経験しておいたほうが良いだろうなぁと思うことの妨げにもなってしまう。

 

 

 

一番いいのは、自分で好きなように時間割を組んで取り組むこと。

やりたいときにやりたいことをやれる。

 

でもそうやって自分で時間割を組めるだけの力があるのなら、

わざわざ学校に行かなくとも、オンライン動画などで自分で勉強できる。

またはそうした学校を選択して通えばいいだけのこと。

 

多くの人はなかなかそうはできない。

 

 

一般の公立校でできることは無いだろうか。

 

 

 

 

そこで思ったのが、

 

 

 

なるべく途切れないよう、

2時間続きでやればいいじゃん!

 

 

 

生活科や図工などでは、準備の関係や活動内容の都合で、2時間続きでやるというのはよくあること。

しかしなぜ国語や算数などの教科は、2時間続きでやらないのだろう。

 

ずっと先生の話を聞かなくてはならない、というのであれば、

それでは集中力が持たない。

 

しかし今はずっと話を聞いていることなんてほとんどない。

説明を聞く時間があり、演習の時間がある。

 

なんとなく1時間の中で1つの課題に取り組むというのがスタンダードっぽい。

でもたまに時間が余る、なんてことがある。

 

 

これがもし2時間続きになったなら、挨拶に要する時間が減るし、

何より外的要因によって集中を途切れさせられるということが減る。

 

一度集中モードに入ったときの人間の力はすごいもので、

2時間で2つの課題ではなく、3つ以上の課題をこなせる子もでてくるはず。

 

そうすれば少ない時間で一単元の学習を終え、

余った時間を復習の時間に費やすなどし、理解をより深めることができる。

手をかけるべき子に手をかける時間も生まれる。

 

 

時数は増えないのにやることばかり増えていく現状。

それを窮屈に感じるのは、教員だけでなく子どもも同じ。

 

 

1教科2時間続きでやれば、1日に3教科やればいい。

そう考えると授業に対する負担感がかなり減る気がする。

 

もちろん中には2時間続きでできないものもあるだろうけど(さすがに体育の連続はキツいし、専科の授業もある)、1日に1教科でもこうやってできれば、時間的にも精神的にも、だいぶゆとりが生まれるように思う。

2時間連続と言っても、45分(50分)×2コマの90分(100分)。途中に小休憩も入るので、そこまで長時間には感じない。

45分(50分)で6回にぶつ切りにされるよりはマシな気がする。

 

 

大胆な改革はなかなか難しいけれど、

これくらいのちょっとした取り組みならいけそうな気がする。

 

これから少し試験的に取り組んでみようかな(^^)

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

積読を解消中。

 

今回読んだ本はこちら。

明日この世を去るとしても、今日の花に水をあげなさい

明日この世を去るとしても、今日の花に水をあげなさい

 

 

BOOKOFFで購入し、ずっと積読だった一冊。

 

読んで心に残ったことをまとめておきたいと思います。

 

 

 

「命よりも大切なものはない。命が一番大事」とは考えない方がいい。

命が尊いことは確かだけれど、「自分の命よりも大切なものがある」と思ったほうが、私たちは幸せな人生を送ることができるよう。

「命が何よりも大切」と考えてしまうと、死はネガティブなもの(命の敵)になり、あるときを境に死におびえて生きることになる。

 

医師として多くのがん患者さんと接してきたからこその言葉だなぁと感じます。

自分の命よりも大切なものがあるからこそ、自然と自分の命も大切にできる、そんな気がします。

 

 

 

人生において本当に大切なものは少ない。あったとしても一つや二つぐらいのもの。

自分でなくてもできることは人に任せる。他人に譲る。そうすると暇になって、自分にしかできないことに時間をかけられるようになる。それに専念する。

 

自分にしかできない役割や使命を持った人は、みな暇そうに見えた。

地位や名誉がある人たちだから、本当はやることがたくさんあって忙しいはず。でもこうした人たちは物事の優先順位を知っているから、すべてを自分でやろうとはせず、そのほとんどを人に任せ、自分にしかできないことをやる。

だから忙しいのに暇そうに見えた。いわゆる「暇げ」な風貌をしていた。

昔の偉い人はみなそう。あれもこれもじゃない、これしかない人生。

何でもかんでも「自分が、自分が」という生き方には品性が感じられない。

 

 

最近の自分は、前ほどあれもこれもと手を出さなくなりました。そうすると今度は、少し手持ち無沙汰なような。

何か新しいことを始めようかなと思うも、「これ!」というものも特になく。

 

「これ!」というものが見つかったときにすぐに舵を切れる、そんな準備状態にあるのかなと思いました。

 

 

トップでゴールできればそれは確かに素晴らしい。しかし、トップの人にだけ価値があって、ビリの人には価値がないかというと決してそうではない。ビリでゴールした人にもトップとはまた違った価値がある。周回遅れになっても、最後まであきらめずに走り終えた人の姿に私たちは感動したり、勇気づけられたりする。周回遅れにも周回遅れなりの責任がある。「1周遅れの先頭の責務」

 

病気になって人に遅れを取ってしまったからといって焦らなくてもいい。

失敗して無駄な時間を使ってしまったからといって焦らなくてもいい。

うまくできないからと焦らなくてもいい。

むしろゆとりをもって、品性を保ちながらやり続けることが大事。

 

自分がなぜこうしていろいろと手を出したり、本を読んでブログにまとめたりするのかと言えば、これまでそうしたことをしてこなかったから。

時間が山ほどあったのにそれを無駄にしてしまったような想いが、今の自分を動かしているような気がします。

でも今こうして動き回ったり考えをまとめたりできるのは、そうした過去があったから。そうした過去のおかげ。それもまた準備期間。

「焦らなくてもいい」という言葉に救われました。

 

 

人間はみなそれぞれ違っています。顔が違う、声が違う、性格が違う、短所も長所も違う。そういう意味では、わたしたちは平等ではありません。

最近、子どもたちの運動会で順位をつけないという話を聞きますが、これは平等の意味を取り違えているように思えます。

本当の平等とは、相手の能力を認めることから始まる。自分ができないことを相手ができたら、その能力を認めてあげる。その逆に自分にできて相手ができないことがあったら、そこは相手に認めてもらう。これが本当の平等。

1位は1位、2位は2位、ビリはビリという社会でなければいけない。順位をつけることが相手の能力を認めることにつながり、ひいては自分自身を認めることになる。相手を認められない人は自分のことも認められない。自信が持てない人。

 

相手を認めるように、自分のダメな部分を認めることができれば、自分には何ができて、何ができないかが分かってくる。それがその人の役割や使命につながっていく。

 

みんなが同じことをするのが平等ではない。

誰にもできることがあり、できないことがあり、それぞれにぞれぞれの役割や使命がある。

そうした意味での平等。

他者と比較して過度に卑下することなく、そこから自分の役割や使命を見出しいていくところに力を注ぎたいなぁ。

 

 

役割や使命は、自分のことばかり考えているうちはなかなか見つからない。むしろ自分以外のものに関心を持つと、自分のするべきことが見えてくる。

 

私たちを襲う不安、困難、恐怖は、深く自分を見つめることで解決できることがある。それとは逆に、考えれば考えるほど不安や悩みが強まり、怖くて何も手につかなくなってしまうこともある。

深く考えることがマイナスに働くときは、あえて「自分」を放棄してみる。自分のことを忘れて、他のことに心を向けてみる。

 

内を見つめたほうがいい時もあるし、外に目を向けたほうがいい時もある。

要はバランスなんだろうなぁ。

最近そこを行ったり来たり笑

 

 

命は誰かの所有物ではない。

私たち一人ひとりが天から与えられたもの。与えられたものは大切にしなければならないし、この世を去る時にそっと返さなければならない。

 

子どもも同じ。子ども(の命)は親の所有物ではない。

ある年齢までは親が保護してあげないといけないが、時期が来たら親は積極的に子どもを放棄せねばならない。

親子の関係がうまくいかなくなるのは、ほとんどの場合、親が子どもを自分の所有物と考えているからではないか。命も子どもも天から与えらえたもの。与えられたものは大切に扱わなければならないし、いずれ返すときがやってくる。

 

なるほどなぁ。これは学校もそうだなと思います。

 

 

病気は一夜にして治すことはできないが、風貌は変えることができる。これまでずっと怒っていた人でも、次の日から笑顔になることができる。

「病気で苦しんでいるのに、明るい顔なんてできない」

そんな時こそ「犠牲」を払う。相手のために、これまで自分がやってきた行動を少しだけストップしてみる。相手のために自分の時間をほんの少しだけ使ってみる。ずっと暗い顔をしていたとしたら、少しだけ明るく微笑みかけてみる。相手のことを想う言葉をかけてみる。そんな些細なことで構わない。

「人と人の関係は鏡のよう」といわれるように、あなたが微笑めば、相手も微笑む。

 

時々厳しいような表現もあるのだけれど、それ以上に深ーい優しさ筆者の言葉から感じます。

 

 

本当にいいものはゴミ箱の中にある。だから誰にでも見つけられる。

お金がかかったり、どこか遠くまで行かないと手に入れられないようなものは本物ではない。

 

本当にいいものはタダ。値段の高いものは本物ではない。本当にいいものは誰にでも手に入れられる。これがこの世の原理原則。

 

お金がある人はお金を出して「いい」と思うものを買えばいい。でもお金がないからといって、本当にいいものが手に入らないかといったらそうではない。

 

お金持ちになるとか、会社で偉くなるとか、有名になるとか、本当はどうでもいいこと。

誰でもなれるわけではないから。

みなが獲得できないものは本当にいいものではない。

 

自分の役割を見出してそこに全力を尽くす。

自分のことよりも他人のことを想う。

笑顔で人と接する。

自分の家族を大事にする。

自分よりも困っている人を助けてあげる。

この世を去るときに贈り物を残していく。

 

何かをするためにはお金や地位、知名度が必要なこともあります。

でもその人にお金や地位、知名度があるのは、その人の役割や使命に必要なものだから。自分の役割や使命に必要なものなら、自然と入ってくるんじゃないかなー。

無いということは、別に今は必要じゃないから。と思います。

 

 

死はどんな人にも確実に訪れる。だからといって、いつ訪れるか分からない死におびえて生きることは無い。「いつか死ぬ」ことを覚えておくぐらいで十分。

全力を尽くして、あとのことは心の中でそっと心配しておけばいい。

世の中にどうでもいいことはたくさんある。でも本当に大切なことは少ないもの。

 

コントロールできないことに一喜一憂しても疲れるだけ。得られるものは極めて少ない。

 

勝海舟の言葉を思い出します。

 

 

「何をするか(to do)より、どうあるか(to be)」(新渡戸稲造

「勇ましき高尚なる生涯」(内村鑑三

「目下の急務はただ忍耐あるのみ」(山極勝三郎)

 

自分だけの箴言を持てば不安や寂しさが解消できる。

薬を飲むように言葉を心の中で反復する。

 

言葉って凄いなぁ。

 

 

経済的に自立さえできれば、地位や名誉なんてどうだっていい。暇になっても会社からお金がもらえればそれで十分。仕事は衣食住のためと割り切って考え、生きがいややりがいは別のところに見つければいい。生き方は一つじゃない。

 

すべての肩書を捨て、素の自分と向き合ってみる。地位や名誉にすがりつく看板かじりにならない。

 

自分の人生に期待しない。人生から期待されていると考える。

後悔しない人生に必要なのは、金や地位や名誉ではない。自分に与えられた役割を見出し、そのことに全力を尽くすこと。

外面的なもの(ハッピー)ばかり求めても多くが失望に終わる。私たちの人生に必要なのは、心から湧き出る喜び(ジョイ)。 

 

この「人生から期待されていると考える」というのがいいなぁ。

自分が自分に試されているってことか。

 

 

曖昧なことは曖昧に考えるのが科学。きっちりと線引きのできないグレーゾーンにあることは曖昧に答えるしかない。

分からないことは、どれだけ考えても答えは出ない。だったら、分からないものは分からないままでいい。

そもそも私たちの「命」はいま生きているこの瞬間だけのもの。誰にも期限を決めることなどできない。生きている間、命は続く。

 

これは筆者の「余命」について尋ねられた時の答えです。

分からないならそのままにした方がいいこともあるし、

分からないことを解き明かすことが役割や使命となることもあるかもしれないし、

 

分からんなぁ(^^)

 

 

「生ける魚は水流に逆らって泳ぎ、死せる魚は水流とともに流れる」内村鑑三の言葉

 

「苦痛なくして勝利無し。茨なくして王座なし。苦患なくして栄光なし」アメリカにペンシルベニアを建設した、ウィリアム・ペンの言葉

 

私たち人間は、苦痛がないと品性が出てこないし、苦痛がないと希望も出てこない。いまいる場所から一歩踏み出して、自分から希望を探しに行かないといけない。受け身のままではダメ。待っていてはダメ。意識的に探さないといけない。

自分の役割や使命を見つけるとはそういうもの。積極的に取りに行った者にだけ生きがいは与えられる。

 

こう考えると、大変なことや辛いことも、意味のあることだと捉えることができそうです。 

 

ダブルメジャーをやるなら定年退職前にやれ。退職後だったら誰にでもできる。本業がある時にやるから、人間としての『胆力』が試される」

 

自分の専門外のことをやっていたら、周りから何を言われるか分からない。揶揄されたり、呆れられたり、叩かれたりするかもしれない。

それでもやる。そうすることで人間としての胆力が養われる。

ダブルメジャーで生きるということは本業を疎かにすることではない。与えられた義務はしっかりと果たす。その上で別のことにも情熱を燃やす。

 

何か他に情熱を注ぐものがあるからこそ、本業にも熱が入るような気がします。

別のことをやっているようで、実はそれらが根本のところではすべて繋がっている。それを最近よく感じます。

 

 

はたして自分はどういう人間なのか。

いったい自分の役割や使命は何なのか。

家に閉じこもって悶々と考えているだけでは見つからない。

自分というものは、社会の中に身を置いて初めて分かる。集団の中で過ごしてみて、人との差が明らかになり、「自分」という存在が浮き彫りになる。

 

自分とは何者か? 自分の役割は何か? 自分の使命は何か?

その答えを得るためには、集団の中で「自分」というものを知り、一人になってとことん考え抜かねばならない。自分の存在や役割、使命といったことは、他の人と一緒にいる時には考えられない。

 

孤独な時間は生きていくために欠かせないもの。孤独を恐れることはない。

 

とにかくまずは経験してみる。合うものは合う、合わないものは合わない。

それが分かったら、その先にやるべきことが見つかる。

失敗を恐れて挑戦すらしないなんて、非常にもったいない。

 

また、私は一人の時間が結構欲しいタイプ。こうやって一人考える時間が必要なんだろうなぁ。集団の中にいる時間があり、一人になる時間があるからいい(^^)

 

 

配慮はうれしい。

遠慮はさびしい。

 

きれいごと、当たり障りのない言葉は口にしない。

 

遠慮しない言葉の方が患者さんの心にヒットしたという、筆者の経験から。

もちろん配慮はするけれど、遠慮がちだと嘘っぽく聞こえてしまう。

 

 

「遠慮なく集まれる場をつくろう」というとき、最初からあれこれ決めてしまうのは逆効果。硬くなって話がなかなか進まない。

器だけ用意して、中身は空っぽがいい。それこそがん哲学外来のように、テーブルとお茶とお菓子さえあれば十分。そこに温かい他人(スタッフ)が集まれば、訪れた人たちの心を満たすことができる。

 

これは、がん哲学外来メディカルカフェをつくった経験から。

こういう気軽に立ち寄れる場が、各地にいくつもあるといいんだろうな。

 

 

新渡戸稲造は「大人物は田舎からしか出ない」と言ったそう。理由は「忙しい都会人に比べて、田舎に住んでいる人には時間的な余裕がある。余裕があるから物事をじっくりと考えられ、世間の枠にとらわれない自分のオリジナルの流行をつくれる」から。

インターネットやスマートフォンの普及などで、昔とはだいぶ状況は違うが、今も昔も「暇な」ことには価値がある。

みんなもっと暇になったほうがいい。忙しすぎるのなら、他の人に頼めばいい。すると自分のやるべきことが減って暇になる。

自分がやらなくても誰か他の人がやってくれるものはたくさんある。そのようなものは全部人に譲ってしまえばいい。

 

忙しそうにしていると、人は心を開いてくれない。

 

さらに脇を甘くしておくと完璧。

脇を甘くするとは身構えないこと。脇の甘さがないと相手は怖がってなかなか懐に飛び込んではくれない。

 

暇げで、脇の甘い人に人は心を開く。

暇には素晴らしい価値がある。周りの人のために暇をつくる。

 

 

これは以前にまとめた内容。

www.futaba1107.com

 

余白の時間の価値と通じるものがありそう。

 

 

 

今後のテーマはこういうことだな(^^)

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

未開拓地を攻めろ、という話。

 

最近よく観ている(正確には聴いている)Youtubeチャンネル。

 

www.youtube.com

 

キンコン西野さんのエンタメ研究所。

 

 

その中で、

 

www.youtube.com

 

 

この動画で言っていたことが、なるほどなぁと思いました。

 

 

 

 

 最初に始めた人が受ける恩恵、「先行者利益」を取ることが重要。

Youtubeで言えば、HIKAKIN。

 

 

先行者利益を取るためには、

実験してみること、挑戦してみる事が重要。

実験できる、挑戦できる余裕があるうちに実験、挑戦しておいた方がいい。

 

西野さんは絵本以外の収入があったからこそ、普通とは違うやり方で絵本を出せた。

その余裕があった。

 

 

そういえばHIKAKINも、最初からYoutuberというわけではありません。

 

最初はスーパーの店員をしながら、

ヒューマンビートボックスの動画をYoutubeにあげていました。

 

生活費は別で稼いでいたからこそ、

その他の時間をYoutubeやヒューマンビートックスに費やせていたわけです。

 

 

 

月~金の勤務で生活が成り立つサラリーマンこそ、

土日は未開拓地に繰り出した方がいい。

 

そこで新しいものを掘り起こせれば、先行者利益を得られる。

 

 

  

Youtubeでヒットするには、

ある程度こういう動画、というものができつつある。

 

月~金の勤務で生活できていながら、

土日にこうした安パイに手を出すことは不毛。

 

思い切った挑戦ができるのが、サラリーマンの強み。

土日は攻めたほうがいい。

 

今答えが出ているようなyoutubeチャンネルに手を出していちゃダメ。

それは生活を成り立たせる費用を稼がねばならない、フリーランスの人がすること。戦い方。

 

生活が安定しているなら、0か100かで狙う。

みんながやらないところに挑戦。外れて外れて外れても、いつかビッグヒットを生む。

 

 

 

何のために月~金、働いているのか。

 

サラリーマンをやっているのは、挑戦するため。

 

 

 

 

という内容でした。

 

 

これからヒットするものも、既に動き出していること。

今は認知されていなくとも、時が来れば、ヒットする。

 

 

 

私はサラリーマンではないけれど、月~金の勤務というのは同じ。

であるからこそ、誰も進まないような未開拓地を攻める。

 

まぁ、人と同じことをするのが嫌で、

未開拓地を進むことが楽しいからなのですが(^^)

 

 

その経験は、上手くいこうともいかなくとも構わない。

新たなことに挑戦したということは語れる。

話のネタができただけ、もうけ(^^)

 

 

そうした生活をしだしてから、

仕事と趣味、遊びの区別がなくなってきました。

ある意味、常に「研究と修養」に努めているとも言えるかも(^^)

 

 

 

身の回りでフリーに転身している人がいますが、

彼らはそれ以前に未開拓地を攻め、

先行者利益を得ていた人が多いように感じます。

 

 

私はそうした先行者利益を得ているわけではないので、

フリーになろうとは思いません。

 

 

むしろ、

未開拓地を攻めることのできる現状、環境に感謝し、

あえて損と思われるような道を進むことで、

 

そのおもしろさを伝えていけたらいいなぁと思います(^^)

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

全託のすすめ。

 

今回読んだ本はこちら。

 

僕が神様に愛されることを厭わなくなったワケ

僕が神様に愛されることを厭わなくなったワケ

  • 作者:保江邦夫
  • 出版社/メーカー: 青林堂
  • 発売日: 2020/01/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

保江邦夫先生の最新作。

 

 

保江先生との出逢いやあれこれは

以前こちらにまとめました。

 

www.futaba1107.com

 

 

 

今回の本ですが、

 

なななんと!!!

 

 

 

 

また保江先生とのやりとりが載っています!

 

 

 

 

しかも!

 

日本を救うお手伝いをしたことになっているではありませんか!

 

 

 

いつの間に(^^)笑

 

 

 

 

 

 

我欲による引き寄せは、結局のところ、力対力の関係になりやすい。

 

よく、絶望的な状況に陥った人が、自らの運命を「天に任せる」ことによって、結果的に難を逃れたり、奇跡的な変化を遂げたりするのは、完全調和の側の魂のスイッチが100%オンになるから。

 

愛の生贄、愛に奉仕をするというのは、「天に任せる」ことを自ら進んで行うことであり、昔から「お天道様がすべて見ている」と感じていた日本人は、それが無理なく行える。

 

 

 

完全調和の神様の世界はすべての素領域を内包し、すべての素領域と繋がっているので、完全調和の側からの作用次第で、私たちの身体や生活空間を構成している素領域そのものが変わっていく。

 

ただし私たち自身が素領域の中にいるので、私たちが意図的に素領域の外側、つまり完全調和の領域を動かすことはできない。

 

それが可能なのは、私たちの心情が完全調和の世界と響き合った時だけ。

それこそが、愛への奉仕、愛の生贄となることによる、全く想定外の嬉しい変化。

 

 

この神様への全託によって、結果として奇跡的な現象が起きたり、個人的な思惑を超えた「万事よし!」の結果がもたらされる。

これが自我の引き寄せを遥かに超える、量子エネルギーによる愛の効果。

 

 

 

 

アインシュタインが娘に残した手紙の中でも、愛について述べていたりするし、

 

なんとなく分かるような、分からないような…

 

難しすぎる笑

 

 

 

 

 

よく分かりませんが、

これからは「全託」をテーマでいきたいと思います(^^)

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪