おもしろおかしくやるんべぇ~ゆとり世代も悪かねぇ~

THEゆとり世代。さとり世代とも言われる世代「ふたば」の見方や考え方、そして日々の学びをまとめたブログ。

新年一発目から良い本発見!の話

 

今回読んだ本はこちら。

日本習合論

日本習合論

 

 

内田樹さんの「日本習合論」

 

「習合」と聞くと、「神仏習合」や「神仏分離」というワードを思い出し、

日本の歴史をイチから考えさせられます。

 

この本を読みながら、なるほどなぁと考えさせられたことをまとめていきます。

 

 

 

「雑種」は日本文化の本態である

 

一言でいうと、コレに尽きます。

(まぁ、一言でまとめようとするあたり、筆者の考えとは違うのでしょうが笑)

 

 

日本に仏教が伝来してきたとき、

排除するのではなく上手く神道の神と習合させた。

 

海外から新しいものが入ってきたときも、

それを上手く日本風に取り入れ、圧倒的なクオリティに高めてしまう。

 

これが日本という島国が選択した生存戦略でした。

 

 

ところが明治維新の頃、「神仏分離」をした。

神仏分離」を通して新政府が何をしたかったのかは言える。

しかし、そうした理不尽な命令に対して、なぜ組織的な抵抗運動があまり起こらなかったのか、

筆者はそこに疑問を持ちます。

 

そして

「なぜ起きたのか?」

という視点とともに、

 

 

「なぜ起こりうることが起こらなかったのか?」

という視点も大事にしていきたいと述べています。

 

 

私も「なぜ?」「どうして?」と考えることが好きですが、

「なぜ起こりうることが起こらなかったのか」という視点で物事を考えることは少なかったように思います。

こうした視点から物事を考えてみうのも面白そう!

これからやっていこうと思います(^^)

 

 

現実と非現実の境界線をきちんと引くことはむずかしい

 

 筆者は武道をされているのですが、

脳内に生じる「念」が、現実に影響を与えることがかなりあるそう。

 

例えば「相手の腕をつかんで…」と目の前の現実を相手にするよりも、

「想像上の剣を…」というようにその場にないものを操作するほうが技が効くことがあり、

「現実に存在しないものとかかわっているほうが現実変成力が大きい」

ということがよく起こるそうです。

 

 

現実に居つくと「念」が生じ、心身の能力が低下する。

だから武道の稽古では「念を去る」とか「無念になる」ということが言われる。

 

 

ときどきこうして「外部のもの」が境界線を越えて、人間たちの世界に侵入してくる。

逆に人間が境界線をうっかり踏み越えて、「外」に迷い込んでしまうこともある。

 だから「外部のもの」を迎え入れたり、押し戻したりするための、あるいは「外」に迷い込んだ人を呼び戻すための儀礼や戒律が伝統的に存在する。

 

(中略)

 

どの宗教においても、儀礼や戒律の起源は遠い人類史の闇に消えている。どういう起源から発生したのか分からない。そういうときに「だからそんなものには意味がない」と言い切れる人と、「いや、そこには古代人には感知できたけれど、現代人には感知できない、何らかの働きがあったのではないか」というふうに留保をつける人がいる。僕は後者を「霊的にピュア」な人というふうに類別したい。人知によってははかり難いことによって僕たちの世界は満たされている。シェークスピアだって、そう言っている。

 

 

「外」っていうのが、いわゆる「サムシンググレート」やら「無我の境地」やら「神の領域」という言葉で表される部分だろう。

「そんなものは存在しない」と言い切ることもできる。

「もしかしたらそういうものもあるのかもしれない」と考えることもできる。

 

自分にはそういうものは感知できないけれど、

後から振り返ると「あれってものすごい神がかり的なことだったな」

と気づかされることがたまにある。

人の縁とか。

 

自分には直接的な能力は無いけれど、

自分に気づかないように、上手く周りが動いているのかもしれない。

 

あ、これが「霊的にピュア」ってこと?(^^)笑

 

 

人を見る目

 

 「人を見るときは、自分の哲学を持っているかどうかを基準にしろ」

 

筆者が、筆者の父親から何度も聞かされたことだそうです。

 

戦後の極限状態を生き延びた人にとって、

「人として信じるに足るかどうか」は重要。

 

こうやってブログにあれこれ気づきや学びをまとめていますが、

それは自分の哲学を持つことにも繋がっているのかもしれません。

そして忖度せず正直に書いてます。

迎合はしません。馴れ合いも好きじゃない。

 

少数派には少数派の価値がある。

と思わなきゃやってらんないよね(^^)

 

 

「理解と共感に基づく共同体」はつらい…

 

家族が地獄になるのは、親が子どものことを理解していると思い込んで、事細かにコントロールしようとするときと、子どもが親に対して「オレのことをもっとわかってくれよ!」という無体な要求をするとき。いずれも家庭はメンバー同士の相互理解と共感の上に築かれるべきだという信憑がもたらすトラブル。

 

わかるー!

別に自分がそういう状況にあるわけではないけれど、

こういう状況に苦しんでいる人って結構多いのではないかと思う。

 

相手のことが分からないから、もっと知りたいと思うものだし、

でも完全には分かり合えないのだろうなというちょっと寂しい思いもある。

それが人間関係の基本なんだよなぁ。

 

筆者の主張に同意ってことは、やはり少数派だね、自分は(^^)

 

事大主義の再来

 

「事大」とは「大に事(つか)える」。

「寄らば大樹の陰」「長いものには巻かれろ」と同義で、

弱い者が強い者の言いなりになって、身の安全を図ること。

 

 高度経済成長期というのは、人々は「身の程を知らない欲望」に駆動されて、「おのれの分際をわきまえず」に枠を踏み外し、「身の丈に合わない」大きな仕事を引き受けた。国に勢いがある時はそういうもの。

「早めに自分のキャラを設定して、自分のタコツボを見つけてそこに一度はまり込んだらそこから出るな」

こうした定型句が二十一世紀に入ってから増えた。それは単純に日本人が貧乏になったから。 

 

(中略)

 

「現状に不満があったら、まず現状を変えられるくらい偉くなれ」という言明は、人を現状にくぎ付けにするためのもの。

勝ち残ることができなくて途中で脱落すれば、現状は変えられない。

勝ち残ってしまったら「自分を出世させてくれたシステム」を変える必然性がなくなる。

 

これはまさにそうだなぁ。

意見が言えるような立場になるまでに相当な時間が掛かってしまいます。

そのうちに熱が冷めたり純粋な気持ちが薄れてしまったりするかもしれません。

現状を打破したいなら、思い立った時にやるしかないですね(^^)

 

 

 

タイトルの「日本習合」ということと少しずれてきているような感じがしますが、

要するに多様な価値観を尊重すべき、ということかなと。

 

この後はいろいろな事例が語られるのですが、それをすべてまとめているととてもじゃないけど時間が足りないのでカットで。

 

 

 

ただ個人的に一番興味を持ったのが「食」に関してのこと。

 

 

まぁ自分がこうやって畑をやっているからなんでしょうが。

www.futaba1107.com

 

自然農の畑は、

・肥料を入れない

・農薬を使わない

・耕さない(私は少し耕してるけど)

 

という極めてシンプルなもの。

 

筆者はこの本を通して「純化」「シンプル主義」への「恐怖心」を伝えているのに、

それと反しているような気がします。

 

しかし実は慣行農法の方が、よりシンプルなものなのかなと。

耕して、肥料を入れて、薬を使って、

同じようなものを安定的に作るわけですから。

 

しかし自然農は人の介入を最小限に、シンプルにしているのであって、

実際はもの凄く複雑。

多様な虫や微生物、植物が関係し、絶妙なバランスで成り立っています。

できるものの味も形もばらばら。

よくできるものもあれば、そうでないものもある。

そんなもんです。

 

ただこれは筆者も言っているように、

どんなものでも美味しく食べられることが、生存に有利。

他の人と競争にならないわけだから。

 

 

慣行農業は慣行農業で必要。

無ければ外食産業を支えることができません。

 

あとは自分が何を選択するか、それだけ。

いろんな形のものがあること、多様性があることが一番良いのだろう(^^)

 

 

あと、

 

富はいくらでも増やすことができる。

農作物はたくさん取れたところで、人が食べる量には限りがあり、

それを越えた部分は廃棄するしかない。

農作物は商品ではなく、

農業に市場経済理論を持ち込むのは、そもそも無理がある。

というのもなるほどなぁと、納得!

 

 

民主主義と非民主主義の違い

 

最後に民主主義について。

 

民主主義ってとにかく決定が遅い。

いろんな立場の人のことを考えるので、これって結局誰のため?

という結論になることもある。

 

正常性バイアスがかかった眼で現実を眺めて、どれほど効率的にシステムを回すかということばかり考えている人間から見ると、民主制ほど効率の悪い政治システムは無いように見える。確かにその判断は正しい。

国運が上昇している時は、独裁制の方が効率が良いに決まっている。決定が早いから。おかげで国民も豊かになる。多少の市民的自由の制限を受け入れてもおつりがくるくらい「いいこと」がある。でも一旦「つまづく」と非民主性は脆い。「ここを支えろ。ここの穴を塞げ」という指示があれば人々は動きますが、「ここを支えないとまずい。ここの穴を塞がないと大変なことになる」と分かっても、自己裁量でつっかえ棒を噛ませたり、穴を塞いだりする人間が出てこない。久しく自己裁量ということそのものが禁止されていたから。「トップは無謬である」という前提で制度設計がなされている政体では、現場で自己裁量で決めることは原理的に許されない。でもシステムの危機というのは、中枢的にコントロールが利かないくらいに同時多発的にトラブルが起こること。そういうトラブルには現場現場が自律的に動くシステムでないと対応できない。

独裁制では、極端に言えば、賢者は独裁者ひとりでいい。賢い独裁者以外は全員、上の指示に従うだけの幼児で構わない。逆に民主制では、誰の指示が無くても、自律的にシステムの最適解を見出して、それを実行できる人をできるだけ多く要求する。民主制は市民の成熟から大きな利益を得るシステムであり、非民主制はそうではない。だから長期的に見ると、民主制を維持している方が「大人」がたくさん生まれる。民主制が「長期的に見ると他の政体よりまし」なのは、そういう理由によるのだと僕は思います。

 

なーるほどー!

確かに上向きな時のことばかりを考え、下降傾向に陥ったときのことは考えてなかったなぁ。

最初は強いリーダー性によって引っ張っても良いのかもしれない。

しかし次第に、信頼して任せる。

失敗も経験として成長につながるように。

 

当たり前と言えば当たり前のことかもしれませんが、

ちょうどいいタイミングで思い出させていただきました(^^)

 

 

 

学び多く、非常に良い一冊でした!

新年早々良い感じ✨

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪