今回読んだ本はこちら。
読んで心に残ったことをまとめておきたいと思います。
「命よりも大切なものはない。命が一番大事」とは考えない方がいい。
命が尊いことは確かだけれど、「自分の命よりも大切なものがある」と思ったほうが、私たちは幸せな人生を送ることができるよう。
「命が何よりも大切」と考えてしまうと、死はネガティブなもの(命の敵)になり、あるときを境に死におびえて生きることになる。
医師として多くのがん患者さんと接してきたからこその言葉だなぁと感じます。
自分の命よりも大切なものがあるからこそ、自然と自分の命も大切にできる、そんな気がします。
人生において本当に大切なものは少ない。あったとしても一つや二つぐらいのもの。
自分でなくてもできることは人に任せる。他人に譲る。そうすると暇になって、自分にしかできないことに時間をかけられるようになる。それに専念する。
自分にしかできない役割や使命を持った人は、みな暇そうに見えた。
地位や名誉がある人たちだから、本当はやることがたくさんあって忙しいはず。でもこうした人たちは物事の優先順位を知っているから、すべてを自分でやろうとはせず、そのほとんどを人に任せ、自分にしかできないことをやる。
だから忙しいのに暇そうに見えた。いわゆる「暇げ」な風貌をしていた。
昔の偉い人はみなそう。あれもこれもじゃない、これしかない人生。
何でもかんでも「自分が、自分が」という生き方には品性が感じられない。
最近の自分は、前ほどあれもこれもと手を出さなくなりました。そうすると今度は、少し手持ち無沙汰なような。
何か新しいことを始めようかなと思うも、「これ!」というものも特になく。
「これ!」というものが見つかったときにすぐに舵を切れる、そんな準備状態にあるのかなと思いました。
トップでゴールできればそれは確かに素晴らしい。しかし、トップの人にだけ価値があって、ビリの人には価値がないかというと決してそうではない。ビリでゴールした人にもトップとはまた違った価値がある。周回遅れになっても、最後まであきらめずに走り終えた人の姿に私たちは感動したり、勇気づけられたりする。周回遅れにも周回遅れなりの責任がある。「1周遅れの先頭の責務」
病気になって人に遅れを取ってしまったからといって焦らなくてもいい。
失敗して無駄な時間を使ってしまったからといって焦らなくてもいい。
うまくできないからと焦らなくてもいい。
むしろゆとりをもって、品性を保ちながらやり続けることが大事。
自分がなぜこうしていろいろと手を出したり、本を読んでブログにまとめたりするのかと言えば、これまでそうしたことをしてこなかったから。
時間が山ほどあったのにそれを無駄にしてしまったような想いが、今の自分を動かしているような気がします。
でも今こうして動き回ったり考えをまとめたりできるのは、そうした過去があったから。そうした過去のおかげ。それもまた準備期間。
「焦らなくてもいい」という言葉に救われました。
人間はみなそれぞれ違っています。顔が違う、声が違う、性格が違う、短所も長所も違う。そういう意味では、わたしたちは平等ではありません。
最近、子どもたちの運動会で順位をつけないという話を聞きますが、これは平等の意味を取り違えているように思えます。
本当の平等とは、相手の能力を認めることから始まる。自分ができないことを相手ができたら、その能力を認めてあげる。その逆に自分にできて相手ができないことがあったら、そこは相手に認めてもらう。これが本当の平等。
1位は1位、2位は2位、ビリはビリという社会でなければいけない。順位をつけることが相手の能力を認めることにつながり、ひいては自分自身を認めることになる。相手を認められない人は自分のことも認められない。自信が持てない人。
相手を認めるように、自分のダメな部分を認めることができれば、自分には何ができて、何ができないかが分かってくる。それがその人の役割や使命につながっていく。
みんなが同じことをするのが平等ではない。
誰にもできることがあり、できないことがあり、それぞれにぞれぞれの役割や使命がある。
そうした意味での平等。
他者と比較して過度に卑下することなく、そこから自分の役割や使命を見出しいていくところに力を注ぎたいなぁ。
役割や使命は、自分のことばかり考えているうちはなかなか見つからない。むしろ自分以外のものに関心を持つと、自分のするべきことが見えてくる。
私たちを襲う不安、困難、恐怖は、深く自分を見つめることで解決できることがある。それとは逆に、考えれば考えるほど不安や悩みが強まり、怖くて何も手につかなくなってしまうこともある。
深く考えることがマイナスに働くときは、あえて「自分」を放棄してみる。自分のことを忘れて、他のことに心を向けてみる。
内を見つめたほうがいい時もあるし、外に目を向けたほうがいい時もある。
要はバランスなんだろうなぁ。
最近そこを行ったり来たり笑
命は誰かの所有物ではない。
私たち一人ひとりが天から与えられたもの。与えられたものは大切にしなければならないし、この世を去る時にそっと返さなければならない。
子どもも同じ。子ども(の命)は親の所有物ではない。
ある年齢までは親が保護してあげないといけないが、時期が来たら親は積極的に子どもを放棄せねばならない。
親子の関係がうまくいかなくなるのは、ほとんどの場合、親が子どもを自分の所有物と考えているからではないか。命も子どもも天から与えらえたもの。与えられたものは大切に扱わなければならないし、いずれ返すときがやってくる。
なるほどなぁ。これは学校もそうだなと思います。
病気は一夜にして治すことはできないが、風貌は変えることができる。これまでずっと怒っていた人でも、次の日から笑顔になることができる。
「病気で苦しんでいるのに、明るい顔なんてできない」
そんな時こそ「犠牲」を払う。相手のために、これまで自分がやってきた行動を少しだけストップしてみる。相手のために自分の時間をほんの少しだけ使ってみる。ずっと暗い顔をしていたとしたら、少しだけ明るく微笑みかけてみる。相手のことを想う言葉をかけてみる。そんな些細なことで構わない。
「人と人の関係は鏡のよう」といわれるように、あなたが微笑めば、相手も微笑む。
時々厳しいような表現もあるのだけれど、それ以上に深ーい優しさ筆者の言葉から感じます。
本当にいいものはゴミ箱の中にある。だから誰にでも見つけられる。
お金がかかったり、どこか遠くまで行かないと手に入れられないようなものは本物ではない。
本当にいいものはタダ。値段の高いものは本物ではない。本当にいいものは誰にでも手に入れられる。これがこの世の原理原則。
お金がある人はお金を出して「いい」と思うものを買えばいい。でもお金がないからといって、本当にいいものが手に入らないかといったらそうではない。
お金持ちになるとか、会社で偉くなるとか、有名になるとか、本当はどうでもいいこと。
誰でもなれるわけではないから。
みなが獲得できないものは本当にいいものではない。
自分の役割を見出してそこに全力を尽くす。
自分のことよりも他人のことを想う。
笑顔で人と接する。
自分の家族を大事にする。
自分よりも困っている人を助けてあげる。
この世を去るときに贈り物を残していく。
何かをするためにはお金や地位、知名度が必要なこともあります。
でもその人にお金や地位、知名度があるのは、その人の役割や使命に必要なものだから。自分の役割や使命に必要なものなら、自然と入ってくるんじゃないかなー。
無いということは、別に今は必要じゃないから。と思います。
死はどんな人にも確実に訪れる。だからといって、いつ訪れるか分からない死におびえて生きることは無い。「いつか死ぬ」ことを覚えておくぐらいで十分。
全力を尽くして、あとのことは心の中でそっと心配しておけばいい。
世の中にどうでもいいことはたくさんある。でも本当に大切なことは少ないもの。
コントロールできないことに一喜一憂しても疲れるだけ。得られるものは極めて少ない。
勝海舟の言葉を思い出します。
「何をするか(to do)より、どうあるか(to be)」(新渡戸稲造)
「勇ましき高尚なる生涯」(内村鑑三)
「目下の急務はただ忍耐あるのみ」(山極勝三郎)
自分だけの箴言を持てば不安や寂しさが解消できる。
薬を飲むように言葉を心の中で反復する。
言葉って凄いなぁ。
経済的に自立さえできれば、地位や名誉なんてどうだっていい。暇になっても会社からお金がもらえればそれで十分。仕事は衣食住のためと割り切って考え、生きがいややりがいは別のところに見つければいい。生き方は一つじゃない。
すべての肩書を捨て、素の自分と向き合ってみる。地位や名誉にすがりつく看板かじりにならない。
自分の人生に期待しない。人生から期待されていると考える。
後悔しない人生に必要なのは、金や地位や名誉ではない。自分に与えられた役割を見出し、そのことに全力を尽くすこと。
外面的なもの(ハッピー)ばかり求めても多くが失望に終わる。私たちの人生に必要なのは、心から湧き出る喜び(ジョイ)。
この「人生から期待されていると考える」というのがいいなぁ。
自分が自分に試されているってことか。
曖昧なことは曖昧に考えるのが科学。きっちりと線引きのできないグレーゾーンにあることは曖昧に答えるしかない。
分からないことは、どれだけ考えても答えは出ない。だったら、分からないものは分からないままでいい。
そもそも私たちの「命」はいま生きているこの瞬間だけのもの。誰にも期限を決めることなどできない。生きている間、命は続く。
これは筆者の「余命」について尋ねられた時の答えです。
分からないならそのままにした方がいいこともあるし、
分からないことを解き明かすことが役割や使命となることもあるかもしれないし、
分からんなぁ(^^)
「生ける魚は水流に逆らって泳ぎ、死せる魚は水流とともに流れる」内村鑑三の言葉
「苦痛なくして勝利無し。茨なくして王座なし。苦患なくして栄光なし」アメリカにペンシルベニアを建設した、ウィリアム・ペンの言葉
私たち人間は、苦痛がないと品性が出てこないし、苦痛がないと希望も出てこない。いまいる場所から一歩踏み出して、自分から希望を探しに行かないといけない。受け身のままではダメ。待っていてはダメ。意識的に探さないといけない。
自分の役割や使命を見つけるとはそういうもの。積極的に取りに行った者にだけ生きがいは与えられる。
こう考えると、大変なことや辛いことも、意味のあることだと捉えることができそうです。
「ダブルメジャーをやるなら定年退職前にやれ。退職後だったら誰にでもできる。本業がある時にやるから、人間としての『胆力』が試される」
自分の専門外のことをやっていたら、周りから何を言われるか分からない。揶揄されたり、呆れられたり、叩かれたりするかもしれない。
それでもやる。そうすることで人間としての胆力が養われる。
ダブルメジャーで生きるということは本業を疎かにすることではない。与えられた義務はしっかりと果たす。その上で別のことにも情熱を燃やす。
何か他に情熱を注ぐものがあるからこそ、本業にも熱が入るような気がします。
別のことをやっているようで、実はそれらが根本のところではすべて繋がっている。それを最近よく感じます。
はたして自分はどういう人間なのか。
いったい自分の役割や使命は何なのか。
家に閉じこもって悶々と考えているだけでは見つからない。
自分というものは、社会の中に身を置いて初めて分かる。集団の中で過ごしてみて、人との差が明らかになり、「自分」という存在が浮き彫りになる。
自分とは何者か? 自分の役割は何か? 自分の使命は何か?
その答えを得るためには、集団の中で「自分」というものを知り、一人になってとことん考え抜かねばならない。自分の存在や役割、使命といったことは、他の人と一緒にいる時には考えられない。
孤独な時間は生きていくために欠かせないもの。孤独を恐れることはない。
とにかくまずは経験してみる。合うものは合う、合わないものは合わない。
それが分かったら、その先にやるべきことが見つかる。
失敗を恐れて挑戦すらしないなんて、非常にもったいない。
また、私は一人の時間が結構欲しいタイプ。こうやって一人考える時間が必要なんだろうなぁ。集団の中にいる時間があり、一人になる時間があるからいい(^^)
配慮はうれしい。
遠慮はさびしい。
きれいごと、当たり障りのない言葉は口にしない。
遠慮しない言葉の方が患者さんの心にヒットしたという、筆者の経験から。
もちろん配慮はするけれど、遠慮がちだと嘘っぽく聞こえてしまう。
「遠慮なく集まれる場をつくろう」というとき、最初からあれこれ決めてしまうのは逆効果。硬くなって話がなかなか進まない。
器だけ用意して、中身は空っぽがいい。それこそがん哲学外来のように、テーブルとお茶とお菓子さえあれば十分。そこに温かい他人(スタッフ)が集まれば、訪れた人たちの心を満たすことができる。
これは、がん哲学外来メディカルカフェをつくった経験から。
こういう気軽に立ち寄れる場が、各地にいくつもあるといいんだろうな。
新渡戸稲造は「大人物は田舎からしか出ない」と言ったそう。理由は「忙しい都会人に比べて、田舎に住んでいる人には時間的な余裕がある。余裕があるから物事をじっくりと考えられ、世間の枠にとらわれない自分のオリジナルの流行をつくれる」から。
インターネットやスマートフォンの普及などで、昔とはだいぶ状況は違うが、今も昔も「暇な」ことには価値がある。
みんなもっと暇になったほうがいい。忙しすぎるのなら、他の人に頼めばいい。すると自分のやるべきことが減って暇になる。
自分がやらなくても誰か他の人がやってくれるものはたくさんある。そのようなものは全部人に譲ってしまえばいい。
忙しそうにしていると、人は心を開いてくれない。
さらに脇を甘くしておくと完璧。
脇を甘くするとは身構えないこと。脇の甘さがないと相手は怖がってなかなか懐に飛び込んではくれない。
暇げで、脇の甘い人に人は心を開く。
暇には素晴らしい価値がある。周りの人のために暇をつくる。
これは以前にまとめた内容。
余白の時間の価値と通じるものがありそう。
今後のテーマはこういうことだな(^^)
おもしろおかしくやるんべぇ♪