今回読んだ本はこちら。
夏川草介さんの「始まりの木」
ある方に薦めてもらい、読んでみました。
偏屈な民俗学者、古屋神寺郎と、
彼を指導教官とする大学院生、藤崎千佳。
「民俗学の研究は足で積み重ねる」
という古屋の揺るがない哲学のもと、
「藤崎、旅の準備をしたまえ」の一言で、
2人は日本中を飛び回り知見を広げている。
しかしそれは彼の独創ではなく、
と、
フィクションではあるのだけど、参考にした文献も多く、
実話なんじゃないかと思わせるほど。
情景描写も巧みで、一緒に旅をしているような気分になります。
最初は偏屈な古屋の口調に、若干めんどくさくなりましたが、
旅を重ね、いろいろなことが分かるうちに、
その魅力にどんどんハマッていきました。
夏川さんの文章、好きだわぁ(^^)
全部で5話の構成。
旅先でおこる特別講義などから、古屋の想いや過去が分かります。
第2話「七色」は、鞍馬が舞台。
不思議な体験をします。
第3話「始まりの木」は、伊那谷が舞台。
タイトルにもある「始まりの木」に迫ります。
第4話「同行二人」は、宿毛が舞台。
お遍路道での、これまた不思議な体験。
そして第5話「灯火」は、大学のある東京に舞台が移り、
あるお寺の住職とのやり取り。
1~4話の旅はそれぞれのエピソードという感じで、
第5話は総まとめ、といった感じです。
文章の中で、気に入った言葉を載せたいと思います。
かつて、この国にはいたるところに無数の神がいた。
木や岩に、森や山に、当たり前のように日本人は神を見ていた。その神々は言うまでもなく、大陸の一神教的な強力な神とは、大きく性質を異にしている。
日本人にとっての神とは、信じる者だけに救いの手を差し伸べる排他的な神ではない。人間は皆生まれながらに罪人だと宣言する恐ろしい神でもない。ただ土地の人々のそばに寄り添い、見守るだけの存在だ。
日本の神には、大陸の神に見られるような戒律も儀式もない。教会もモスクも持たない。それゆえ、都市化とともにその憑代(よりしろ)である巨岩や巨木を失えば、神々はその名残りさえ残さず消滅していくことになる。
この国の人にとって、神は心を照らす灯台だった。
灯台に過ぎなかった、と言い換えてもいい。もとより灯台が旅の目的地を決めてくれるわけではない。航路を決めるのは人間だし、船を動かすのも人間だ。何が正しくて何が間違っているのか、灯台は一言も語らない。静まり返った広大な海で、人は自ら風を読み、星に問い、航路を切り開くしかない。絶対的な神の声がない以上、船はしばしば迷い、傷つき、ときには余人の船と衝突することもある。しかし絶対的な教えがないからこそ、船人たちは、自分の船を止め、他者と語り合うこともできたのだ。己の船が航路を誤っていないか、領分を越えて他者の海に迷い込んでいないか、そのことは、寄って来る港を振り返りさえすれば、灯台の火が教えてくれる。私が今どこにいるのか、どれほど港と離れているか、人はささやかな灯を見て航路を改め、再び帆を張ることになる。この国の人々はそうして神とともに生きてきた。この地の神とはそういう存在だったのだ。その神が、今姿を消しつつある。それはつまり、灯台の光が消えようとしているということだ。
神について語る古屋の声は、しばしば熱を帯びる。
"無論、私がここで言う神とは、迷える子羊を導いてくれる慈悲深い存在ではない。弱者を律し、悪者を罰する厳格な審判者でもない。たとえ目には見えなくても、人とともにあり、人とともに暮らす身近な存在だ。この神は、人を導くこともあれば、ときに人を迷わせたり、人と争ったり、人を傷つけることさえある。かかる不思議な神々とともに生きていると感じればこそ、この国の人々は、聖書も十戒も必要としないまま、道徳心や倫理観を育んでこられたのだと私は考えている"
こういう古屋の大胆なフィールドから見れば、神と仏を区別する議論や、日本人が宗教を持つ民族であるか否かを問う議論そのものが、見当違いということになるだろう。
少なくともこの国の人々は、古代から路傍の巨石や森の大樹をはじめとして、山や滝や海や島や、あらゆるものに手を合わせてきたのである。
分かる気がするなぁ。
こうやって一之宮巡拝の旅をしているわけですが、
立派な社殿はもちろんですが、
境内の巨木や巨石にも魅力を感じます。
むしろ最近はそちらの方がメインになってきています。
長い年月、人々が守り続けてきたからこそ今もあるんだよなぁ。
登場する住職の話より、
信じるかどうかじゃない。感じるかどうか。
感じるかどうかっていうのは、この国の神様の在り方なんだ。例えばキリスト教やイスラム教やユダヤ教ってのは、みんな信じるかどうかってことを第一に考える。そりゃそうだ。神様自身が自分を信じなさいって教えているんだからね。しかしこの国の場合はそうじゃない。神様でも仏様でもどっちでもいいんだが、とにかく信じるかどうかは大きな問題じゃない。ただ、感じるかどうかなんだ。
神も仏もそこらじゅうにいるんだよ。風が流れたときは阿弥陀様が通り過ぎた時だ。小鳥が鳴いたときは 、観音様が声を掛けてくれた時だ。そんな風に、目に見えないこと、理屈の通らない不思議なことはたくさんあってな。そういう不思議を感じることができると、人間がいかに小さくて無力な存在かってことがわかってくるんだ。だから昔の日本人ってのは謙虚で、我慢強くて、美しいと言われていたんだ。
これは前回読んだ本にも通ずるところがあります。
これは古屋の言葉、
学問とはそういうものだ。大局的な使命感を持たなければ、たちまち堕落する。自らがどこへ向かって進むべきかを見失っている学者は、目先の新しいこと、奇抜なことを特別な発見であるかのように錯覚し、他者を攻撃することで自身のささやかな業績を誇ろうとする。柳田國男の下宿の家賃を調べて喜んでいるくらいならまだ可愛いが、一歩も研究室から動かず、卓上の資料を科学や統計学の刃でもって裁断し、学者の側に都合のいいように解釈して、偉大な先人たちを越えた気になっている連中まで目にすることがある。学問の衰退もここに極まるといったところだ。
この国には、この国特有の景色がある。その地に足を運ばなければわからない、不思議で理屈の通らぬ、怪しささえ秘めた景色だ。その景色と向き合い、何が起こっているのかをただ見るだけでなく感じ取らなければいけない。
土地を歩くということは楽なことではない。苦労も苦悩も厭(いと)うてはならない。どうせ歩くなら、抜け道でも近道でもなく、王道を歩きたまえ。
頼るべき指針を失い、守るべき約束事もなく、ただ膨張する自我と抑え込まれた不安の中でもだえているように見える。精神的極貧状態とでもいうべき時代だ。
どうすればこの貧しさから脱出できるのか、誰かが考えなければいけないが、かつてこの道に向き合ったはずの多くの学問が、今はことごとく目を逸らしているように見える。神学は過去の遺物となり、医学は科学の先兵に成り果て、哲学は言語ゲームに興じ、文学は露悪趣味に堕している。
民俗学の出番だとは思わんかね。
これは学問をする時に意識したいことですね。
フィクションではあるのですが、そこから考え方や在り方など、
学ぶことが多くありました。
こうやって足袋で旅することは、
私にとってのフィールドワークとなっているのかもしれません。
知らず知らずのうちに古屋先生っぽいことをしていたこともあり、
民俗学に興味が沸いてきました。
おもしろおかしくやるんべぇ♪