おもしろおかしくやるんべぇ~ゆとり世代も悪かねぇ~

THEゆとり世代。さとり世代とも言われる世代「ふたば」の見方や考え方、そして日々の学びをまとめたブログ。

「知ってる・見えてる・正しいつもり」の話

 

今回読んだ本こちら。

自己矛盾劇場 ―「知ってる・見えてる・正しいつもり」を考察する

自己矛盾劇場 ―「知ってる・見えてる・正しいつもり」を考察する

 

 

読書のすすめで購入した本の一冊です。

 

 

 

 

「自分の頭で考えよう」

 

→ という言葉をきっかけに考え始めるのは、本当に自分の頭で考えていると言えるのでしょうか。

 

 

 

「あなたのために言っている」

 

→ と言わなければならないのは、相手を変えようとして上手くいかない、自己の弁護のため。

 

 

 

「どうして分からないの」

 

→ そんなことを言って分かるくらいなら、とっくに分かっている。そもそも簡単に分かってしまったら、教える側の存在する意味がなくなってしまいます。

 

 

 

 

 

こんな風に、教育って「自己矛盾」だらけです。

自己矛盾をしないことの方が無理があり、難しいですが、これを知っておくだけでも違います。

 

子どもに対して伝える言葉や、自分自身の思考の仕方に気を付けようという意識が生まれるのではないかと思います。

 

 

 

 

「イノベーターを育てる」

 

→ イノベーターは育てるものではなく、勝手に育つもの。

 

 

「教育や学校は一世代上の価値観の押し付けという側面が大きく、そこに素直に従っていては世の変革などできません。」(p.128)

 

 

だから、世を大きく変える人って、中卒や高卒、もしくは中退なんて人が多いのかもしれないなぁ。

 

中卒より高卒、高卒より大卒。中退せずに卒業。

そうやって行けば行くほど、イノベーターが生まれにくくなってしまう。

 

丁稚奉公で学校に通えなかった経験が無ければ、松下幸之助のその後の活躍は無かったかもしれません。

 

安定している時代ではなく、変革の求められる時代では、枠にはまっていてはいけないんですね。(という枠にはまっていますが…)

 

 

無知の知メタ認知

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

ずっと練習をサボっていたのに、いつの間にかゴルフが上達していた話。

 

興味のない方には全く価値のない投稿かもしれませんが(^^)

 

 

先日、同僚の先生に誘われて、久々にゴルフの練習に行きました。

最後にクラブを握ったのは、1年近く前だと思います。

 

社会人として働き始めてから始めたゴルフ。

それからはちょこちょこと練習していたので、こんなに長い期間クラブを握らなかったのは初めてです。

 

 

普通は下手になるはずです。

 

 

ところが……

 

 

 

ちょっと上達してました笑

 

久々の練習でしたが、だんだんと感覚を取り戻していき、終わり頃には気持ちよくクラブを振ることができていました。

 

 

 

なぜでしょう?

 

理由を考えてみました。

 

 

 

 

 

まずは重心が安定していたことです。

 

脛骨直下点に重心が来ていて、足の指の腹が地面に吸い付いている感じ。

足の裏全体で地面を握っているような感覚でした。

 

クラブを振っても、重心が左右にぶれることがありませんでした。

 

また頭の位置が安定し、体軸がスッと通って安定していました。

 

 

 

 

そして力が抜けていたことです。

 

どうしても飛ばそうと思うと力みます。

久々の練習の時は特にそうで、力の抜き方を忘れています。

結果としてスライスすること多し。

 

しかし先日は、程よく力が抜けていました。

力んでいないので、クラブヘッドの重さを感じながら、気持ちよくクラブを振りぬくことができました。

 

久々に練習をした後は、掌や指の、クラブに接する部分が痛くなりがちです。しかし、今回は大丈夫でした。

 

 

 

 

安定した重心と体軸、そして脱力。

 

 

もうお分かりの方もいらっしゃるはずです。

 

 

 

これは、

 

 

まさに、

 

 

立腰(タテゴシ)の効果!!

 

 

 

最近は特に運動をしていないので、これ以外に思い当たることがありません。

 

 

 

 

立腰(タテゴシ)の効果で、まずは脱力ができていました。

なので、クラブを握る腕に、余計な力がかからなくて済んだのだと思います。

また、胴回りのアウターマッスルが緩んできたので、インナーマッスルを使って捻転ができていたのではないかと思います。

 

そして立つときにも、足に無駄な力がかからずに済み、正しい位置に重心が来ていました。結果として重心がぶれず、良いスイングができていたのではないかと思います。

 

ボールを打つというよりも、気持ちよくスイングしているだけ。

その軌道上にたまたまボールがあり、勝手に真っ直ぐ飛んでいくという感じでした。最高です!!

 

 

私はたまたまゴルフの練習で立腰(タテゴシ)の効果を感じましたが、他のスポーツなどにも役立つと思います。

 

興味のある方は、是非観てみてください!!

www.youtube.com

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

アリとキリギリスの話。

 

今回読んだ本はこちら。

アリさんとキリギリス ―持たない・非計画・従わない時代

アリさんとキリギリス ―持たない・非計画・従わない時代

 

 

もともとの「アリとキリギリス」は、キリギリスのように怠けず、アリのようにせっせと働きなさいよという戒め的な話。

 

当時はそれが大切だったのかもしれませんが(時の権力者の思惑かも…?)、

今の時代には合わない部分も多々あります。

 

そんなことを考えながら、本を読み進めました。

 

 

変化が早くなって陳腐化が進んでいくことは、「持っていること」のリスクを上げていく

 

わかるわぁ。

最近ほとんど物欲がありません。

 

最新ではなく型落ちのものでも十分満足できます。

物にかけるお金が減れば、その分他のことに使うことができ、より豊かな生活ができるのではないかなと思います。

 

良いものを手に入れても、それよりもっと良いものがあります。

それには際限がありません。

結局、物では心は満たされないんですね。

それに早く気付けたのは良かったかも。

 

 

ウチ・ソトが明確なアリ、境界がないキリギリス

 

アリは自分の群れや巣を大切にします。

それこそが存在する意義とも言えます。

しかしウチ・ソトが明確なため、善・悪や敵・味方で判断しがちになります。

 

キリギリスにとっては、草原すべてが自分のフィールド。

なわばりの意識もありません。

無駄なストレスを感じることもなく、自由に行動できます。

 

 

 

とまぁこんな風に、アリ的思考とキリギリス的思考とが対比して書かれています。

 

私には、キリギリス的思考の方がしっくりくるものがたくさんありました。

アリ的思考が多い世の中で、違和感を感じるのは、当然と言えば当然だったようです。

 

別にアリ的思考が悪いわけではありません。

みんながみんなキリギリスで自由人では大変です。かといってみんなアリでも窮屈です。

要は両者のバランスが大切なのだと思います。

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

「縦糸の読書」の話

 

本当にこの一年で、人生が大きく変わりました。

行動しだしたら、いろいろなことが舞い込むようになりました。

 

ちょっと勇気を出して新たな環境に飛び込んでみると、そこで新たな人とのつながりが生まれました。今まで知らなかったような情報も入るようになりました。

 

そして新たにつながった人に紹介してもらったイベントに参加したり、新たに得た情報について自分なりに調べてみたりしました。

 

この繰り返しの中で、多くの人との縁と、幅広い分野の情報を得ました。

 

 

 

ところが…

 

 

世界が広がっていくにつれて、自分自身が若干迷子のような状態になりました。

 

変化が急激すぎたのかもしれません。

1月の終わり頃、ちょうど体調が優れない時期も重なり、やる気が起きず。ブログの更新もその頃から停滞気味になりました。

 

 

 

 

ところが…②

 

 

こうなる状況を予測していたのか、

「読書のすすめ」で購入した本をじっくり読む、良い機会になりました。

 

清水店長と植松さんの対談本を読んでいたこともあり、

www.futaba1107.com

 

この対談シリーズを読み漁りました。 

魂の燃焼へ

魂の燃焼へ

 
凛とした日本人になれ

凛とした日本人になれ

 
孤独を貫け

孤独を貫け

 
逆のものさし思考

逆のものさし思考

 

 

 

どこかの本で清水店長が、

「一冊ではなく、その人の書いた本を徹底的に読め」

的なことを書いていました。

 

ちょうど私は清水店長の本を、多く読むことになりました。

 

 

 

一時はすべてを投げ出し、

「ただずっと清水店長の本を読んでいたいー」

という状況になりましたが、これらの本を読む中で自分が大切にしていた「しん(信、芯、心)」を思い出しました。

 

自分の中に縦糸がすっと一本通っていれば、新たな情報が舞い込もうとも、状況が変わろうとも、「しん」が揺らぐことはありません。新たなものを取り入れながら、上手く対応できます。

 

しかし縦糸が通っていないと、人の考えや環境に流され、「しん」が揺らいでしまいます。

 

これまでの私は、そこまで行動的ではなかったので問題なかったのでしょうが、急激に人とのつながりや情報が広がりました。横糸ばかりが張られる状況だったので、縦糸がグニャっとしはじめていました。

 

今回、こうして縦糸を強化できたので助かりました。

 

いや、それさえも予定されていたことなのかもしれませんが笑

 

 

 

教員としての「しん」は、やはり『学び合い』。

www.futaba1107.com

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『学び合い』の良いところは、「考え方」であるから、新たな情報や技術を取り込むことができ、変化にも対応しうるところです。

 

過去の教育研究を否定するのではなく、良いところや生かせるところは全部取り入れてしまう。そんなこともできます。

 

また他の実践者のやり方を参考にしつつも、それに囚われ過ぎないことも大切です。囚われることで『学び合い』が「考え方」ではなく「方法」としての見方が強くなってしまいます。「私の『学び合い』」は、日々の私の実践の延長にある。そう思って私は私にやれることをやります。独立します。

 

 

 

 

そして生き方の「しん」はこれ。 

www.futaba1107.com

 

今後はまた変わっていくかもしれませんが、今はこれが私の生き方の教科書です。

西郷さんになった気分。

 

新たな物事が舞い込んでも、この「しん」に照らし合わせれば迷子にならずに済みそうです。今後も突き進んじゃいますよー

 

 

 

これらの本を読むきっかけをくださった、「読書のすすめ」の小川さんにも感謝です。

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

働き方改革の話。

 

年度末が近づいてきました。

 

来年度、授業時数が厳しくなりそうなので、

特別活動主任として、行事の精選を提案しました。

 

一括りに行事といっても、児童会のもの、学校のもの、地域のものといろいろあります。

なので私一人では対応しきれません。

 

そこですべての行事をリストアップし、それぞれの優先度や、どの程度見直しが可能かなどのアンケートを取りました。今後はそれをもとに、会議で見直しをしていくことになると思います。

 

 

放課後、私もそのアンケートに記入しながら、周囲の先生と「どうしたらいいですかねぇ」なんて話していました。そうすると、いろいろと思っていることや「こうしたらどう?」なんてことを教えてくれました。

また、だんだんと、行事の在り方や負担感の軽減などについて、職員室内で自然に話が出てくるようになりました。

 

 

この間は、「でも、削るといってもねぇ…」という話にもなりました。

 

例えば中学の部活。

それが負担だという教員もいれば、やりがいだという教員もいます。

一律に無くしてしまえば、確かに負担感は減るでしょう。しかしやりがいに思っている教員にとっては、無くなったことへの精神的なダメージの方が大きいかもしれません。

 

そこから、やりがいにしている仕事ならいくらでも頑張れるけど、そうではない、やらされでやるものが増えるから疲弊していくんだよね、という話になりました。

 

また、やるにしてもやらないにしても、一律に決めようとするのは難しいよね、という話にもなりました。

 

 

「コレ!」という解決策を出せたわけではありませんが、こうやって勤務校内の先生方と、今後の働き方などについて意見を交わせたことは、大きく前進したように思います。

 

よく「うちの職場は…」という声を聞きますが、声に出さなければ、行動しなければ変わりません。自分からこうやって話に出してみることで、案外反応は得られるのではないかと思います。少しずつでも行動することで先に繋がってくるのだと、今回のケースから感じました。

 

まぁ、今回はそれぐらい変えていく必要性があるということ、変えていかねば対応しきれないことを、現場が分かり始めたのかもしれませんが。

 

 

 

 

私の尊敬する、吉田松陰

 

各地を飛び回り、いろいろな情報を集めたり人脈を広げたりしましたが、最後は自分の身近なところに、そうした学びを還元しました。現場で生かしてこそ学問の価値が出る、という認識だったのでしょう。

 

私もそれに倣っていましたが、得られたものをこうして勤務校に生かせるようになり、ようやく本当の生きた学びになってきたかなと感じています。

 

 

 

 

 

話は変わりますが、先日あった授業参観の日にある子に言われたことです。

できるようになったことを発表する会の準備をしていた時の話。

 

 

「なんでただの授業参観で、こんなにいろいろ準備するの?

 どうせ来ても、うちのママとかだよ。

 そんな服まで着ちゃってさ。(スーツを指さし笑いながら)」

 

 

確かに、子どもたちからすればそうだよなぁ。

 

 

結局は常識に捉われたり、見栄を張ったりしているだけ。

働き方改革が進まないのも、実は多忙化の原因を作っているのは「自分自身」だから。

 

状況や性格から「ノー」と言えないのも、もちろん分かります。私もそうですから。

でも周囲に責任転嫁することだけはしたくないと思います(^^)

 

 

 

いやー、

 

とにかく、

 

 

最近、仕事すっごい楽しーなー(^^)

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

なぜ授業中に寝るのか

久々の更新!

 

最近はインプットに専念していたり、むしろ何もしない時間がほしかったりと、そんな調子でした。

 

 

今朝、ふと思ったことです。

 

私は授業中、しょっちゅう寝ていました。

授業が退屈だったからです。

 

ただ思い返してみると、小学校の頃は寝ていませんでした。

暇だから教科書の先の方を読んでいたら、いわゆる「予習」になっていました。

あとは出された宿題をこっそりやる、いわゆる「復習」もしていました。

 

教科書への落書きや絵しりとりにも興じました。私は才能開きませんでしたが、今、漫画家やイラストレーターとして活躍する多くの方は、そうしていたのではないかと思います。

 

先生は気づいていなかったのか。

そんなことはないと思います。

見てみぬふりをしてくれていたんじゃないかな。

 

 

ただ転機が訪れます。

 

 

中学校のテストです。

 

 

この時間、筆記用具以外を机の上に出すことは許されません。

 

落書きをするにしても、できる題材やスペースがありません。

ということで、

 

 

 

寝ました。

 

 

 

授業中は、引き続き小学校と同じようなことをしていましたが、中学校は監視の目が厳しくなります。

生徒指導を受けないことが第一。

内職はやめました。

そしてシャーペンを持ったまま、ばれないように寝る術を磨きました。

 

 

こうして、「暇な時間=寝る」というシステムが私のなかで出来上がっていきました。

 

 

高校では、授業中の「予習」も「復習」も歯が立たなくなりました。

放課後やテスト前に友だちと勉強して、やっと「あー!そういうわけか!」となる感じ。

ノートテイクはやめ、謝礼と引き換えに友だちにノートをコピーさせてもらうようになりました。

 

 

こうして授業中の多くの時間を寝ることになりました。

 

 

 

大学は最高ですね。

内職をしていても全く問題ありません。

ただそういうことに厳しい先生の講義や、少人数での講義は、やっぱりダメでしたね。

 

だんだんと困ることも出てきました。

 

「この講義は聞きたい!」

そう思っているのに、うとうと。

 

意識と反して睡魔に教われてしまう…

 

 

だいぶ改善されましたが、それでも、未だに、うとうと…

私としては、もう「寝る=暇」ではありません。ただ意に反して意識が飛んでしまうんです💦 

 

こればかりは本当に何とかしたい!!

 

 

 

 

もちろん「なんでもあり」というわけではありません。

ルールはありますし、規律は確保されるのかと、不安にもなります。

 

ただ、考える余地を与えなかったり、過度な干渉や規制をしたりすることが、

 

その人が何かを考えたり行動したりする意欲さえも奪ってしまいかねないのではないかと感じました。

 

 

それが私の場合は「バレないように上手く寝る」という行動に繋がりました。

 

 

 

もしかすると、家で安心して寝られなくて、学校が唯一の安心して寝られる場になっているような子もいるかもしれません。

でもそれを許していいのか?

 

 

授業中に寝ること以外にも、「これってどうなの?」と思うことはたくさんあります。

 

ただ「ノー!」と否定するのではなく、

よりよい策を見出だそうとするきっかけにもなりました。

 

 

以上、随分と長い睡眠学習を通しての学びでした(^^)

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

あたりまえを疑う

 

今回読んだ本はこちら。

あたりまえを疑う勇気

あたりまえを疑う勇気

 

 

「リアル下町ロケット」とも言われる植松電機の植松努さんと、

「読書のすすめ」の清水克衛さんの、対談形式の本です。

 

先日、読書のすすめに行った際に店員さんに勧めてもらい、即購入しました。

 

 

いやー、納得させられることばかり。

 

 

 

自分の理解できる範囲で本を読んでいたら、成長は訪れない

 

最近、人気な本はどれも同じことばかり言っているなー、と思っていました。なので単なるノウハウ的な本は読みません。

もっと本質的な部分を探っていきたいと思い、そういう知見を得られそうな、今まで読んだことのないような分野の本を探していたのですが、どうやらそれが良かったようです。

ちょっと背伸びをして、難しいかな、と思うくらいの本。読むのは大変です。でも疲れるといっても良い感じの疲れで、読み終わると達成感もあります。

 

 

われわれ人間は、困った状況をなんとか解決しようと頑張ってきた生き物の末裔

 

海から陸にあがったり、卵ですぐに生み出されるのではなく胎内で成長するようになったりと、その状況に合わせて生命は進化してきました。外的なストレスがかかることが、進化には必要だったわけです。

今は外的ストレス=悪と捉えがちだし、それを無くすほうに考えがちです。

しかしそうしたストレスを受け止め、より良い方向を目指してこそだと思います。

後から思い返した時、過去に乗り越えた困難があってこそ今の自分であり、そのためには必要な困難であったと思えるのではないかと思います。

だとしたら、「ストレス=心地よいもの」と思えたほうがいいなぁ。

 

 

「利他性」は人間の本能だ

 

人間は誰にも頼らず生きていくことはできない。安心して寝られるということは、その時点で社会という群れのシステムに守られています。

関わり合って助け合わないと一人では生きていけないのが人間なのに、「ちゃんとしなさい」「自分のことは自分で」という意識が、こうしたつながりを切ることにもつながっています。

他者に大いに甘え、助けてもらいつつも、自分の得意なことで社会の為に還元する。

それでいいんじゃないかと思います。

 

 

「なぜ世界は日本化するのか」

 

旅行をしていて思うのが、観光名所にいる外国人の多さです。

なぜこんなに神社やお城などに外国からの観光客が集まるのかというと、きっと古き日本の伝統や文化に魅力があるからですよね。

世界は日本から何かを学び、生かそうとしているのに、日本はその価値に気付かず、いつまでも現状維持をしようとしています。人口が減り社会が縮小していくということは、現状維持をするだけでもものすごく大変なわけです。

もっと抜本的な改革が必要なのだと思います。まずはそのことに日本人が気づかなくては。

 

 

自発的、主体的に仕事を見つけ出せる人だけが残る

 

 

植松電機の話です。社員に与える仕事を減らすそうです。そうすると、暇を持て余してぼーっとするしかない人と、自分から仕事を見つけ出す人とに分かれたそうです。

今後AIやロボットが発展すれば、人間の仕事は減ります。この二分化された状況は、ますます進みます。

植松電機の社員は、空いた時間をロボット作りに費やしたそうです。これは仕事というより遊びに近い。けれど仕事ではないから、恐れずに失敗ができます。でもそのトライ&エラーを重ねた経験が仕事にも生かされていく、そういう話でした。

 

 

「人間資本主義」の時代が到来する

 

すべての物やシステムには「第一分水嶺」と「第二分水嶺」というものがあるそうです。

「第一分水嶺」は新たな物やシステムが生み出された状況。スマホが手に入るようになったとき、誰もが教育を受けられるようになったときなどがこれです。

そして「第二分水嶺」は、それが飽和し、奴隷のような状況になってしまうことです。

スマホは便利な道具、教育も自由を得るためにとても画期的な物やシステムだったはずです。しかし今ではスマホや教育に人が縛られてしまう状況になりました。

 

社会のシステムの〇〇主義というのもそうです。どれも第二分水嶺の状況になっていて、行き詰っています。そうなった今、変動しない最も魅力のある価値を持つのは「人間」です。キングコング西野亮廣さんの言葉を借りれば、「信用」が「お金」を生むというのと似ていると思います。

 

 

 

私は最近、教育関係者だけでなくいろんな分野の人と繋がるようにしています。

日本の良さを日本人が分からないように、内部にいると見えないものもあると思ったからです。

そうしたら、教育関係者以上に教育や今後の日本社会について考えている方がたくさんいつことが分かりました。

植松さんや清水さんもそうですが、身近な所にもたくさんいます。

 

 

働き方改革、多忙化解消。自分本位になっていないですか(^^)?

 

本の中で、「現場」が大切という話があります。

植松さんは電機会社、清水さんは本屋さんです。その仕事をしながら、世のため人のためにいろいろな活動をされています。

教員にとって、業務を改善し目の前の子どもたちのためにより良い学びを提供しようとするのは「現場」で行われる当然の業務だと私は思います。

+αの取組があって、ようやく世間から認めてもらえるのではないかなぁと。私はそっちを目指します!!

 

こうやっていろんな本を読んだり、いろんな人と話したり。

そして得たものを子どもたちや地域に還元したり、学び続ける姿勢や、時には失敗する姿も見せたり。

そうしたことを続けていたら、いつの間にか「仕事」も「趣味」も「遊び」も全部一緒になり、「平日」と「休日」の境もなくなってしまいましたとさ笑

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪