おもしろおかしくやるんべぇ~ゆとり世代も悪かねぇ~

THEゆとり世代。さとり世代とも言われる世代「ふたば」の見方や考え方、そして日々の学びをまとめたブログ。

森林と林業の話

 

昨日はこんなイベントに参加しました。

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2018年。「健康」をテーマに、いろいろと学びを深めました。

そしてそこには「食」が大きくかかわっているという、当たり前と言えば当たり前のことに気付かされました。

そして「食」には「土」や「水」などの「自然」が大きくかかわっているという、これまた当たり前すぎることに、今更気付かされました。そんな2018年。

 

 

先日、たまたまFacebookを開いたとき、今回のイベントページが目に飛び込んできました。

 

 「自然」について興味を持っていて、話を聞いてみたいという気持ちもありましたし、このイベントが開催される「Re:Homeアカデミー」という場にも興味を持っていたので、「これは行くしかない」と思い参加しました。

rehomeacademy.amebaownd.com

 

 

参加するまで、そもそも日本の「林業」って成り立っているの?

というくらい無知でした。建築用の木材はほとんど輸入用だと思っていたので。

 

ところが今は少しずつ国内産の木材の活用が推進されているようです。初耳でした。

とはいえ林業関係者は大変そう。補助金もらって何とかだそうです。

 

 

林業を考える時、凄く分かりやすいなと思ったのが、

 

「植えてから収穫するまでに7、80年かかる農業」

 

という表現です。なるほど。

 

これは新規参入しづらいし、短期で結果の出るものでもないので、人が離れてしまうのも頷けます。

そして

 

「自分で育てた木は、自分では使えない」

 

今使える木材は、先代が植え、育て、守ってきてくれたからなんですね。

今植えても、それを使えるのは子ども、孫世代。

なんとも壮大な話だと思いました。

 

 

 

今、林業関係者が減り、森が手つかずの状態になり、大変なことになっています。

 

手つかずになれば、木々が増えて良いような感じがします。

しかし人が手を入れた森は人が手を入れなければならないんですね。

 

木が密集すると、根がしっかりと張らなくなってしまいます。

結果として森が水を含んでいられなくなったり、水を含み切れなくなって、山が崩れたりしてしまいます。

 

ならもっと間隔をあけて木を植えれば良いと思うのですが、

最初は密集させて植えることで、日光が真上から当たるようになり、建材に使えるような真っ直ぐな木になるそうです。そうでないと曲がってしまうのだそう。

 

たくさん植えて、間伐してというのは理に適った、必要な営みだったのです。

 

今手つかずの森は7、80年前に植えられたもの。

戦後のベビーブーム。人口が爆発し、建物需要が増えることを想定し、植えられた木です。

手入れが行き届かないと、森が枯れてしまうそうです。

 

 

 

 

輸入に頼れば良いという話でもありません。

 

豊かな森は豊かな水を生み出します。それが流れて豊かな川を作り、そして豊かな海が作られます。

森が枯れれば水が枯れ、川も海も枯れます。

他国にとっては喉から手が出るほど欲しい日本の水資源です。

川や海が枯れれば、水産資源も危うくなります。

 

不安を煽りたいわけではないけれど、、、結構マズイ事態だよね。

 

 

では何をすればいいのかというと、難しいのですが、

まずは多くの人が現状を知る必要があるのではないかと思います(^^)

 

 

 

木のぬくもりっていいよね。

程度の良い古民家を、県内産の資材を使ってリノベーションして暮らせたらいいなぁ。

あとは日本の高い技術力を生かして、エネルギー源として利用できるようになったらいいなぁ。

木には記憶もあれば、木同士でやり取りをしているなんて話もあるから、データを保存したり通信する新たな媒体として活用できないかなぁ、なんてね。

 

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

子どもに学ぶ教師の話。

 

算数の話。

 

今「10000までの数」をやっています。

 

単元の中での配当時数は10時間くらいですが、7,8時間で終わってしまいました。

しかも私が直接「教える」ことはほとんどありませんでした。

 

なぜ、それでもできてしまったのか?

 

 

 

それは、1学期までさかのぼります。

「1000までの数」という単元がありました。

その際、表記や計算の仕方などを、自分の言葉でまとめ説明するという活動に繰り返し取り組みました。

その時に考え方が身についていたのが大きかったのだと思います。

今回は既習事項を活用して、自分でどんどん理解を進めることができました。まとめることも説明することもほとんど必要ありませんでした。

 

 

「かけ算」だってそうです。

5の段やって、2の段をやれば、もうある程度、九九の構成の仕方は分かります。

既習事項を活用すれば、わざわざ「教え」なくてもどんどんできるはずなのに、こちらのペースに合わせようとするから時間がかかります。信じて任せれば子どもたちの力を大きく伸ばすチャンスなのに、こちらのペースに合わせようとすることでその効果も得られません。

そして何より、子どもたちが自ら学ぼうとする意欲を削ぐことにもなってしまいます。

 

 

間違えたってそこで気付いて修正していけばいいんです。

信じて任せることで、子どもたちはどんどん学んでいきます。

まぁ、そうやって委ねてくと、今度はその意欲の高さにこちらが置いていかれそうになるのですけれど笑

 

 

誰にも教えられなくとも、這って、立って、歩いて、言葉を獲得するだけの力を持つ子どもたち。

 

今もこうして、新たなことをどんどん吸収しようとしています。

 

その意欲をどうしたら削がずに済むのか。

 

教育を担う教員が、子どもたちの成長のストッパーになっていたら本末転倒ですし、

それほどやるせないことはありません。

 

 

それを考えるきっかけをくれたのは、やはり目の前の子どもたち。

 

聞く必要のある話は真剣に聞いていますし、

「その話は不要」と思った瞬間、態度で分かりやすく教えてくれます笑

 

 

 

そんな「子どもに学ぶ教師の会」のイベントを、2月23日(土)に開催します。

イベントページを、あさって土曜日には立てようと思います。

詳しくはそちらを、お楽しみに(^^)

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

こりゃまたすごい本に。

 

今回読んだ本はこちら。

言志四録 抄録

言志四録 抄録

 

 

 

教員は公務員。

 

公務員の前身と言えば、武士。

 

ということで、幕末の志士たちの遺した言葉から、何かを学び取ろうとしていた時期がありました。

 

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そして今回の「言志四録」

書かれたのは佐藤一斎という方です。

 

佐藤一斎の弟子には佐久間象山などがいます。

そして佐久間象山の象山塾の門下生が、吉田松陰であったり、坂本龍馬であったり。

 

言わば齋藤一斎は、幕末の志士たちの「おじいちゃん」的存在なわけであり、彼の遺した言葉が、孫弟子である幕末の志士たちに受け継がれているわけです。

 

西郷隆盛も持ち歩いていたみたいですね。

 

 

うひょー、凄い本に出会ってしまった。

 

 

たまたま「読書のすすめ」という素敵な本屋さんにお邪魔することになり、

そこの店員さんに紹介してもらった本です。

 

運命的なようで、出会うべくして出会った本のように思います。

どっひゃー。

 

 

書かれている内容は、「なるほどなぁ」と思わせられることばかり。

その中でも特に響いたものをまとめます。

(原文だと漢字に直すのが大変なので、ニュアンスで)

 

 

人の言葉はまずすべて聞き入れて、その上で判断すること。

拒否するでもなく、惑わされるでもなく。

 

人の意見や忠告を受け入れられる者であって、

初めて人に対して意見したり忠告したりすることができる。

 

 

 

ギリギリの状態まで気が満ちて、ある時一気に開いて現れてくる者が「花」

 

 

 

自信を失うと、人からの信用を失う。

人からの信用を失うと、すべて失う。

 

 

 

人は特に口を慎まなければならない。

口の機能は、言葉を発することと飲食すること。

言葉を慎まないと禍を招き、飲食を慎まないと病気を招く。

まさに「禍は口より出でて、病気は口より入る」

 

 

官職に就く者にとって好ましい四字

「公、正、清、敬」

 

好ましくない四字

「私、邪、濁、傲」

 

 

 

春風のように人に接し、秋霜のように自らを慎む。

 

 

 

大きな問題に直面した時、すぐに決断せず、寝る前に半分くらい考えて寝る。

起きたら続きを考える。そうすると、解決の一筋が見えてくる。

あとは一つ一つ問題を処理していくだけ。

 

 

 

物事を処理しようとするとき、まずは全体のありさまをみて、後から細かなところに進んでいくとよい。

 

 

 

怒りの感情は気を荒くする。

欲が多いと気を消耗する。

怒りと欲を抑えることは、身体の養生でもある。

 

 

 

羊を動かす時、前から引いても上手くいかない。

後ろから追うようにすると前に進む。

人を動かすときもそう。後ろから励まし自力で進ませる方が上手くいく。

 

 

 

人の短所より長所に目を向けるべし。

人の短所を見ると自分の方が優れていると思い、自分の為にならない。

人の長所を見ると相手に学ぼうとするから、有益である。

 

 

 

人は楽しむことが必要。

楽しみとは、外にあるものではなく内にあるもの。

 

 

 

寒暑、栄枯は天地の呼吸。

苦楽、栄辱は人生の呼吸。

世界は活物である。

 

 

忙しい中に余裕を生み出し、

苦しみの中に楽しみを見つけるような工夫が大切。

 

 

 

怠けていると、冬の日も長く感じる。

勉め励んでいると、夏の日も短く感じる。

時間の長さは心持ち次第。年そのものではない。

 

 

そして最後。

特に良いなと思ったのが、これ。

 

禍がないことを幸福と思えばいい。

恥をかかなければ栄誉なのである。

若くして死ななければ長寿と言える。

飢えることがなければ富んでいるのと同じこと。

 

 

 

 

 

今、いろんなビジネス本や自己啓発本が出ていますが、結構どれも似たようなことを言っています。

一度こうした古典的な、本質に迫る本を読んでみるのもいいですよ(^^)

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

読み書きこそ、って話。

 

今回読んだ本はこちら。

国語教育を救え

国語教育を救え

 

 

 書店で何となく気になったので購入して読んでみることに。

 

 

 

そこまで言わなくてもいいんじゃないかなーと思うくらい、

筆者は現状の国語教育を批判しています。

 

 

ただその中で、確かにと思うこともたくさんありました。

 

その一つが「発問」について。

 

最近の定番の授業は、授業の初めに課題やめあてを提示し、その時間に考えさせたいことを子どもたちに教師は問います。

ということは、「その問いから外れた読み方は認めない」ということを暗に意味にしていることになります。

 

一つの問いで一時間。一つの教材文を読み解くのに数時間かかります。

最初から読めている子にとっては退屈な時間でしかないし、その問いがぴんと来ない子にとっては、ずっとぴんと来ないままです。

よくある、「授業で扱った教材文のテストは解けるけれど他の文章で応用が利かない」、なんてことにもなってしまいます。

 

小学校だと担任が自分のクラスの国語を担当しますが(例外もあるかもしれませんが)、すべての教師が提示する発問が、洗練された優れたものであるとも限りません。

 

何よりも窮屈です。

同じ文章を読んでも、そこから感じること学ぶことは人それぞれです。

教師が想定している以上に深く読んでいる子もいます。

 

「誤読や読み落としも有るだろう。ほっておく。たくさん読めば、そのうち読めるようになってくる。わかってくる。大事なのは自力で読むことだ。」

 

という筆者の主張に「なるほど。確かに。」と思いました。

 

読んで、感想をシェアして、また読んで。

それだけでも十分読む力はつくのではないかなと思います。

そしてそれこそ「主体的対話的な深い学び」なのではないかと思います。

 

ただ、試験で点数を取るための読みとなると、ある程度テクニックが必要となってくるかもしれません。でもそれは本来の読みとは違うと思いますが…

 

 

 

また現行の教科書では表現することが重視されています。

自分の考えをもち、話し合う。

 

しかし自分なりの意見を主張できる子はあまり多くありません。

主張できたとしても思いつきのようなものが多く、その根拠を説明しだしたとたんに「あれれ?」

 

ではそうした力はどうやって高めていったらよいのでしょうか。

 

 

「書くこと」が、思考を整理するのに役立っていると考えます。

 

このご時世、パソコンで打ち込むのではなく書くなんて時代錯誤な気がします。

でもパソコンで文章をまとめるのって、見栄えは良いのですが、あまり思考が深まらない気がします。

 

私自身も、ブログを更新して後から読み返してみたら、「なんだこの思考がまとまっていない感は!?」と思うことが多々あります。

ここぞという場面で話すときなどは、いつも書いて思考を整理します。

また普段から気づいたことなどは手帳に書き込んでいます。

 

どうしても手元に書くものがない時はスマホにメモをしています。あとは思考がいらないとき。とにかく情報だけをメモして、あとで補足を加えながら手帳にまとめ直しています。

 

そうやって一度書いて整理することをしているから、こうしてパソコンでも文章にできている気がします。なんともアナログ人間(^^)

 

とはいえいきなり子どもが書いて思考を整理できるかと言えば、難しいところがあります。

 

そこで、まずは、「視写」

 

書くことに慣れるところからスタートします。

思えば自分が小学生の頃は視写をよくした気がしますが、今はそれをやっている時間がほとんどありません。

視写をしているだけでも、自然と書き方に慣れていきます。こうした素地があるから作文ができるようになっていき、やがて文章にまとめることを通して自分の思考を整理し、更には自分の意見をもち伝えられるようになっていくのではないかと思います。

 

そのための過程が随分と削られてしまっているように感じます。

 

ということで、隙間の時間に視写を取り入れるようにしてみました。

そうしたら、変化が凄い。

 

まず書くスピードが上がります。一文字一文字書くのではなく、ある程度の言葉のまとまりとして捉えられるようになっていくからです。また自然と既習の漢字練習にもなりますし、新たな語彙を獲得することもできます。

 

ただのやらされでやっていれば苦痛でしかないかもしれません、でもその意図を意識しながらやってみると実は奥深く、「終わったー」というただの解放感ではない達成感もあります。お手本を作りながら感じました。

恐るべし、視写。

 

ということで、圧倒的な量を読むことと書くことが、すべての基本なのではないかと、今更気づかされたわけです。

平成も終わろうとしている今、江戸時代に戻りました笑

 

 

今は、あらゆるもののさわりの部分がカリキュラムとして詰め込まれていますが、いまいちそれらが実生活に生かされている感じがしません。

それなのに「読み書きそろばん」という基礎の基礎をやっていた寺子屋を出た人たちの方が、そこを出た後もずっと自ら学び続けているし、やがては大きく時代を変えていきました。

この違いは何なんでしょう。

 

大事なのは内容ではなく、自ら学ぼうとする姿勢なのではないかと思います。

自分の興味のあることであれば、誰が何と言わなくとも勝手に学んでいくはずです。

勉強がもう勉強ではなく、趣味や遊びの感覚になっていく。そこを目指したいものです。

 

 

 

少し話は変わりますが、

活動として学び合っているときはテンションが上がりますが、『学び合い』は意外と静かです。

最初は「分からない人ー」とか言って歩き回るのですが、分かってもらおうとしても上手くいきません。どれだけ教えようが、結局はその子自身が分かろうとしてやるしかないということに気づいていきます。そしてその時、一人ひとりが自分のやるべきことをやっていることが、個人にとっても集団にとっても一番力になることをだんだんと分かっていきます。その集団にいたら自然とやる気が出てしまう、そんな感じです。なのでかかわりも最小限の程よい加減に落ち着いていきます。

結果として一人ひとりがそれぞれ読み書きをしている時間が多くなります。読み書きをしているとき、子どもたちはとても穏やかです。

 

没頭。無我夢中。

 

 

漢字練習。計算練習。読書。作文。

絵を描く。塗り絵をする。工作をする。

 

そういえば「視写って凄い」と言いましたが、今、写経とかも注目されてますよね。

 

こういう超集中状態を、勉強を通じて経験する。

その時勉強をしているという感覚はないかもしれません。

ただ目の前のやることをやっていたら、時間があっという間に経っていて、もの凄い力を発揮していたり新たなひらめきがあったり。

 

いつの間にかゼロポイントフィールド?サムシンググレート?宇宙?天?に繋がっている。

 

これこそが勉強することの真の目的?

そしてその第一歩が、読むことと書くことなのか?

 

国語教育って奥が深すぎるー

でもおもしれー(^^)

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

でっちあげ、の話。

 

今回読んだ本はこちら。

でっちあげ (新潮文庫)

でっちあげ (新潮文庫)

 

 

ある方から紹介してもらい、貸していただいたので、読んでみることにしました。

 

 

 

こんなことが起きていたなんて全く知りませんでした。

当時私は中学生か高校生。

こんなことが世間で叫ばれていたなんて、全く覚えていません。

 

 

最後まで読んでみましたが、結局、真相はよく分かりません。

この本に書かれていることも、真相とは違うことがあるとも考えられます。

 

ただそれぞれの「正義」が、一人の「極悪教師」を創り上げたこと。

そしてそこに関わる多くの人々の日常が、大きく変わってしまったことは事実です。

 

 

今、世間で騒がれていることも、同様のことがあるかもしれませんね。

 

当たり前だと思っていることが、真実ではないかもしれません。

だからこそ、ちゃんと自分で調べたり検証したりする姿勢が大事だと思います。

 

 

教員にとっては必読の一冊と言えるかもしれないし、

知らぬが仏の一冊かも。

 

ただ読んでしまった私は、読んでの学びを今後に生かしていくしかありませんな(^^)

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

人生という名の旅の話。

 

気付いたら最後に更新した日から随分と時間が経っていました💦

 

2019年。始まったとたんに激動の日々です。

もう1か月は過ぎたくらいの充実感ですが、まだ半月しか経っていないことに驚きです。

一日一日でみると時間が足りなくてあっという間に終わっていくのだけれど、まとまった期間として振り返ってみると、あれもした、これもしたと、たくさんのことが思い浮かびます。だから時の流れが長く感じるのかなぁ。

 

そんな日々の隙間の時間を使って読み終えたのが、こちら。

ライフトラベラー 人生の旅人

ライフトラベラー 人生の旅人

 

 

以前はよく読んでいたのですが、最近読んでいなかった喜多川泰さんの作品です。

 

内容はさほど長くないので、合間の時間にさっと読めていい感じでした(^^)

 

その中で、心に残ったものを。

 

 

 

「自由も不自由もない旅か。

それとも、どこまでも自由な、不自由な旅か。

人生を変える旅をしたいきみが選ぶのはどっちだい?」

 

 

旅の話をしているようで、単なる旅の話ではありません。

タイトルのごとく、人生という「旅」について考えさせようとしているのだと思います。

 

自由なことを増やそうとすればするほど、不自由なことにつき合わされることも多くなります。一見不自由に思えることも、自由に生きようとした結果起こったこととして楽しむことができれば、それはある意味全てが自由と捉えることもできます。

まさに「人生ドラクエ」。

不自由なことに立ち向かってこそ、自由の良さを知ることになるかもしれないし、何よりネタが増えておもしろくなりそうだなぁ。

 

 

 

「人と人が出会っているときというのは、

実は目に見えない〈想い〉と〈想い〉が出会っているときなのさ。

そして、同じ〈想い〉をいだく者同士が出会ったときには、

必ず、見えないところで奇跡が始まっているんだよ。」

 

 

これはぱっと言われた時には理解できないかもしれません。

しかし、実際に行動して確かめてみると、そうとしか思えないようなことが舞い込みます。しかも加速度的に増えていきます。

これもまた「人生ドラクエ」。

必要なタイミングで必要なイベントが起こるようになってるんだなぁ。

 

 

 

「夢とか目標とかがなくたって、やる気満々で行動することだってできるんだよ」

「ほしいものがないのに、何をするのさ?」

「そんなの決まってるじゃないか!目の前にやってきたことだよ。」

 

 

 

自分もかつて、夢や目標を持たねばならないと思っていた時期がありました。

当たり障りのないものしか思い浮かばず、これっていうものがありません。

その空虚な自分に自信をもてなくなることもありました。

 

でも別にそれでよかったんだと今では思えるようになったので、本当に良かったです。

 

夢や目標が特に今見いだせないのであれば、目の前のことをやる。目の前の人を笑顔にする。それでいいんだと思います。そのなかできっと「これ」というものが出てくるのではないかな。

 

 

 

「小学校のころは、教科に関係なくすべてが楽しかった。でも考えてみれば、教科に関係なく、出来不出来に関係なく、やってくる教科とか遊びとか、すべてに本気だったような気がするんだ。ところが、中学、高校と年を重ねるにつれて、いま目の前にやってきたものに本気で臨むかどうかを、いちいち自分で決めるようになった。それも、そのときの自分の都合でね。

 結果として、ひとつ、またひとつと、本気で臨むものを減らしていったんだ。『これいらない』とか言いながらね。」

 

 

 

あぁ、胸が痛い。過去の自分に言い聞かせてやりたい…

 

でもその渦中にいる自分は気づけなくて、今だからこそそれが分かるのかもしれません。

となれば過去をくよくよと後悔している方がもったいないので、これからはそういう選択の仕方はしないと決めて行動する。もしくは、伝わるか否かは置いといて、自分の経験からの学びとして伝えていくことが大切なのではないかと思います。

 

 

 

「どうせやるからにはトコトンやってやろうとするスタンスが定着してくると、

その時間は楽しいものになるし、

その中からやりたことが湧いてくるんだ。」

 

 

やりたいことが見つからない。本当の自分はこんなんじゃない。

でも探したところで見つかるわけはなく、最後は自分で自分というキャラを設定するしかありません。

あれこれ考えてドツボにハマっていくくらいなら、目の前のことに全力で取り組んで、疲れ果てて寝てしまって…というくらいの方が、いつか、ふと「これだ!」というものが見つかるのではないかと思います。私はそうでした。

 

 

 

「旅先で何を与えるかなんて一切考えていない。

自分が何をもらうかばかりを考えていたんじゃないかい?」

 

 

これは自分が旅に出るときなどにも、意識しておきたいと思います。

どうしても何かを得ようとする考えが優位になりがちなので。

 

得る物以上に与えてこようと思って行動できたら、もの凄く心が満たされて、その旅の中で出会う人や起こることすべてに感謝できそうです。

 

 

 

「ぼくたちは自分と会話しながら生きているだろ。誰かと会話していないときは、常に自分と話してる。どこへ行こうとも、いちばんの話し相手である自分はいつも一緒にいる。だから、こんな人といっしょだったら、旅は楽しくなるのになぁと思えるような人に自分がなるしかないんだ。」

 

 

旅に出た時なんて、いつも以上にハプニングに巻き込まれがち。

そんな時、余計にイライラしてしまいがち。

でもその態度を見せたり感情をぶつけたりしてしまっては、誰も得しないし笑顔にもなれない。

ならば、そのハプニングをいかにネタに変えて笑って楽しめるか、という発想の転換が大切。

 

自分の機嫌は自分で取る。

他人の機嫌は自分の機嫌次第。

自戒を込めて。

 

 

 

 

今回この本を読んで、出会った人にあげられるような何かがあるといいなぁと思いました。

 

何がいいだろう。

 

 

よし!

まずは小冊子を作ります(^^)

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

今日は絶対拡張の日なので。

 

日々の仕事をより広げていくための、スタートの日にします。

 

今回読んだ本はこちら

 

大学時代に、講義を聴講させていただいた赤坂先生の著書。

 

昨今の社会の変化を受けながら、どのような教育が今後必要となっていくのか。

またその中でアクティブラーニングはどうあるべきか。

 

そこに、先生自身の実践やその後の研究を通しての、集団作り、児童生徒との関わり方、いじめに対抗する術などをまとめた、単なるノウハウの紹介に留まらない教育書です。

 

 

赤坂先生も、風越学園の岩瀬先生も、

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「『学び合い』実践者」とは言われていないものの、

『学び合い』を方法で捉えている実践者と比較すれば、数段上手の『学び合い』実践者と言えると思います。

 

「私は〇〇をやっています」と言葉にするよりも、普段の実践や行動がすべてを物語っていると思います。

大学で『学び合い』の理論を学び、そこから現場に出た私のような者は特に、その中にいて満足するのではなく、『学び合い』か否かに関わらず他の実践者から学ぼうとする姿勢が必要だと思います。

また素晴らしい実践者は別に世間的に広く認知されている方々だけではありません。自分の勤務校や同じ中学校区で勤務する方など、ごく身近な所に意外といるものです。

 

「多様な人と折り合いをつけ、自らの課題を達成する」能力を高める『学び合い』を実践する者ならば、自ら率先してそういう姿を示していかねばと、改めて考えさせられました。

 

こうした素晴らしい方々にすぐにコンタクトを取れる環境にいたのに。

独り暮らしをして親のありがたみが分かるように、こうした環境がいかに恵まれているかは、その状況から離れないと分からないんだなぁ。

 

しかしそこから、「今がとても恵まれていて幸せである」ことに気付けたのは良かった良かった(^^)

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪