おもしろおかしくやるんべぇ~ゆとり世代も悪かねぇ~

THEゆとり世代。さとり世代とも言われる世代「ふたば」の見方や考え方、そして日々の学びをまとめたブログ。

新たな読書のスタート、の話。

 

戦後、西洋に倣って経済発展を成し遂げ、物質的・金銭的な豊かさを得ました。

 

それで「幸せになったか」と考えると、うーん。

 

衣食住に困ることなく生活できるようになったことは、間違いなく素晴らしいことです。大病を患ったり事故に巻き込まれたりしない限り、そう簡単には死にませんから。

しかしそのことが「ありがたい」ことではなく「当たり前」のことになってしまいました。

あらゆること・ものが「当たり前」。

物質的・金銭的な豊かさを得る一方で、精神的な、心の面の豊かさを失ってしまったように思います。

 

 

そんなこともあり、

 

公務員の前身=武士

なわけですから、

 

武士の心を学び始めました。 

 

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忘れかけている東洋的な思想を思い出し、西洋的な思想と融合することで、

 

目指すは中庸的な存在!

 

 

 

そんな時、

 

時空旅人 2018年 3月号 Vol.48 偉人たちの愛読書
 

 

たまたまこんな雑誌を目にしたので、 

 

 

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吉田松陰の愛読書から学ぶことにしました。

 

 

 

今後読みたいのが、

四書五経」「武系七書」「洗心洞箚記」「菜根譚

です。

 

 

 

そして今回。

まず初めに読んだのは、 

 

現代訳論語
 

 

「四書」の一つ、論語 

 

 

 

この本と併せて読み進めました。

 

 

 

 

面白いなぁと思ったのが、孔子からどんな教えを受けたのかが、弟子ごとに違うということ。

孔子の思想や理念といった「抽象」の部分は一貫したものであって、

それをどのように一人ひとり違う弟子たちに伝えるか、という「具体」の部分に関しては結構バラバラ。なので、一見矛盾しているように感じることもありました。

 

まさに「具体」と「抽象」。 

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自分が無意識のうちに自然とできてしまうことは、わざわざ言葉にする必要がありません。それを弟子たちに伝えるということは、きっと孔子も、自身の言行を一致させる難しさを常に感じていたのだろうなぁ。

そう考えると、急に身近な存在のような感じがします。

 

まぁ、人間そんなもんですよね(^^)

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

緩和ケアの話。意外なつながり。

 

2018年。

 

とにかく動く。考えずに悩まずに動く。

そうやって行動してきました。

 

でも行動をするには健康な体が大切。

そう思って、健康的な食生活や体作りに興味をもちました。

そしていろんな情報を得ました。

 

 

2019年。

今興味をもっているのが「死」に関してです。

 

別に怪しい感じではありませんし、ネガティブなわけでもありません。

 

 

「どう生きるか」を考えてみると、選択肢が多すぎて悩みます。

考えてわくわくが止まらないくらいならいいのですが、私はわくわくすることよりも不安の方が多くなってしまいました。

 

でも「どう最期を迎えたいか」を考えてみると、思いついたことはシンプルなことばかりでした。

ならばそれを大切にした生き方をして、合わないものは切り離していけば、案外幸せな人生を送れるんじゃないの、と思うようになりました。

そう考えていくと、わくわくするとまではいきませんが、いい意味での諦めみたいな、ポジティブな感情が生まれました。

 

 

ちょうどそのタイミングで、今日はまごころ塾。

今回の講師は、緩和ケア 萬田診療所の萬田緑平先生でした。

 

 

自分の大切な人が病気にかかったとき、

もちろん治って欲しいし元気で長生きしてもらいたいと思います。

 

ただそのための治療は、本当に本人の望んだものなのでしょうか。

 

家に帰りたいと思っても、チューブにつながれた措置が始まればそうはいきません。

完治して帰れればいいですが、そうでなければ最期を病院で迎えることになります。

 

病院で暴れる方もいらっしゃるようですが、それはなぜなのでしょう。

 

押さえつけ、落ち着いていきます。

それは納得したからなのか、抵抗しても無駄だと諦めたのか。

 

家族も医師も、患者のためを思って方法を考えています。

患者本人が治療を望まないから治療をしない、というのはなかなか難しいと思います。

患者が一見すると元気な時ほど、特に。

 

 

 

そしてふと、こんな風に思いました。

 

「これ、教育にも似ているかも」

 

その進路は本当に本人の望むものなのでしょうか。

失敗させたくない、辛い思いをさせたくない、家族や教師の愛も分かります。

 

子どもにはその判断能力はないのでしょうか。

だとしたら、認知症の患者の判断はどうなのだろ。

 

反抗するとしたら、なぜでしょう。

 

 

 

まさか、講演を聞いたことがこう繋がるとは思いませんでした。

しかし大切な視点や情報を得られたと思います。

これからもう少し萬田先生の本も読みたいと思います!

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

群馬セミナー2019の話。

 

先週の土曜日、

今年度も無事に群馬セミナーを開催することができました。 

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ちょうど同日に東京でも会があったので、人数が集まるか心配な所でしたが、予想を越える参加者が集まり驚きました。

 

それだけ『学び合い』の裾野が広がっているのだと思います。

 

 

 

県内や近県の方の参加が多く、保護者も参加されるのが群馬セミナーの魅力的だと思います。

そして今回は特に、教育関係だけでなく、多様な方々が参加していました。

 

その分、どの層をターゲットにした内容にするかは、今後考えていかねばならない課題です。

 

 

と言っても…

全員のニーズを満たすというのは困難です。

 

群馬セミナーは年に一度の大きなイベント的なポジションで、

もっと深く知りたい、学びたいという方には、毎月最終木曜に行われているセミナー(通称:木セミ)や太田の会、そしてふたばの会(不定期開催)のような小規模の会に参加してもらうしかありません。

 

気軽に相談できる場が、県内にもっと増えるといいと思います。

大きな市には一つくらいあっても良さそうです。

これからはオンラインも活用していけるといいなぁ。

 

 

群馬の会でありがたいのは、『学び合い』が成立していく過程を知っていて、初期の実践をされていた方と直接話ができることです。

 

今では多くの書籍も出ているので、だいたい『学び合い』がどのようなものかは分かります。

しかし実践者と直接話さないと伝わらない、分からない部分もあります。

 

分かっているつもりでも、少しずつ忘れてしまうものです。

 

「ああそうだ、そうだった」

「なんでこんなことを悩んでいたんだろう」

 

そうやって初心にかえれる場、私にとってはそれが群馬セミナーです。

 

実践していく人が増えれば、その分上手くいかなくて悩む人も増えます。

多くの人が初心にかえれる場として、各地の『学び合い』の会がもっと広まっていくといいなと思います。

 

 

ご参加いただいたみなさま、ありがとうございました(^^)

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

「抽象的」の捉え方が変わった話。

 

今回読んだ本はこちら。

具体と抽象 ―世界が変わって見える知性のしくみ

具体と抽象 ―世界が変わって見える知性のしくみ

 

 

読書のすすめで購入したこのシリーズも、残り少なくなってきました。

 

 

 

本にもあるように、「具体的」=わかりやすい、「抽象的」=わかりにくい。

と私も捉えていました。

もちろんそうした面もあるのですが、その理由と、「抽象的」であることの素晴らしさを知り、なんだか見る世界が変わったような気分です。

 

 

もとは別の物を、同じグループにしてまとめる。それを記号に置き換える。

人間が生み出した「言葉」や「数」こそ、まさに「抽象化」の賜物なんですね。

 

本書の最後の方にある言葉がとても印象的。

 

「国語」と「算数」

小学校からずっと学ぶ「二大教科」こそ、まさに「抽象化」を学ぶ教科。

 

「数学なんか勉強しても役に立たない」という言葉は、まさに「抽象化の学習」が失敗していることを意味する。

 

国語も、日常会話の言語として使うだけなら、「日常日本語会話」だけ学べばよい。

わざわざ膨大な時間をかけて、難解な文章を要約したり、自分の考えをまとめたりする練習をするのは、「抽象」と「具体」の往復運動というを頭の体操のため。

そこが「国語」が、単なる「日本語」ではない、決定的な違い。

 

なるほどー!!!

 

最後の最後にここを読んで、これまで読みながらなんとなく理解していたことが、すとーんと落ちました!

 

 

 

他にも学びがたくさん。

 

 

なんとなく「具体的」であることの方が良く、「抽象的」であるのは悪いというようなイメージがあります。しかし「具体的」に説明し出したら、膨大な量の情報のやり取りが必要になってしまう。

 

ただ「具体的」な説明を望む人からすると、「抽象的」であることは分かりづらいので、逆に困るんだろうな。

 

「日本を変える」という「抽象的」なミッションがあったとして、

自分で工夫してやりたいようにやるタイプの人なら、自由度が高いのはありがたいこと。のびのびと活躍できる。

でも「具体的」に何をするのかが見えない人からしたら不安でしかなく、どう動けばいいか分からなくなってしまうんだろうな。

 

しかも「抽象的」なミッションの、根幹の部分がぶれていなければ、「具体」の部分では矛盾しているようなことも起こるし、言っていることが急に変わるようなこともある。何がしたいのかわからない、と思われるのも無理はないなぁ。

 

どちらがいいか悪いかではなくて、ミッションや信念は自然と「抽象的」なものになっていくだろうし、それを実現するために計画し行動に移すことは「具体的」なものになる。

その両方のバランスが大事ってことなのだろう。

 

 

「抽象」の度合いが高い人には、その人に適したことがあるし、

「具体」の度合いが高い人には、その人に適したことがある。

 

 

 

あと、なるほどなぁと思ったのが「パクリ」について。

 

「具体性」の高いものを真似すれば、それはパクリになる。

しかし「抽象的」な、ものに関しては合法的に盗み放題。

 

一見して「これはあれと似ているなぁ」と思わせてしまうということは、「具体性」が高すぎるからなのだろう。結局それは真似ではなく、単なるパクリになってしまう。

 

 

「具体的」であること、分かりやすいことが重視されすぎてしまったことが原因かもしれません。

 

「抽象」の方から「具体」は見えますが、「具体」の方から「抽象」は見えません。

 

ノウハウ本のようなものよりも、「抽象」の度合いの高い、難しそうな本を読みたくなるのは、そういうところから来ているのかも。まさに、縦糸の読書。

縦糸が通っていれば、「具体」はいくらあっても取り込むことができる。

「具体」ばかり追ってしまうと、縦糸が構築されず、いろんな情報のなかで右往左往してしまう。

 

巷の働き方改革にしても多忙化解消にしても、「具体」の部分で考えすぎてしまっているような気がして、私がなんとなくもやもやするところは、そこなんだと思います。

 

いやー。読む前と後とでは大違い。

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

1年間『学び合い』で算数をやってみての、まとめの話。

 

いよいよ明日で2月が終わります。

そして2年生算数の教科書の内容も、明日でちょうど終わります。

ちょうどいいタイミングなので、これまでの学習の様子をまとめてみました。

 

 

 

基本的には、教科書配当の単位時間で進みました。

肝となる部分について「~について説明しよう」という課題が多かったです。

ただ技能を身につけることに重点化したいときは「~できるようになろう」にしました。

 

 

 

最初の頃は自分の言葉でまとめるということに慣れていないので、時間が掛かりました。

特に「時刻と時間」については、配当時間のわりに内容が多く、大変でした。

アナログの時計を読む経験も少なく、まず理解するので手いっぱいで、それをまとめて説明するというのはかなり苦労していました。

 

 

 

「たし算・ひき算の筆算」はいい感じでした。

 

私は最初に、筆算の技能を身につけさせるようにしています。

 

よく例題の一問についてじっくりと解き方を話し合う、という授業の展開がありますが、場合によっては時間内に終わらず、練習問題に進まないということがあります。

これでは筆算の仕方は説明できても、技能が身につきません。

 

筆算を間違えるパターンとして多いのは、初歩的な計算ミスです。

解き方が分からなくて、ではありません。

初歩的な計算ミスなら、繰り返し練習して、まずは定着させてしまった方が良いと思います。

 

とりあえず筆算ができるようになった後で、筆算の仕方についてまとめ、説明し合いました。

 

 

ということで、私は筆算についてはかなり教えています。

授業時間内に、問題プリントでいっぱい計算練習をさせています。かなり私主導。

そのうえで、分からないときは相談してもいいよと伝えています。私も教えに入っています。

 

ただ、単元の最後に筆算の仕方についてまとめる時には、なるべく自分の言葉でまとめられるようにね、と伝えました。

 

知識・技能はある程度授けることができても、思考力や表現力は授けられません。これは子どもたちが思考し表現する中で高まっていくものだと思います。なので、この時には介入はなるべく控えるようにしました。

 

 

 

そのあとの「長さの単位」についてもそうです。

 

1年生でやった直接比較や間接比較を思い出し、任意単位を用いての表現をしました。そして普遍単位へと、その必要性について考えながら学習を進められるようにしました。普遍単位を使う最初の単元です。こうしたことについては知っておいてほしいと思ったので、かなり私が教えました。

 

1cm=10mmという数量関係については覚えてもらうしかありません。いろいろなものの長さを測って、おおよその長さの感覚をつかんでもらうしかありません。活動の後に、その日の学習をまとめ、説明し合いました。それを繰り返しました。

 

 

 

次は「100より大きい数」です。

 

10円玉が10枚で100円。100円玉が10枚で1000円。

お金を例にすると、10のまとまりが10個で100、100のまとまりが10個で1000というのは、すぐに理解していました。ノートにまとめて説明することにも慣れてきていたので、この単元では、まとめもどんどん進みました。今までは教科書のことを写したのもが多かったのですが、「お金で考えると分かりやすいです。10円玉が~」という風に、まとめや説明の仕方に工夫が見られるようになってきました。

 

大きな数のたし算やひき算についても、「一の位の0を消して計算すればいい」ということは分かっていても、どうして「消して考えてよいのか」というのは子どもたちだけでは難しかったようです。

ただここでもお金を例に、「10円玉や100円玉の枚数を先に計算して、後から金額に直せばいいんだよ」というと、理解できる子が多かったです。

あとは理解した子たちが説明する中で、徐々に全体的に理解が深まっていきました。

 

 

 

1学期最後は「かさの単位」

 

この辺りから、学習の様子が変わってきました。

というのも、普遍単位の必要性や数量の表し方、そして測定する活動という単元の構成は「長さの単位」とほぼ同じだからです。

c(センチ)とd(デシ)の違いはあれど、考え方はほとんど一緒なので、私が説明しなくともどんどん学習が進みました。まとめに困ったときも、「長さの学習のまとめを見て思い出してごらん」と言うだけで分かってしまいます。予想よりも短い時間で単元の内容が終わりました。

 

 

 

そして1学期末の復習。

「100より大きい数」と「かさの単位」で浮いた時間があるので、まずは理解しきれていない様子だった「時刻と時間」。そして2年生でマスターしておきたい「たし算・ひき算の筆算」を中心に復習をしました。

 

問題プリントをひたすら解く子もいれば、今の1年生が2年生になった時に使えるように「教科書よりも分かりやすい説明書」を作ってまとめるような復習をする子もいました。

 

 

 

2学期の最初は「たし算・ひき算の筆算」

 

今度は式や答えの桁が増え、繰り上がりや繰り下がりの回数が増えました。

でも、基本的な筆算の仕方は同じ。それについては、1学期のうちに身に付けています。なのでほぼ教える必要なく進んでいきます。

まとめについても、最初はひっ算の仕方をイチからまとめていました。でもだんだんめんどくさくなってきたのか、「1学期にやったのと同じで、違うところは~」という風なまとめ方に変わっていきました。

自然と既習事項を活用しているわけです。すごいなぁ。

これまた時短にもなりました。かなり。

 

 

 

「三角形と四角形」

 

新たな用語が増えたので、私が教える内容や時間は多め。基本的には教科書通り。

感覚としては、「長さの単位」の時と似ていました。

 

 

 

2年生のメイン、「かけ算」

 

最初の、かけ算とはどういう計算か、については教えることが多かったです。

累加の考えで答えが求められることが分かれば、一緒にやるのは2と5の段もやれば十分で、あとは自分たちで九九を構成していけます。

教科書配当の時数の2/3くらいで済んだと思います。

 

浮いた時間はひたすら暗唱の練習に。

 

 

 

「長いものの長さの単位」

 

これは「長さの単位」と「かさの単位」の学習を生かして、ほぼお任せ。

 

 

 

1単元早く進み、「たし算とひき算の関係」

 

これはテープ図を使いながら、結構じっくりと取り組みました。

互いに問題を作って出し合ったりして、おもしろかったです。

 

 

 

これで2学期終了。学期末のまとめでは、九九の練習に、筆算の練習。

筆算については、互いに問題を出し合っていたら少しずつ難易度が上がっていき、桁が増えてしまいました。おいおい、これは3年生の学習内容だよ。

「教科書よりも分かりやすい説明書」として、「三角形と四角形」を取り上げる子が多かったです。新しく出てくる用語が多かったので、もう一度復習としてまとめておきたかったのかもしれません。

 

 

 

3学期の最初は「1000より大きい数」

 

これは「100より大きい数」を生かせばOK。

 

 

 

「はこの形」

 

ここでは「三角形と四角形」の学習が生かされます。

 

 

 

「かけ算のきまり」

 

「かけ算」の時に、「かけ算とはどういう計算か」ということを丁寧にやったので、この単元では、あまり説明する必要はありませんでした。

 

かつて、ひたすら九九練習に取り組んだ甲斐がありました。

ただ欲が出ます。

3年生で「かけ算の筆算」や「わり算」の学習があることを考えると、

もう少しパッと答えを出せるようになるといいなと思いました。

 

なので、「100マス計算」をたくさんやりました。

 

 

 

最後に、「分数」

 

折り紙チョキチョキ。楽しくやりました。

 

 

 

3月はまるまる2年生の復習に充てることができます。

「かけ算が3年生のわり算にもつながるんだよ」と言ったら、早速、自主学習でわり算に挑戦する子が出てきました。今ではあまりのあるわり算にも挑戦しだしています。

 

3年生の最初にもう一度出てくる「時刻と時間」

それに向けて、最後の最後に、攻略したい!!

 

 

 

ということで、

私の『学び合い』算数はこんな感じでした。

 

結構たくさん教えていますね。

知識や技能を授けることの多い単元は、特にです。

しかし一方的に教えていても身につかないですし、思考力や表現力は伸びません。なので、自分の言葉でまとめたり説明したりする時間を設けています。

最初は私の説明や教科書に書かれていることの真似が多いです。でも、別にそれでもいいと思います。

 

それは、その学習した内容を既習事項として、後の単元で使うことを見越しているからです。

 

2年生で学習する算数の単元、半分近くが被っています。

1学期に筆算。夏休みを挟んで、忘れかけた頃に2学期にもう一度。そんな感じ。

既習事項を生かしてその単元の学習をすることが、既習事項の復習にもなっています。

 

こうしていくうちに、私が説明する必要はどんどんなくなっていき、子どもたちの思考力や表現力がどんどん高まっていきます。そして時間がどんどん浮いていきます。

 

復習にじっくりと時間をとれます。そしてその復習の仕方のレベルも上がっていきます。

 

前1学年分の内容を分かっていれば、それは既習事項として多く説明しなくても済みます。

後1学年分の内容を見越しておけば、今身につけておきたいことに重点化できます。

 

 

一斉に指導した方が良いかなということは一斉に指導しますし、ここはあれこれ相談しながら考えたほうが良いかなということは、学び合っています。

 

どっちも大切。どっちもなきゃ成立しません。

学習内容や実態、状況で判断して、最適だと思う方を選択すればいいと思います。

 

 

その背景には、「一人も見捨てず、みんなで助け合い高め合おう」という想い。

 

 

一斉指導と学び合いは、どちらも不可欠な両輪。

『学び合い』は原動力、エンジンのようなもの?

 

 いや、それだと『学び合い』無しでは走れないことになってしまうから、違うな。

 

 

「○○に行きたい!」という想い、かな。

 

 

例えがよく分からなくなってきた(^^)

 

 

 

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「知ってる・見えてる・正しいつもり」の話

 

今回読んだ本こちら。

自己矛盾劇場 ―「知ってる・見えてる・正しいつもり」を考察する

自己矛盾劇場 ―「知ってる・見えてる・正しいつもり」を考察する

 

 

読書のすすめで購入した本の一冊です。

 

 

 

 

「自分の頭で考えよう」

 

→ という言葉をきっかけに考え始めるのは、本当に自分の頭で考えていると言えるのでしょうか。

 

 

 

「あなたのために言っている」

 

→ と言わなければならないのは、相手を変えようとして上手くいかない、自己の弁護のため。

 

 

 

「どうして分からないの」

 

→ そんなことを言って分かるくらいなら、とっくに分かっている。そもそも簡単に分かってしまったら、教える側の存在する意味がなくなってしまいます。

 

 

 

 

 

こんな風に、教育って「自己矛盾」だらけです。

自己矛盾をしないことの方が無理があり、難しいですが、これを知っておくだけでも違います。

 

子どもに対して伝える言葉や、自分自身の思考の仕方に気を付けようという意識が生まれるのではないかと思います。

 

 

 

 

「イノベーターを育てる」

 

→ イノベーターは育てるものではなく、勝手に育つもの。

 

 

「教育や学校は一世代上の価値観の押し付けという側面が大きく、そこに素直に従っていては世の変革などできません。」(p.128)

 

 

だから、世を大きく変える人って、中卒や高卒、もしくは中退なんて人が多いのかもしれないなぁ。

 

中卒より高卒、高卒より大卒。中退せずに卒業。

そうやって行けば行くほど、イノベーターが生まれにくくなってしまう。

 

丁稚奉公で学校に通えなかった経験が無ければ、松下幸之助のその後の活躍は無かったかもしれません。

 

安定している時代ではなく、変革の求められる時代では、枠にはまっていてはいけないんですね。(という枠にはまっていますが…)

 

 

無知の知メタ認知

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

ずっと練習をサボっていたのに、いつの間にかゴルフが上達していた話。

 

興味のない方には全く価値のない投稿かもしれませんが(^^)

 

 

先日、同僚の先生に誘われて、久々にゴルフの練習に行きました。

最後にクラブを握ったのは、1年近く前だと思います。

 

社会人として働き始めてから始めたゴルフ。

それからはちょこちょこと練習していたので、こんなに長い期間クラブを握らなかったのは初めてです。

 

 

普通は下手になるはずです。

 

 

ところが……

 

 

 

ちょっと上達してました笑

 

久々の練習でしたが、だんだんと感覚を取り戻していき、終わり頃には気持ちよくクラブを振ることができていました。

 

 

 

なぜでしょう?

 

理由を考えてみました。

 

 

 

 

 

まずは重心が安定していたことです。

 

脛骨直下点に重心が来ていて、足の指の腹が地面に吸い付いている感じ。

足の裏全体で地面を握っているような感覚でした。

 

クラブを振っても、重心が左右にぶれることがありませんでした。

 

また頭の位置が安定し、体軸がスッと通って安定していました。

 

 

 

 

そして力が抜けていたことです。

 

どうしても飛ばそうと思うと力みます。

久々の練習の時は特にそうで、力の抜き方を忘れています。

結果としてスライスすること多し。

 

しかし先日は、程よく力が抜けていました。

力んでいないので、クラブヘッドの重さを感じながら、気持ちよくクラブを振りぬくことができました。

 

久々に練習をした後は、掌や指の、クラブに接する部分が痛くなりがちです。しかし、今回は大丈夫でした。

 

 

 

 

安定した重心と体軸、そして脱力。

 

 

もうお分かりの方もいらっしゃるはずです。

 

 

 

これは、

 

 

まさに、

 

 

立腰(タテゴシ)の効果!!

 

 

 

最近は特に運動をしていないので、これ以外に思い当たることがありません。

 

 

 

 

立腰(タテゴシ)の効果で、まずは脱力ができていました。

なので、クラブを握る腕に、余計な力がかからなくて済んだのだと思います。

また、胴回りのアウターマッスルが緩んできたので、インナーマッスルを使って捻転ができていたのではないかと思います。

 

そして立つときにも、足に無駄な力がかからずに済み、正しい位置に重心が来ていました。結果として重心がぶれず、良いスイングができていたのではないかと思います。

 

ボールを打つというよりも、気持ちよくスイングしているだけ。

その軌道上にたまたまボールがあり、勝手に真っ直ぐ飛んでいくという感じでした。最高です!!

 

 

私はたまたまゴルフの練習で立腰(タテゴシ)の効果を感じましたが、他のスポーツなどにも役立つと思います。

 

興味のある方は、是非観てみてください!!

www.youtube.com

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪