おもしろおかしくやるんべぇ~ゆとり世代も悪かねぇ~

THEゆとり世代。さとり世代とも言われる世代「ふたば」の見方や考え方、そして日々の学びをまとめたブログ。

「抽象的」の捉え方が変わった話。

 

今回読んだ本はこちら。

具体と抽象 ―世界が変わって見える知性のしくみ

具体と抽象 ―世界が変わって見える知性のしくみ

 

 

読書のすすめで購入したこのシリーズも、残り少なくなってきました。

 

 

 

本にもあるように、「具体的」=わかりやすい、「抽象的」=わかりにくい。

と私も捉えていました。

もちろんそうした面もあるのですが、その理由と、「抽象的」であることの素晴らしさを知り、なんだか見る世界が変わったような気分です。

 

 

もとは別の物を、同じグループにしてまとめる。それを記号に置き換える。

人間が生み出した「言葉」や「数」こそ、まさに「抽象化」の賜物なんですね。

 

本書の最後の方にある言葉がとても印象的。

 

「国語」と「算数」

小学校からずっと学ぶ「二大教科」こそ、まさに「抽象化」を学ぶ教科。

 

「数学なんか勉強しても役に立たない」という言葉は、まさに「抽象化の学習」が失敗していることを意味する。

 

国語も、日常会話の言語として使うだけなら、「日常日本語会話」だけ学べばよい。

わざわざ膨大な時間をかけて、難解な文章を要約したり、自分の考えをまとめたりする練習をするのは、「抽象」と「具体」の往復運動というを頭の体操のため。

そこが「国語」が、単なる「日本語」ではない、決定的な違い。

 

なるほどー!!!

 

最後の最後にここを読んで、これまで読みながらなんとなく理解していたことが、すとーんと落ちました!

 

 

 

他にも学びがたくさん。

 

 

なんとなく「具体的」であることの方が良く、「抽象的」であるのは悪いというようなイメージがあります。しかし「具体的」に説明し出したら、膨大な量の情報のやり取りが必要になってしまう。

 

ただ「具体的」な説明を望む人からすると、「抽象的」であることは分かりづらいので、逆に困るんだろうな。

 

「日本を変える」という「抽象的」なミッションがあったとして、

自分で工夫してやりたいようにやるタイプの人なら、自由度が高いのはありがたいこと。のびのびと活躍できる。

でも「具体的」に何をするのかが見えない人からしたら不安でしかなく、どう動けばいいか分からなくなってしまうんだろうな。

 

しかも「抽象的」なミッションの、根幹の部分がぶれていなければ、「具体」の部分では矛盾しているようなことも起こるし、言っていることが急に変わるようなこともある。何がしたいのかわからない、と思われるのも無理はないなぁ。

 

どちらがいいか悪いかではなくて、ミッションや信念は自然と「抽象的」なものになっていくだろうし、それを実現するために計画し行動に移すことは「具体的」なものになる。

その両方のバランスが大事ってことなのだろう。

 

 

「抽象」の度合いが高い人には、その人に適したことがあるし、

「具体」の度合いが高い人には、その人に適したことがある。

 

 

 

あと、なるほどなぁと思ったのが「パクリ」について。

 

「具体性」の高いものを真似すれば、それはパクリになる。

しかし「抽象的」な、ものに関しては合法的に盗み放題。

 

一見して「これはあれと似ているなぁ」と思わせてしまうということは、「具体性」が高すぎるからなのだろう。結局それは真似ではなく、単なるパクリになってしまう。

 

 

「具体的」であること、分かりやすいことが重視されすぎてしまったことが原因かもしれません。

 

「抽象」の方から「具体」は見えますが、「具体」の方から「抽象」は見えません。

 

ノウハウ本のようなものよりも、「抽象」の度合いの高い、難しそうな本を読みたくなるのは、そういうところから来ているのかも。まさに、縦糸の読書。

縦糸が通っていれば、「具体」はいくらあっても取り込むことができる。

「具体」ばかり追ってしまうと、縦糸が構築されず、いろんな情報のなかで右往左往してしまう。

 

巷の働き方改革にしても多忙化解消にしても、「具体」の部分で考えすぎてしまっているような気がして、私がなんとなくもやもやするところは、そこなんだと思います。

 

いやー。読む前と後とでは大違い。

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪