おもしろおかしくやるんべぇ~ゆとり世代も悪かねぇ~

幸せ Society 5.0 『学び合い』教育2.0 革命と信用

古武術からの発想、の話。

 

 

今回読んだ本はこちら。

 

古武術からの発想 PHP文庫

古武術からの発想 PHP文庫

 

 

 

タテゴシ体操に出会ってから、「健康な体」について興味が増し、

たまたま目にしたこの本を読んでみました。

 

www.futaba1107.com

 

 

前半は古武術の身のこなし方などを説明しているのですが、

私は武術、武道をやっているわけでないのでよく分からず…

 

少しこれから何か始めてみようかなぁ。

 

 

 

専門的でわかりづらい中でもなるほどなぁと思ったのが、

古武術の基本は「アソビ」や「ウネリ」のない動きだということ。

 

野球のピッチャーがボールを投げる時のように、確かに体を鞭のようにしならせれば速い球を投げられるかもしれません。

 

しかし先行動作を見せてしまっては、武術の世界では致命的。

 

イメージは、体がいくつかに分かれて、それぞれが独立して動く感じ。

一本の鞭のようにしなるのとは全く違う動きです。

 

 

例えるなら、哺乳類や鳥の群れの先頭が方向を変え、後続もそれに合わせて変えていく、動きの波が伝わっていくというのが現代的な体の使い方。

 

古武術的な使い方は、誰かが合図を出したわけでもなく、魚の群れが一斉に方向を変えるような、それぞれが独立して瞬時に動く、ああいうイメージ。

 

イメージは分かった。ではどうすればいいのかというと、

 

うーん。

 

分からん(^^)

 

 

 

 

この本の最後の方に、著者の甲野善紀さんが、古武術を極めていく過程で見出した、いろいろな考えがまとめられています。

 

 

 

よく「丹田」を意識することの大切さが言われたりします。

 

 

無住心剣術」という流儀があるそうです。しかし重要だと思われる、「丹田を自覚し、鍛える『練丹』」について、書物などで残しませんでした。

後学の者たちは、「これは大きなミスであり、そのために彼らの優れた流儀を学ぶのに必要な手掛かりをなくした」と評したそうです。

 

ところが、そうした手掛かりのないはずの流儀を、相当に使える門人が輩出されていったそうです。

 

しかし、重要な手掛かりであるはずの『練丹』を打ち出して門人を導いた者の門下には、剣術史上に残るような剣客は出なかったそうです。

 

このことについて甲野さんは、

丹田の法が間違っていた、ということではなくて『丹田』などと言われると、『ああ、それさえ得ればいいのだな』と、稽古する者が安易な発想になって、何か、観念的信仰的に『丹田丹田』と思い込むことで、何か、やったような気分になるからじゃないでしょうか。

これは様々な新宗教や能力開発法にも見られることですが、元々あったものを簡易化し、何か、信仰の対象のようにして打ち出すと分かりやすいですから普及はするんですが、なかなか深く入ってゆきにくい、ということがあるのでしょう。」

と言っています。

 

確かにキーワード的な物やノウハウがあると分かりやすいですが、結局それさえできていればOKというようになってしまって、思考停止。その先を追い求めようとしなくなり、成長も無くなってしまうのでしょうね。

これはどんなことにも共通することだと思います。

 

 

 

「基礎基本を大事にする」ということについても考えさせられました。

 

例えば野球の素振り。

一見すると、やっている素振り自体は同じように見えます。

 

しかし始めたばかりの人と経験を重ねた人の素振りが同じものであるわけがありません。

意識の向け方、実際に使われる筋肉や力の入り方など、全く違うはずです。

 

何を「基礎基本」と捉え、どれだけ自分が「基礎基本」を身に着けているのか。

その物事について深く極めた者にしか「基礎基本を大切に」という言葉は使えないなぁと感じました。

 

 

 

またこの方が残している言葉が、どれも深い。

 

まずは代表的ともいえるのが、

 

「運命は完璧に決まっていて、同時に完璧に自由である」

 

 

 

そして、

 

「武術は、力に力でぶつかることではない。それは効率が悪い。

そうではなく、相手の力で崩させる。それは合気道も同じ。

 

こちらが支点を消して気配を消せば、相手は情報を欲しがる。

相手は力を抜き、センサーモードにならざるを得ない。

その受け身のセンサーモードの時に、相手側から脈絡のない動き(=情報)がドッと入ってくると、全く抵抗できないし対応できない。

 

それは、相手の確固たる信念に、こちらも確固たる信念でぶつかっても埒が明かないのと同じ。

むしろ、こちらは自在に変転して、相手を映す。

 

それは、相手にうまく情報を与え、自分で考えさせ、〈買ったほうが得だ〉と自分自身で納得して結論を出させるのが上手なセールスマン、というのと同じ。

 

生きていると決断しないといけないことは現実にたくさんある。

だから、自分の本心に沿うような、決断の時に参照する『モノサシ』を自分自身で身に着けることが必要だ。

自分にとっての具体的なモノサシは『深く静かな呼吸』をしているかどうかということ。

 

『深く静かな呼吸』とは、自分の行動決定を自分の本心に照らして、最も納得できたときに『自然に』生じる呼吸のこと。意識的にする呼吸ではない。」

 

 

 

 

そして「教育」についても、

 

 

 

「教育では、むやみに厳しさを教えなくてもいい。楽しさを教えることが大事だ。

楽しさを教えると興味が引き出されてくる。

熱中すると自信もつき、自然にプライドも育つ。

そのプライドは、自分自身をより厳しい立場へと追い込んでゆく。

そうして厳しさは自然に学ばれていくものだ。

 

何しろ大学に受かりたいだけで学問をやって、仮に大学に入れたとしても、卒業後、今度は就職の厚い壁がある。そこでなんとか企業に採用されたとしても、不愉快な上司の下でストレスのかかる仕事をしなければならない可能性は非常に高い。

 

それよりも、自分で生きる意味、学ぶ意味を、若いうちから自覚できるように学んでいけば、苦労したとしても自分で納得のいく苦労である。

 

仮にどこか就職した後、理不尽な上司と対峙しなくてはならなくなったとき、自分なりの覚悟があれば、そこできっちり言いたいことを言って辞めることもできるし、あるいは理不尽な上司の下で働くことで、自らを磨くという方に積極的な価値を見出すこともできる。

 

とにかく学問が自分の人間力を高めるために使えるように、学ぶことの原点について若いうちから本気で考えることは、これからますます価値観が混沌とし、未来を見通すのが困難な時代で非常に重要なことのように思われる。」

 

と言っています。

甲野先生は、武術や体に一直線に向き合い、その結果こうした自分なりの哲学が生まれ磨かれていったのだと思います。

 

言い換えれば、何かに一直線に向き合う経験のない者がそれっぽいことを言っても、結局は薄っぺらい話にしかならないということです。(と言っている私の考えも、なのですが…)

 

一直線に向き合う、とは、批判を受けることも覚悟し、とにかく行動すること。それを継続すること。なのかなぁ。

 

 

 

 

 

また体の話に戻りますが、

 

江戸時代の人は速く走れないそうです。

まぁあの服では、今のように腕を大きく振ったり足を高く上げたりするというのは不可能でしょう。

しかし全力疾走はできない代わりに、小さい体に大きな力と持久力を秘めていたそうです。今のように筋トレなんてしないだろうし、栄養状況も良くはないでしょう。

剣術を磨いたり、後は日々の生活を送ったりする中で、自然に運動量が確保され、より効率的な体の使い方を見出していったのでしょう。

 

 

 

「体育」という教科がありますが、果たしてそれは本当に「体」を育んでいるのだろうかと思い返してみました。

 

よくあるスポーツテスト。あれは現状の能力の測定に過ぎません。その成果を上げるのであれば、テストの前にいかに多様な運動を行ったか、そうした時間をどれだけ取れたかということが関わってくると思います。

 

日常的な運動量の減っている現在。例えば小学生のうちは、今の低学年のように各分野に分けずに、遊びを通していろんな動きをする時間に。テストにかかる時間ももったいないので、テストもなしにして、その代わりに汗だくへとへとになるくらい運動する時間がたまにはあってもいいのではないかと思います。

 

小さい子は走り回るのが大好き。

心臓が未発達な分、ふくらはぎのポンプを活用して血液を巡らせようとしている、らしいですね。じっと座っていられないのも、こうしたことが関係しているようです。運動量がますます減れば、もっとじっとしていられなかったり姿勢を維持できないような子が増えてくるのではないかと思います。

 

また特定のスポーツをやっていて、そのスポーツにだけ特化している…という子もいたりします。

野山を駆け回ったりして、遊びを通して運動神経が発達し、コツさえつかめばいろいろなスポーツをある程度器用にできるなんてタイプの子が、かつてはもっといたと思います。

 

特定のスポーツに特化した結果、同じような動作が続き、同じ箇所に負荷が多くかかります。そして怪我に繋がります。

選手生命の短いスポーツは、やはりそれだけ無理のある体の使い方をしているのだろうなと思います。

 

引退後もその体と付き合って生きていかねばならない、となったときに、

現代的な体の使い方ってどうなんでしょう。

 

年を取って足を骨折し、車いすや寝たきりの生活になると、一気に体が衰えていくそうです。

平均寿命が延びているのだから、それに伴い、体も長く使えるようにしなくては。

となれば、古武術的な、無理のない最小限の力で最大限の効果を発揮するような体の使い方が、これから重要になってくるのではないかと思います。

 

そしてそういう体の使い方を「体育」でできればいいなぁと思います。

体育全体の中では少ないですが、「体つくり」の時間ってめちゃくちゃ重要ですね(^^)

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

ある子の一言。

 

ある日、ある子がこんなことを言ってきました。

 

 

「先生!人生って暇つぶしなんですよね?」

 

 

 

 

えっ!?

 

 

まぁ、そうだと思いますが…

 

 

それをいきなり言われる、聞かれるとは!

 

 

 

 

何かの本で読んだのかもしれないし、

ネットや動画で観たのかもしれない。

 

はたまたこのブログを読んでいた?

 

俺の心の内を読まれた?

 

 

 

 

それは分かりませんが、

何か思うことがあるんだろう、ということは分かります。

 

 

 

 

特に夢も、目標も、とりえと呼べるものもなく、

ただ何となく大人になってしまった私。

 

 

ゲームにハマったことをきっかけに、

「なんだ、現実もゲームと同じ、仮想世界じゃん」と悟った私。

 

 

きっと同じような子もいると思います。

これからますます増えていくんじゃないかな。

 

 

 

こうした状況に陥り、悩みながらも、なんとなーくそこを脱してきた私。

今後も私が教員として続けていく、大きな意味や必要性が見えてきたような気がします(^^)

 

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

久々の読書記録。

 

今回読んだ本はこちら。

 

運転者 未来を変える過去からの使者

運転者 未来を変える過去からの使者

 

 

久々の喜多川泰さんの作品です。

 

 

 

 

上機嫌でいないと、運を転じるようなメッセージに気づくことができない。

 

 

何か大切なものを忘れかけた時、失いかけた時に、

いつも喜多川さんの本から大切なメッセージをもらいます。

 

こうしたメッセージさえ、上機嫌でいないと気づけないのかも。

 

 

 

ブログのタイトルに忠実に(^^)

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

神社を巡って感じたことのまとめ。

 

令和になって初の更新です。

 

連休中、東海・近畿地方の、一之宮をはじめとした数々の神社を巡ってきました。

8日間でいただいた御朱印の数を数えてみたら、なんと

 

 

 

 

 

51!!

 

 

 

 

一つ300円として、結構な額になりますねぇ笑

 

 

御朱印をいただかず参拝だけにした神社もあるので、訪れた神社数となるともう少し増えます。

 

また近くに有名なお寺があった場合にはそちらにも参拝したので、寺社仏閣合わせると、御朱印や訪問個所の数はもう少し増えます。

 

境内を回る間に疲れた体を運転中に回復させ、

運転で酷使した目と脳を神社で休め、

御朱印を書いていただいている間に休憩する、というなかなかハードな旅でしたが、その疲労以上に得るものが多かったです。

 

 

 

そもそもなぜこうして全国一之宮を巡拝するようになったかと言うと、理由は単純。

 

 

「日本をより良くするなら、まずは各地の神様にご挨拶しなきゃ!」

 

 

 

はい、単純というか、むしろアホです。

ですが、名前に「純」の字が入っているので、もうこれは逃れられない運命です。

 

「日本をより良くするなら、まず他にやることあるでしょ」というごもっともなご批判が聞こえてきそうですが、一切お受けいたしません。

だって家を建てる時とか、別にしなくてもいいといえばいいのに、地鎮祭とかやりますよね。それと同じ感覚です。

今ある日本に感謝し、今後の決意を表明する。そのための旅です。

 

 

 

一之宮巡りをしていると、多くのことに気づかされます。

 

 

まずは日本の建国と神話が切っても切り離せません。

 

紀元前660年、今の暦にすると2月11日。

初代天皇である神武天皇が即位した日が、日本建国の日。

日本について学ぶ海外の方々が知っていて、日本に暮らす日本人が知らないという現実。

恥ずかしい話ですが、かくいう私も、こうして巡り始めるまではよく分かっていませんでした…

 

神武天皇の祖先にあたるのが、天照大御神(あまてらすおおみかみ)。

伊勢の皇大神宮(内宮)に祀られている、天皇の祖先神です。

 

別に私は右でも左でもないので、天皇制がどうとかいうつもりはありませんし、

神話の信憑性についてもよく分かりません。

 

あまりに古すぎて、残された資料から考えることしかできないのですから、それが事実かどうかは分かりません。一つのストーリーとして共通に認識していることが大切なんだと思います。

 

この共通の認識が揺るいでしまったら、日本って何?となってしまいます。

というよりこの共通認識が失われた時が、日本の終わりなのかもしれません。

 

 

 

日本に仏教が伝来した時に、受け入れるか否かで争った蘇我氏物部氏

蘇我氏の祖先は武内宿禰(たけうちのすくね)で、天皇家に繋がるし、

物部氏の祖先は饒速日命(にぎはやひのみこと)で、辿れば天照大御神に繋がります。

 

聖徳太子推古天皇の摂政として活躍しましたが、もともと用明天皇の皇子なんですね。

 

 

「娘を天皇の妃にし…」と、栄えた藤原氏

 

清和天皇をルーツとする源氏に、桓武天皇をルーツとする平家。

 

南北朝に分かれ、ぐちゃぐちゃしましたが、

結局戦国大名も辿れば藤原氏か源氏が平家辺りに繋がります。

 

 

 

幕末の志士、明治維新の偉人、そして実業家や政治家。

 

ルーツを辿れば大体どこかの戦国大名に行きつき、更に辿ればどこかの天皇に行きつき、天照大御神まで辿る前にはどこかで繋がります。

 

そしてそれは自分たちもそうです。

 

神社を巡ることは「歴史」を知ることにも繋がるし、「自分のルーツ」を知ることにも繋がります。

そして近い遠いはあれど、「日本人みんな親戚だよ」ということが分かります。

 

おもしろー(^^)

 

 

 

 

栃木の日光にある一之宮は二荒山神社(ふた【あ】らさんじんじゃ)と言います。

 

その昔、日光の中禅寺湖を巡って、栃木の二荒山の神様は大蛇に、群馬の赤城山の神様は大ムカデになって争ったとか。

その戦いで流れた血で赤く染まったので、赤城山と呼ばれるようになったという話があります。

二荒山の「二荒」は「にこう」とも読めます。

「二荒(にこう)」と「日光(にっこう)」かぁ。

 

 

また、山梨にも静岡にも浅間神社があります。

 

山梨にあるのは浅間(あさま)神社。

静岡にあるのは浅間(せんげん)神社。

 

「あさま」と呼ぶ場合には火の神様。

「せんげん」と呼ぶ場合には水の神様を祀っているそうです。

 

火と水なんて相容れないような気がしますが(これはポ〇モンの影響か?)、

火山があることで温泉ができますし、積もった雪が解けて自然の中で濾過され、良質な湧き水になります。

 

Wikipediaによると、アイヌ語で「アサマ」は「火を吹く燃える岩」という意味があるそうです。またマレー語では、「アサ」は「煙」、「マ」は「母」を意味するとか。

 

そういえば、「阿蘇(あそ)」も似たような読み方ですね。

 

また「せんげん」についても、「泉源」とかにつながったりして…

 

 

「浅間」という漢字。

 

「浅」という字はもともと「淺」という字です。

「水」を「戈」で薄く薄く切った様子から、「浅い」になったのだとか。

「貝(お金)」に「戈」で「賤しい」。なるほどー!

 

「間」という字も、門構えの中が本当は「月」だそう。「日」と「月」だと印象が違うし、意味も違うような気がします。

 

 

というように、

 

神社を巡ることで、その「地名の由来」を考えることにも繋がるし、「大和言葉、日本語」を考えることにも繋がります。言葉については、意外と他国の言語と繋がりがあることも見えてきます。

 

おもしろー(^^)

 

 

 

 

一之宮は歴史ある神社が多いです。

そのため、境内にはすごく立派な木や岩があります。

樹齢千年以上という大木もあります。

ということは、戦国の世の中を見てきたんだろうなぁ。

 

奈良の大神(おおみわ)神社には本殿がありません。

それは三輪山そのものをご神体としているからです。

 

山、森、岩、水…

人間に恩恵をもたらしてくれますが、時には脅威ともなります。

こうした自然に対し、感謝と畏敬の念をもって信仰の対象としているところがいいなぁと思います。

 

豊かな山や森が豊かな水を生み出し、豊かな川や海を生みます。

考えてみれば当然なのに、忘れてしまいがちです。

 

三輪山によって生み出された水から、奈良漬けができます。

富士山によって生み出された水から、静岡のお茶ができます。駿河湾で獲れる魚介類ができます。

田畑に流れる水もです。

 

日本って広いようで狭くて、いろいろなところで繋がっていると気付かされます。

そしてこうした自然による産物によって生かされている、ということにも気付かされます。

 

 

 

 

そして何よりも、、、

神社を参拝するとき、拝殿の奥には鏡があります。

 

まさに自分の写し鏡。

これはつまり「あなたの中に神様がいるんだよ。あなた自身が神様なんだよ。」ということです。

 

ルーツ、血筋を辿ってみれば、みんな親戚。

食べているものはすべて神様(自然)の産物。それによって肉体が形づくられています。

 

一神教の方からしたら大激怒しそうですが、これが八百万(やおよろず)の神、あらゆるものに神が宿るという神道の考え方です。

 

家や家具。もともとは木です。

布や衣服も、もともとは植物。

プラスチック樹脂。

石油からできているものも多いですが、化石燃料は大昔の生物の死骸からできていたりします。

 

物になってしまうと忘れてしまいがちだけれど、生活を支える多くの物は、もともとは生物なんです。

 

 

 

 

 

 

最後に、この旅を通して考えたことをまとめて終わりにします。

 

 

 

 

 

それは、

 

 

 

 

 

 

「もう一之宮巡りをする必要ないかも!」

 

 

え?

 

ここまでまとめてきて、最後の最後に、これ? という感じですが笑

 

 

 

結局、一人ひとりみんな大事な神様。

それを気付かせてくれる、思い出させてくれる場としての神社。

 

御朱印そのものにも何か意味があるわけではありません。

このことを分かってしまえば、必ずしも神社に行く必要はないんじゃないかなと思います。

神様という第三者、超越した存在がいて幸福をもたらしてくれるのではなく、あくまで神様である自分が自分自身に幸福をもたらすだけですから。

全ては自分自身。今この瞬間を大切にし、為すべきことを為すだけです。

 

 

 

ただ!

 

 

境内にある鳥居に、灯篭に、手水舎の柄杓など…

どれにも「奉納」の文字が書かれています。

そして奉納の文字と一緒に、企業や個人の名前が書かれています。

つまり神社は多くの人によって支えられているということです。

 

 

しかし今、神社を取り巻く状況はなかなか厳しいです。

 

御朱印を書いてくださる神職さん。

結構高齢の方が多いです。

 

遷宮には多額の費用がかかりますが、神社に寄付をするだけの余力がある企業や個人も減っています。

宮大工さんだって減っているし、高齢化が進んでいます。

 

破損しても、腐食してもなかなか直せません。

 

企業と同じように、神職さんの成り手も不足していると思います。

お祭りを支える子どもやボランティアも減っています。

 

成り立たなくなる神社も増えてくるのではないかと思います。

 

小さな神社は大きな神社と一体となるなど、スマート化していく必要もあると思います。

 

でもこれは学校の統廃合とも似ていて、学校も神社もなくなってしまったような地域は、何によって人と人とが繋がり、何を心の拠り所としていけば良いのでしょう。

 

 

観光地にいるとあまり感じませんが、結局どこの地域、どこの神社も、同じような状況に置かれています。

 

心の拠り所であり、古くから残る自然や建造物を有する貴重な神社を後世に残していくためにも、

こうしたことに気付いた人から、自分の地元の神社を支えていくことが大切なんだなぁと思いました。

 

なので「神社を巡る」ことよりも「神社を遺す」ことに今後は重きを置いていこうと思いました。

 

 

とはいえ一之宮巡拝は継続し、各地にお金を落としてきますけどね(^^)

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

『学び合い』は簡単だけれど、めちゃくちゃ難しい。

 

気づけば教員7年目。

つまり『学び合い』歴も7年目に突入しました。

振り返ってみると、それなりに経験を重ねたのだなぁ。

 

 

 

改めて『学び合い』について考えてみました。

 

 

 

『学び合い』の定義は、

 

「学校は、多様な人と折り合いをつけて自らの課題を達成する経験を通して、その有効性を実感し、より多くの人が自分の同僚であることを学ぶ場」であるという学校観。

 

こうした中で発揮される力や子ども集団は強力であることから「子どもたちは有能である」という子ども観が引き出されます。

 

以上のことから、「教師の仕事は、目標の設定、評価、環境の整備で、教授(子どもから見れば学習)は子どもに任せるべきだ」という授業観も導き出されます。

 

また西川先生のブログにもあるように、「この授業観は研究・実践の蓄積によって、その意味するものは常に再定義され、その適用範囲は徐々に拡大している」とあります。

 

manabiai.g.hatena.ne.jp

 

 

つまり一番根本となっているのは学校観。この学校観なくして子ども観や授業観は成り立ちません。

授業観にばかり目が行き、大前提の学校観が軽視されてしまっていないでしょうか。


また適用範囲が拡大した後の、今現在の授業観の定義って何でしょう。

 


 

 

またこの学校観の下では、いわゆる教え合いや学び合い、みんなで課題達成を目指す学び合いに積極的に参加しない者もいる。

『学び合い』の目的は、いわゆる学び合うことを手段とするものではない。個人として集団として、あらゆるレベルで生存を実現すること(これが「一人も見捨てない」や「全員が達成すること」につながる)を目的としている。とあります。

 

 

以前に私の『学び合い』の捉え方を記事にしました。

 

www.futaba1107.com

www.futaba1107.com

www.futaba1107.com

 

これらの定義と当てはめてみても、私の捉え方は大きくずれてはいないのかなと思います。

 

 

 

「生物の生存戦略に基づく、学習の在り方」と考えれば、『学び合い』はとても簡単。いや、「簡単」というより、「極めてシンプルな理論」と言ったほうが適しているかもしれません。

 

 

 

 

ただこれを実現するとなると、もの凄く難しい。

 

『学び合い』など、新たな理論を学ぶ人は、何か向上心を持っている人だと思います。

よくあるのが、「なかなか授業が上手くいかない」

 

 

ただこの「授業が上手くいかない」にも種類があると思います。

 

まず一般的な授業が成り立たないことに悩む場合は、私は『学び合い』を選択するべきではないと思います。結局、子どもたちに任せるという形だけでの導入になってしまいます。これはそもそも『学び合い』ではない。それならばまずは他のノウハウ本から学び、一定の授業を成立させられるようになることが先決だと思います。

 

 

ただ、だんだんと、

「ある程度の授業は成立していて、子どもたちもそこそこ理解はできているようだけれど、なかなかそこから先に進まない」というような「なかなか授業が上手くいかない」という悩みも生じてきます。

 

従来のやり方の限界を感じ、「生物の生存戦略に基づく、学習の在り方」という極めてシンプルな理論に立ち返る。

こうした時には『学び合い』は良いと思います。

 

 

 

理論を分かってしまえば行動できる人なら問題ないでしょうが、これまでの学校観や子ども観、授業観からシフトする(本当はシンプルに戻っているだけなのだけれど)ことが大変な人もいると思います。

 

ということは同じように感じる同僚や管理職もいるということです。従来の考え方で教育を受けている保護者や目の前の子どもの中にもいます。

この、考え方がシフトすることに大変さを感じる人がいることを自覚し、そこから生じる問題に向き合い、解消していく方向に導くだけの覚悟がなければ『学び合い』はできません。『学び合い』をしようとしている張本人が『学び合い』ではない、という矛盾を引き起こしてしまいます。もちろん一人ですべてをやる必要はなくて、理解してもらえるところから少しずつ取り組むので良いと思います。これも『学び合い』です。

 

 

ということは『学び合い』の理論で動く人にしか『学び合い』はできない、と言えるのでは。

 

 

 

西川先生は、土日も研究室にいます。

基本的に、休日という休日はないと思います。

 

それは「生物の生存戦略に基づく」、『学び合い』の姿、生き方を自分で自分に課しているからなのではないかと思います。

そうでなければ、あんなに多くのゼミ生を受け入れようとは思わないでしょう。

 

 

 

これはもう、

 

自身の考案した農法を独自のものとせず、多くの人に広めてみんなを富ませようとした、群馬の誇る船津伝次平や、 

www.futaba1107.com

 

 

時代の転換期に活躍する多くの人材を生み出した、松下村塾を開いた吉田松陰

www.futaba1107.com

 

 

彼らに匹敵する次元だと思います。

 

 

 

私を滅し、公に生きる。

そうでなければ『学び合い』はできない。

 

というのはさすがに言いすぎでしょうが、でもそれくらいの覚悟がなければ本当の『学び合い』はできないのではないかと思います。

 

こうして自分のやれることをやり続けた先に、研究室の目標にもあるような「日本を変える」ことに繋がっていくのでしょう。

 

 

授業や学級をより良くする次元での『学び合い』

それは『学び合い』の入門編ではなく、そもそも『学び合い』に及んでいないのではないかと思います。

 

 

 

 

最初に「『学び合い』歴7年目に入りました」とか言いましたが、実際はまだ『学び合い』のスタートラインにさえ立てていないかも…

 

 

 

 

 

覚悟してやることをやるだけ。

 

簡単だけれど、とっっっっっっっても難しい。

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

第6感の話。

 

人間の持つ五感。

視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚。

これは誰もが知っていることです。

 

 

ふと

 

人間の「第6感」に関する記事を見つけました。

 

 

 

 

人間の第6感。

 

 

それは、

 

 

 

 

磁覚!


www.sankei.com

 

 

この記事を見た時、

 

「そうなのか!」という驚きではなく、

「なるほどなぁ」という感じでした。

 

 

動物の中には、体内に優れたコンパスのようなものを持っているものがいます。

記事にもあるように、長距離を渡る鳥や、生まれ育った川に帰ってくるサケなどは、そうではないかと言われています。

 

地球自体が巨大な磁石なのですから、そこから生まれた生物が、磁気を感じる機能を持っていても不思議ではありません。

 

 

プレートのひずみによって、火山の噴火や地震などが起きます。

きっとこの時にも磁場が乱れたりするのでしょう。

 

イルカやクジラが浜に打ち上げられてしまうなど、天災前の動物の異常行動も、地球の磁場の乱れによって動物の体内のコンパスを狂わせてしまったからと考えれば、納得がいきます。

 

 

 

 

磁石といえば、「引きつく」と「反発する」

 

よく「この人とは合わない」とか「なんとなく引き寄せられた」とか言うけれど、

こうした直観は、実は磁気が関係しているのだったりして(^^)

 

 

 

新幹線の車内は電磁波が高い、なんて言われています。

また冬場などで静電気を帯電していると、何となく体が不調な感じがしたりします。

 

これも、周囲の電場や磁場の乱れによって、自分の中のコンパスまで乱れてしまっていて、それが影響しているのかもしれません。

 

 

太陽が4極化するとか、地球のポールシフトが起こるとか言われていますが、

そうなった時にはこうした影響が、何かしら体にあるのかもしれませんね(^^)

 

 

磁気を感じ取る磁覚が目覚めている人は、直観が鋭かったり、普通の人には分からないことが分かったりするのかもしれません。

また野生の生物はこの感覚を持っているものも多いので、何か絶体絶命のピンチなどに遭遇し、野生的な本能が目覚めて助かったような人の中には、こうした感覚を感じ取れるようになっている人がいるのかもしれません。

 

 

 

まぁ全て私の想像ですが。。。

 

 

 

でも、にわかには信じられない、胡散臭い怪しい話より「第6感は磁気を感じ取る『磁覚』ではないか」ということの方が、よっぽど信用できる気がします。

 

 

 

こりゃあ第7感。セブンセンシズもきっとあるだろうな。(正確にはセブンスセンスだと思うけど)

そしてその先も。

 

 

 

小宇宙を燃やして聖闘士になれるかなー(^^)

 

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

子どもに学ぶ教師、の話。

 

最近、二人の高校生から多くの学びを得ました。

私自身の備忘録としても、気づきをまとめておきます。

 

 

 

一人目は、福岡の川内柊佳(かわちしゅうか)さん。

 

彼女はSDGsカードゲームのファシリテーターをしています。

SDGsとは、持続可能な社会を目指して国連が掲げた17の目標で、そのすべての達成を目指して世界中で様々な取り組みが行われています。

彼女の「SDGsカードファシリテーターとして活躍する」ことも、そうした素晴らしい取り組みの一つ。

 

 

「誰一人取り残さない」というのが、『学び合い』の「一人も見捨てない」と重なってきます。

 

ただ、世界中の人が、平和で豊かな生活を送れる日本人と同様の生活をするとなると、

地球2~3個分の資源が必要だそうです。

なので「誰一人取り残さない」ためには、先進国、発展途上国の垣根を超えて、「誰一人取り残さない」とはどういう姿を指すのかを考え、行動に移していかねばなりません。

 

ですが、今回はSDGsのことを紹介したいわけではないので、詳しく知りたい方はこちら。

www.unic.or.jp

 

 

このSDGsを、カードゲームを通して伝えるファシリテーターの資格の取得のため、川内さんは行動し始めます。

しかしその講座は東京でしか行われていませんでした。

福岡から東京までの旅費。そして受講料。

高校生の彼女には高い壁。

 

 

そこで彼女はクラウドファンディングを活用することになります。

その過程にはいろいろとあったでしょうし、その大変さは本人にしか分からないと思いますが、プロジェクトは見事達成。

プロジェクト自体は終わっていますが、彼女の想いは、今でもサイトから感じ取ることができます。

readyfor.jp

 

 

こうして高校生初の公認ファシリテーターとして歩み始めた川内さん。

彼女を群馬に招き、群馬のSDGsアクションを加速させることを目指した新たなプロジェクトをちょうど見つけました。

faavo.jp

 

これが、私が川内さんを知ることになったきっかけです。

 

このイベントが1週間前にありました。

金曜日に学校が終わると、即その足で飛び、群馬に来てくれた川内さん。

彼女の想いの強さや行動力には脱帽です。

 

カードゲームへの参加は学生限定だったのですが、私は彼女がファシリテーターとして活躍する様子を見てみたかった。

そうしたら、クラウドファンディングの中にゲームへの参加権のあるコースがあったので、即支援。

 

楽しくSDGsについて学ぶことができました(^^)

 

 

 

 

 

二人目は足利のさくちゃん。

 

 

もともと、さくちゃんのお父さんお母さんとつながりがあり、いろいろなところでお会いしたり、時々お邪魔したりしていました。なので、さくちゃんにも時々会うことがありました。

 

彼女は、中学1年生の時に担任の先生と合わないなど、苦労が多かったそう。学校に行けなくなってしまうこともあったそうです。

 

 

しかし2、3年生で担任になった先生が、

 

まさかの、

 

『学び合い』太田の会でつながっていたK先生でした!!

 

 

もう、それが分かったときは、鳥もびっくりするくらいの鳥肌でした。

 

 

 

彼女が書いた筆文字に元気をもらったし、見せてもらうたびに上達していく殺陣(たて)・剣舞にも毎回驚かされていました。

志望していた高校にも見事に合格。

 

苦悩を乗り越え、目の前のことに全力で力を注げるようになったとき、ここまで人は変わるのだと姿で示してくれました。表情が変化していく様子も見ていたので、感動も倍増。

 

 

 

たまたま彼女が人前で話す機会があり、

 

「嫌いな先生がいたことにも、今では感謝している」

というようなことを言いました。

 

 

ほ、本間ですか。

 

 

まず高校生が人前で話す機会があることも珍しいし、思っていることを大人の前で素直に話せるのがそもそも凄いのだけれど、

 

自分にとってネガティブな過去を、ポジティブな方向に捉え方を変えてしまっていることに驚きました。

 

その年齢でその考え方ができるのか。

自分が高校生の時はどうだっただろうな。

とても、そんなじゃなかったな。

 

彼女の今後の活躍も楽しみです(^^)

 

 

 

 

とまぁ、この二人の女子高生の活躍を見た時に、

「本当に高校生?」

「高校生なのにすごい」

と思うと思います。

 

でもそれって、彼女たちをすごいと思う反面、一般的な高校生をはじめ子どもたちのもつ資質や可能性を低く見ていることを意味しているとも言えないでしょうか。

 

 

「すごい」と思って終わりにしてしまうのではなくて、

その感動を原動力に、自分は自分で何かに取り組むなどして初めて、彼女たちの想いや行動に応えることができたと言えるのではないかと思います。

 

すごい人ほど「すごい」と言われることに重きを置いていないんじゃないかな。

 

 

本当はもともとすごいのに、それに気づいていない子に気づくきっかけを与えること。

今までもやってきているつもりですが、彼女たちの活躍を見ると、まだまだ。負けていられません。私が私に課す、今後やるべきことです。

 

 

 

また、人を見た目や年齢、肩書で判断するのは安易だと思います。

身体的な年齢は、月日を重ねた人の方が上です。

でも精神的な年齢、または人格や魂のレベル・次元(急にスピリチュアルっぽい表現になってしまいましたが、これ以外に上手く表現できなかったので)で見ると、月日を重ねたか否かだけではないように思います。

 

覚悟を決め行動し、その良い部分も大変な部分もすべて受け入れるというような経験を重ねて、「目に見えない年齢」が上がっていくのではないかなー。

 

となると、大人と子どもという区分もあるにはあるけれど、それだけでは人を判断できません。「見た目は子ども、頭脳は大人」な人もいれば、「見た目は大人、頭脳は子ども」な人もいます。

 

大人という大人はいないし、子どもという子どももいません。

それぞれ違った一つの人格として見ていかなければなりませんねー。

 

 

 

「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」

 

教育基本法の第1章第1条、「教育の目的」です。

西川先生の授業の際、教室に届く声を出す練習として講義室で読み上げたので忘れません。

 

公教育に関わる教員として「人格レベルでの成長」という視点を軽視してしまったら、

それは「残念な教員」の烙印を押されてしまうか否かという話ではなく、そもそも「法律違反」なんです。

 

と、自分で自分を戒め、終わりにします(^^)

 

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪