おもしろおかしくやるんべぇ~ゆとり世代も悪かねぇ~

幸せ Society 5.0 『学び合い』教育2.0 革命と信用

第6感の話。

 

人間の持つ五感。

視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚。

これは誰もが知っていることです。

 

 

ふと

 

人間の「第6感」に関する記事を見つけました。

 

 

 

 

人間の第6感。

 

 

それは、

 

 

 

 

磁覚!


www.sankei.com

 

 

この記事を見た時、

 

「そうなのか!」という驚きではなく、

「なるほどなぁ」という感じでした。

 

 

動物の中には、体内に優れたコンパスのようなものを持っているものがいます。

記事にもあるように、長距離を渡る鳥や、生まれ育った川に帰ってくるサケなどは、そうではないかと言われています。

 

地球自体が巨大な磁石なのですから、そこから生まれた生物が、磁気を感じる機能を持っていても不思議ではありません。

 

 

プレートのひずみによって、火山の噴火や地震などが起きます。

きっとこの時にも磁場が乱れたりするのでしょう。

 

イルカやクジラが浜に打ち上げられてしまうなど、天災前の動物の異常行動も、地球の磁場の乱れによって動物の体内のコンパスを狂わせてしまったからと考えれば、納得がいきます。

 

 

 

 

磁石といえば、「引きつく」と「反発する」

 

よく「この人とは合わない」とか「なんとなく引き寄せられた」とか言うけれど、

こうした直観は、実は磁気が関係しているのだったりして(^^)

 

 

 

新幹線の車内は電磁波が高い、なんて言われています。

また冬場などで静電気を帯電していると、何となく体が不調な感じがしたりします。

 

これも、周囲の電場や磁場の乱れによって、自分の中のコンパスまで乱れてしまっていて、それが影響しているのかもしれません。

 

 

太陽が4極化するとか、地球のポールシフトが起こるとか言われていますが、

そうなった時にはこうした影響が、何かしら体にあるのかもしれませんね(^^)

 

 

磁気を感じ取る磁覚が目覚めている人は、直観が鋭かったり、普通の人には分からないことが分かったりするのかもしれません。

また野生の生物はこの感覚を持っているものも多いので、何か絶体絶命のピンチなどに遭遇し、野生的な本能が目覚めて助かったような人の中には、こうした感覚を感じ取れるようになっている人がいるのかもしれません。

 

 

 

まぁ全て私の想像ですが。。。

 

 

 

でも、にわかには信じられない、胡散臭い怪しい話より「第6感は磁気を感じ取る『磁覚』ではないか」ということの方が、よっぽど信用できる気がします。

 

 

 

こりゃあ第7感。セブンセンシズもきっとあるだろうな。(正確にはセブンスセンスだと思うけど)

そしてその先も。

 

 

 

小宇宙を燃やして聖闘士になれるかなー(^^)

 

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

子どもに学ぶ教師、の話。

 

最近、二人の高校生から多くの学びを得ました。

私自身の備忘録としても、気づきをまとめておきます。

 

 

 

一人目は、福岡の川内柊佳(かわちしゅうか)さん。

 

彼女はSDGsカードゲームのファシリテーターをしています。

SDGsとは、持続可能な社会を目指して国連が掲げた17の目標で、そのすべての達成を目指して世界中で様々な取り組みが行われています。

彼女の「SDGsカードファシリテーターとして活躍する」ことも、そうした素晴らしい取り組みの一つ。

 

 

「誰一人取り残さない」というのが、『学び合い』の「一人も見捨てない」と重なってきます。

 

ただ、世界中の人が、平和で豊かな生活を送れる日本人と同様の生活をするとなると、

地球2~3個分の資源が必要だそうです。

なので「誰一人取り残さない」ためには、先進国、発展途上国の垣根を超えて、「誰一人取り残さない」とはどういう姿を指すのかを考え、行動に移していかねばなりません。

 

ですが、今回はSDGsのことを紹介したいわけではないので、詳しく知りたい方はこちら。

www.unic.or.jp

 

 

このSDGsを、カードゲームを通して伝えるファシリテーターの資格の取得のため、川内さんは行動し始めます。

しかしその講座は東京でしか行われていませんでした。

福岡から東京までの旅費。そして受講料。

高校生の彼女には高い壁。

 

 

そこで彼女はクラウドファンディングを活用することになります。

その過程にはいろいろとあったでしょうし、その大変さは本人にしか分からないと思いますが、プロジェクトは見事達成。

プロジェクト自体は終わっていますが、彼女の想いは、今でもサイトから感じ取ることができます。

readyfor.jp

 

 

こうして高校生初の公認ファシリテーターとして歩み始めた川内さん。

彼女を群馬に招き、群馬のSDGsアクションを加速させることを目指した新たなプロジェクトをちょうど見つけました。

faavo.jp

 

これが、私が川内さんを知ることになったきっかけです。

 

このイベントが1週間前にありました。

金曜日に学校が終わると、即その足で飛び、群馬に来てくれた川内さん。

彼女の想いの強さや行動力には脱帽です。

 

カードゲームへの参加は学生限定だったのですが、私は彼女がファシリテーターとして活躍する様子を見てみたかった。

そうしたら、クラウドファンディングの中にゲームへの参加権のあるコースがあったので、即支援。

 

楽しくSDGsについて学ぶことができました(^^)

 

 

 

 

 

二人目は足利のさくちゃん。

 

 

もともと、さくちゃんのお父さんお母さんとつながりがあり、いろいろなところでお会いしたり、時々お邪魔したりしていました。なので、さくちゃんにも時々会うことがありました。

 

彼女は、中学1年生の時に担任の先生と合わないなど、苦労が多かったそう。学校に行けなくなってしまうこともあったそうです。

 

 

しかし2、3年生で担任になった先生が、

 

まさかの、

 

『学び合い』太田の会でつながっていたK先生でした!!

 

 

もう、それが分かったときは、鳥もびっくりするくらいの鳥肌でした。

 

 

 

彼女が書いた筆文字に元気をもらったし、見せてもらうたびに上達していく殺陣(たて)・剣舞にも毎回驚かされていました。

志望していた高校にも見事に合格。

 

苦悩を乗り越え、目の前のことに全力で力を注げるようになったとき、ここまで人は変わるのだと姿で示してくれました。表情が変化していく様子も見ていたので、感動も倍増。

 

 

 

たまたま彼女が人前で話す機会があり、

 

「嫌いな先生がいたことにも、今では感謝している」

というようなことを言いました。

 

 

ほ、本間ですか。

 

 

まず高校生が人前で話す機会があることも珍しいし、思っていることを大人の前で素直に話せるのがそもそも凄いのだけれど、

 

自分にとってネガティブな過去を、ポジティブな方向に捉え方を変えてしまっていることに驚きました。

 

その年齢でその考え方ができるのか。

自分が高校生の時はどうだっただろうな。

とても、そんなじゃなかったな。

 

彼女の今後の活躍も楽しみです(^^)

 

 

 

 

とまぁ、この二人の女子高生の活躍を見た時に、

「本当に高校生?」

「高校生なのにすごい」

と思うと思います。

 

でもそれって、彼女たちをすごいと思う反面、一般的な高校生をはじめ子どもたちのもつ資質や可能性を低く見ていることを意味しているとも言えないでしょうか。

 

 

「すごい」と思って終わりにしてしまうのではなくて、

その感動を原動力に、自分は自分で何かに取り組むなどして初めて、彼女たちの想いや行動に応えることができたと言えるのではないかと思います。

 

すごい人ほど「すごい」と言われることに重きを置いていないんじゃないかな。

 

 

本当はもともとすごいのに、それに気づいていない子に気づくきっかけを与えること。

今までもやってきているつもりですが、彼女たちの活躍を見ると、まだまだ。負けていられません。私が私に課す、今後やるべきことです。

 

 

 

また、人を見た目や年齢、肩書で判断するのは安易だと思います。

身体的な年齢は、月日を重ねた人の方が上です。

でも精神的な年齢、または人格や魂のレベル・次元(急にスピリチュアルっぽい表現になってしまいましたが、これ以外に上手く表現できなかったので)で見ると、月日を重ねたか否かだけではないように思います。

 

覚悟を決め行動し、その良い部分も大変な部分もすべて受け入れるというような経験を重ねて、「目に見えない年齢」が上がっていくのではないかなー。

 

となると、大人と子どもという区分もあるにはあるけれど、それだけでは人を判断できません。「見た目は子ども、頭脳は大人」な人もいれば、「見た目は大人、頭脳は子ども」な人もいます。

 

大人という大人はいないし、子どもという子どももいません。

それぞれ違った一つの人格として見ていかなければなりませんねー。

 

 

 

「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」

 

教育基本法の第1章第1条、「教育の目的」です。

西川先生の授業の際、教室に届く声を出す練習として講義室で読み上げたので忘れません。

 

公教育に関わる教員として「人格レベルでの成長」という視点を軽視してしまったら、

それは「残念な教員」の烙印を押されてしまうか否かという話ではなく、そもそも「法律違反」なんです。

 

と、自分で自分を戒め、終わりにします(^^)

 

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

巡り巡った現在地、の話。

 

仕事に慣れるためにもがいた、社会人1年目。

 

日々疲れ果て、休日は本当に休日。

平日に向けての気力を養い、再び仕事へ。そんな日々でした。

 

 

途中から仕事にもだんだんと慣れてきて、

お誘いもあり、ゴルフやボードなど、趣味に費やす時間を持てるようになっていきました。

 

そうすると今度は、土日だけでは物足りない。

平日の仕事後も時間をうまく活用するようになりました。

 

 

かといって仕事を疎かには、全くしていません。

仕事は仕事、プライベートはプライベート。それぞれが充実する道を探していきました。

 

 

どんどんと世界が広がっていき、

いろんな場所へ行き、いろんなイベントに参加し、いろんな人とのつながりを得ました。

今度は、どうしても時間が足りなくなっていきます。

 

なので、力と時間を注ぐものを絞っていくようになりました。

 

 

 

そうして、ただ目の前のやるべきことに全力で取り組むようにしていたら、

 

 

 

巡り巡って、今は仕事が一番楽しい(^^)

 

 

 

 

働き方改革とは真逆の方向かもしれません。

 

 

でも本来は、仕事って時間も疲れも忘れて取り組める、楽しいものなのではないかと思います。

自分に裁量の余地が無く、やらされであったりすると、だんだんと苦痛になってしまうだけ。

 

 

仕事をしたい人からしたら、制限をかけられるのは苦痛だろうなぁ。

 

 

人それぞれ考え方は違うし、置かれている状況も違うのだから、

一律に決めるのではなく、それぞれのできる範囲で働くことを互いに認め合えることが大切なんじゃないかなー。

 

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

緩和ケアの話。意外な意外なつながり。

 

以前、まごころ塾に参加した際、

緩和ケア医の萬田先生のお話を聞きました。

 

www.futaba1107.com

 

 

その話が、以前読んだこの本の内容にも似ていました。

 

www.futaba1107.com 

www.futaba1107.com

 

 

 

 

そこで今回、

萬田先生の本を読んでみました。 

 

穏やかな死に医療はいらない (朝日新書)

穏やかな死に医療はいらない (朝日新書)

 

 

 

当たり前だけれど、「食べる」っていう行為はとても大切なんだと思いました。

自分で食べ物を手に取って口に運び、咀嚼する。飲み込む。

それだけでも結構な動作が必要です。

 

 

点滴や胃ろう。

寝たまま、全く動かなくてもできます。

 

でも、動くことがほとんどなくなってしまうので筋肉が衰え、どんどん動けなくなってしまい、遂には寝たきり。点滴や胃ろうが外せなくなってしまう。

 

動かないので体がどんどん衰えていき、過剰な水分を排出することもできなくなっていくのでしょう。

入院している方の体がパンパンに膨れ上がってしまうというのは、こうしたことが繋がっているのだと、初めて知りました。

 

動物である以上、やっぱ動いてなんぼなんですね。

 

 

 

 

少しずつ動けなくなっていき、

徐々に徐々に、枯れていきながら死んでいく。

これが苦痛が少なく、自然に近い死に方なのだそうです。

 

 

 

 

ん?

 

どこかで聞いた話に似ているような…

 

 

 

 

今ある多くの野菜は、

放置しておくとぐじゅぐじゅになって組織が崩壊したりカビが生えたりするそうです。

 

なぜかというと肥料をいっぱい与えているから。

 

 

自然栽培に近い形で育てた野菜は、放置しておくと水分が抜けてしぼんでいくそうです。

 

 

 

人体も野菜も同じだ。

 

 

 

良かれ良かれと思っても、必要以上のものを与えてしまうのは結果的に良くないのでしょうね。

 

 

 

ハングリーなくらいがちょうどいい。

それでこそ、吸収しようという意欲につながるのでは。

医療や野菜に限らず、何事においても…

 

 

 

 

 

 

どんな人生を歩むか。

 

今は選択肢がたくさんあります。

 

しかし選択肢が多すぎて、逆に生き方の迷子になっているような気がします。

 

 

 

そうするとどうしても、他人のことが気になります。

 

 

他人を自分の写し鏡だと思って、自分をより良くするために生かすのなら良いのだけれど、

 

 

 

多くは自分と他人を比較して、

 

 

自分を卑下したり、

 

自分が優位に立つために他人を蹴落としたり、

 

必要以上に実力以上に自分を飾ったり…

 

 

 

人間関係で上手くいかないのも、

心病んでしまうのも、

こうしたことが関係しているように思います。

 

 

自分の軸をもって生きていれば、そう迷子にはならないのでしょうが、

なかなか軸をもつのも大変です。

 

 

そこで発想の転換

 

どう生きるかではなく、どう死にたいかを考えれば、大切にしたい価値観や今後の生き方がおのずと見えてくるのではないか、というのが最近の私の考えでした。

 

 

 

 

ちょうどそんな時、緩和ケアや萬田先生のことを知ります。

 

 

タイミングが良すぎる(^^)

 

与えられるべくして、きっかけが与えられているようにしか思えません。

 

 

思い通りにいくとは限らないけれど、自分なりの死生観をもつことって大切なんじゃないかと思います。

また緩和ケアという選択肢があるということを知っているだけでも違うような気がします。

 

 

 

とりあえず、「死」をテーマに考えるのは、ここで一区切りかな。

 

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

「プペル展inぐんま」が終わって思うこと

 

かつて、「幸せ」とは何かを考えて、こんな記事を書いていたようです、私。

 

www.futaba1107.com

 

 

その中で3つの「幸せ」についてまとめました。

 

それは、

・やってもらう幸せ

・自分でできる幸せ

・人に施す幸せ

 

です。

後者になるほど、より上位の「幸せ」だと考えていました。

 

 

 

しかし、今回のプペル展を通して少し考え方が変わりました。

 

 

 

 

目標の1万人には届きませんでしたが、それでも16日間で8000人を超える来場者。

展示物自体はプロの作品ですが、イベントの運営はほぼ素人のボランティアです。

そうしたイベントにこれだけの人が集まったというのは衝撃的です。

 

 

西野さんはどこかの本で、

「イベントのお土産として絵本が売れる」

的なことを言っていました。

 

今回のイベントを通し、その様子を目の当たりにしました。

 

えんとつ町のプペル」の絵本なんて、書店で探せば見つかるはずです。

でも書店ではなく、ネットでもなく、イベントの会場で買うというのは、

そこでの体験や思い出に価値を置いているからなんですね。

 

買ってもらった子どもも、買ってあげたお父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃんも満足そうでした。

帰って絵本を読んだときに、「プペル展」に行った日のことも思い起こされるのでしょう。

 

ボランティアスタッフとしてこういう場面を見ることができ、とても幸せです。

 

 

本の販売などお金に関わる部分に関してはちょっとごめんなさいをして、駐車場の係をしていたのですが、帰りがけのお客さんの中に、

「良かったよ。ありがとう。」

「暑い中大変でしょう。」

と声をかけてくださる方もいました。それもまた幸せなことです。

 

 

 でも一番は、「なぜ推すのか」をまとめた記事にも書いた通り、

www.futaba1107.com

 

共に創り上げた(と勝手に思っている)仲間の存在ですね。

 

主催者の千恵さんをはじめ、各地からボランティアが集まりました。

みんな職業は全然違います。

大工さんは見事なパネルを作り上げるし、普段お金に関わっている人はめっちゃ数えるの速いし。

それぞれの良さが随所で生かされていたように思います。

 

 

その時ふと、最初に書いたことを思い出しました。

 

 

私は、私にできる駐車場の係をしただけ。

それでお客さんに「ありがとう」と言ってもらえる。

そして自分にできないことは、仲間がやってくれている。

 

 

つまり、3つの「幸せ」を同時にすべて満たしていたんです。

 

どれが上位か、という話ではなくて、

この3つに当てはまるような「幸せ」にどれだけ気づくことができたか、なんです。

 

人に何かをやってもらって当たり前だと思っているときには、「幸せ」の分類が「やってもらう幸せ」しかありません。だから「幸せ」だと感じる機会はあまり多くありません。

そもそも、やってもらって当たり前だと思っている時点で、「ありがたい」ことに気づかず、「幸せ」を感じることもないかもしれませんが。

 

 

こうやってイベントを開催する側、何かを提供する側になると、今まで当たり前だと思っていたことが当たり前ではなく、ありがたいことだということに気づきやすくなります。結果として「幸せ」を感じる機会が増えていきます。

 

もちろん大変なこともあります。でもそれがあるからこそ、強く「幸せ」を感じられます。それを共有できる仲間もいます。みんなで激辛の何かを食べて、ヒーヒー言いながらも楽しく盛り上がっている、そんな感じですかね。

 

 

 

西野さん関連をはじめ、今、自分で参加費を払って、イベントのスタッフの権利を買うなんてのが増えています。スタッフをやるのに賃金が支払われるどころかマイナスです。でも喜んでやっているんです。

 

それは、モノやサービスを与えてもらう、受けることよりも、与えることによって発生する幸福感にハマってしまって、そこに価値を見出しているからだと思います。働くというより、趣味の一環、遊んでいる感覚です。協働することにより人脈も広がりますし、繋がりも深くなります。イベントをやる側の方が得るものが多すぎるし大きすぎる。

 

 

 

以前は、「行事より授業で勝負」と思っていました。

でもやっぱり人は行事やイベントを求めているんですよね。

 

これだけの来場者数がそれを示しています。

今後もイベント産業やレジャー産業は伸びていくことでしょう。

 

では今の子どもたちは、苦労を買ってでもし、それ以上に自分たちがワクワクするようなイベントを開催して、人を喜ばせることができるでしょうか。そういうことをしようと思うでしょうか。

 

 

昔は、本来おもちゃではない木の枝や石などの自然物を、自分でおもちゃにして遊んでいたはずです。しかし今は、おもちゃで遊んでいるようで、誰かが作ったおもちゃに「遊ばされて」いるだけのように見えます。しかしその状況を子どもたちは「遊んでいる」と思っているのだとしたら…

「楽しい時を作る」のは、「バ〇ダイ」ではなく子どもであってほしいものです。

 

こうした遊び方で育っている子どもたち。

業務改善の影響を受けて、どんどん行事が削られてしまったら、楽しみや喜びを創り上げる体験をどこでするのでしょう。

もちろん過去のものを踏襲しただけの、何のためにやっているのか分からないような行事なら見直すべきです。しかし全く無しにしてしまうのも考えものです。

 

慣れていないのだから、上手くいかないのは当たり前。でもやらなきゃ上手くはなりません。

授業を蔑ろにするわけでもなく、授業を通して培った力を、行事に生かして発揮する。

そうやって自らの心に響き、相手の心にも響くような体験を通した学び、遊びを学校でしていきたいと思うのでありました。

 

 

本当にAIやロボットに今ある仕事の多くがとって変わられるとしたら、仕事をしたくてもできなくなります。

なら遊ぶしかありません。

本気で遊べる人が価値を持つようになってくるのかなー

学校で遊び方を教わるようになるときも来るのだろうか笑

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

本学と末学の話

 

学問には「本学」と「末学」がある。

 

「本学」とは、「人間としての在り方」を考えたり学んだりすること。

昔の寺子屋では、「四書五経」などを通してこれを学んでいた。

 

「特別な教科 道徳」「キャリア教育」

そこに求められるものは大きいなぁ。

 

 

平安末期から江戸時代まで約1000年読まれた「実語教」もあとで読んでみたいと思います!

 

 

 

「末学」とは、「本学」に加える、知識や技能などのこと。

読み書き算盤は、末学。

「外国語」「プログラミング」

 

 

 

「本学」という幹が太くてこそ、「末学」という枝葉を広げることができる。

 

 

でも細っちい幹しかないのに、むやみやたらに枝葉を広げようとしていないか。

 

まさに、

 

 

本末転倒 

 

 

 

 

おもしろおかし…

 

くなんて、言ってられんわ!

 

 

もっと本質に目を向けた方がいい(^^)

トップランナーは突っ走れ!

 

年度末です。

あと少しで今の学年が終わります。

 

卒業式の練習以外は、結構時間にゆとりがあります。

その時間を活用して、復習三昧。

理解している子は、教えることに徹しています。

 

 

しかし、あれあれ?

 

 

私の経験上ですが、これはあんまり上手くいかないようです…

 

 

手厚く支援してあげようとすればするほど、自分から分かるように、できるようになろうと努力しなくなってしまいます。

教える側としては必死に教えてあげているのに、教わる側には響いていない…

 

そのうち、どちらもだれてきます。

 

 

たくさん復習をすれば良さそうなのに、あまり成果に繋がらない。

しかも学習に向かう意欲が低下してくる。

そういう例は結構あるのではないかと思います。

 

 

 

考えてみれば、トップランナーの子たちには、復習の時間など必要ありません。

彼らが走るスピードを緩めてしまうと、クラス全体が学習に向かう雰囲気にもブレーキがかかってしまいます。

トップランナーはどこまでも突っ走ってくれた方が、クラス全体にとっては良いようです。

 

 

 

例えば100マス計算。

 

1問でも間違いを少なく。1秒でも速く。

こうやって自分の目標を立てて取り組めるようなものであれば、トップランナーも突っ走れます。なので取り組んでいるときの様子も良い感じでした。

 

 

 

かけ算の復習をしているある時、

「かけ算をしっかり身につけておくと、3年生でやるわり算の時にいいよ。」というような話をしました。

 

すると翌日、ある子が自主学習としてわり算をやってきました。

 

みんなに紹介してみると、「やってみたい!」という声が。

 

まずは、□×5=20みたいな問題に挑戦しました。

思っていた以上によくできていたので、わり算にも挑戦してみました。

 

なんと。わり算も良くできていました。

かけ算九九の復習がもっと必要かな、と思っていた子も、教えてもらいながら良くできていました。

こういう学習もまた、トップランナーが突っ走れました。だからクラス全体が学びに向かう雰囲気になったのだと思います。

 

復習をするのではなく、いつの間にか復習になっている学習を。

そしてトップランナーが立ち止まってしまわないこと。

 

これを意識しておくことが大切だと思いました。

 

 

 

 

 

またある子が、

「先生。どうしてこんなに卒業式の練習をしなきゃいけないの?」

と聞いてきました。

 

 

あはは(^^)

 

 

日頃から姿勢が良く、しっかりと声を出せるような子にとって、

何時間も練習する意味が分からないのでしょうね、そりゃそうだ。

 

最初は、卒業式のような場を得意とするトップランナーが、自らの行動によって全体を引き上げてくれました。

全体のレベルが引きあげられてくると同時に、トップランナーの子たちが突っ走る必要が無くなりました。今この段階。このまま停滞が続けば、確実に質が落ちますね。

 

どれも一緒なのだなぁと感じました。

 

 

 

それで、思ったこと。

 

トップランナーの子たちは目の前のことに全力で取り組んでいます。それにストップをかけられる学期末や学年末。彼らはどう感じているのでしょう。

教師はどうしても1年という期間で物事を見がちです。

でもそれを別に求めていない子も結構います。

そしてそういう子が意外とクラス全体の雰囲気を握るキーパーソンとなっていたりします。

 

お楽しみ会とかもやっていたのですが、意外とトップランナータイプの子ほど、そこまでやりたいという感じではないようです。

 

トップランナーはとにかく目の前のことに集中して突っ走る。

その姿を見て、中間層の子に火がつく。

この中間層の子が、教えてあげることが上手だったり、お楽しみ会のようなイベントを盛り上げてくれたりします。

クラスの8割が、集中して何かに取り組みだせば、クラス全体が良い方向に動きます。

そんな感じかなぁ。

 

 

なので今年は最後の最後まで突っ走ろうと思います。

学習のスピードを緩めません。

 

 

 

「あ。今日で今年度終わりか。じゃあまた4月ね。いるか分からないけど。」

 

 

これくらいでも別にいいんじゃないかなって、最近は思います(^^)

 

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪