先日紹介した、みやざき中央新聞のイベント。
その際、編集長の水谷もりひとさんの著書を購入しました。
各地の講演会などを回り、「いい話」をたくさんご存じの水谷さん。
そうして書かれた社説の中から選りすぐりのものがまとめられていました。
なかなか読む時間が取れず、だいぶ時間が経ってしまいましたがようやく読了。
特に心に残ったことをまとめておきたいと思います。
モノに名前をつけて呼んでみる
エッセイストの志賀内泰弘さんの著書「教育革命 ~塾が作った学校の挑戦~」の中に、
ボールに名前を付けた話が載っているそうです。
鹿児島市にある池田学園の学園長・池田弘さんが小学校の教諭をしていた時の話です。
休み時間後の校庭にボールが放置されており、ホームルームでこの問題を取り上げました。
ふと挙がった「ボールに名前をつける」というアイディアを採用してみたところ、放置されることが無くなったそうです。それどころか、汚れを布で拭いたりし、大切に扱うようになったそうです。
昔は物資が少なく、生活は貧しかった。けれども心は豊かだった。
今は物資に恵まれ、生活も豊かになった。反面心の豊かさが失われている。
そんな風に感じることが多々あります。
この物に名前を付けるというアイディアにより、たくさんある中の一つのボール、という意識ではなく、「このボール」という愛着が生まれたのかなと思います。
名前のもつ効果ってすごい(^^)
まず感性を、その次に知性を
日本外科学会名誉会長、井口潔先生の話。
人間はまず「ヒト」として生まれてきます。健常児であれば身体は100パーセント完成していますが、脳はチンパンジーとさほど変わらないそうです。
その後、「ヒト」は「教育」によって「人間」になる。教育をしなかったら何歳になっても「ヒト」のままなのだそうです。
0歳~10歳くらいまでの子どもには、道徳心や真善美など、感性の教育が必要。
そして10歳~20歳までに必要なのが知性の教育。
感性が育っていないのに知性教育を前倒しして、理論・理屈で考える脳が先にできてしまうと、場の空気が読めなかったり、思いやりが欠如していたり、「法律に違反していなければ問題ないでしょ」みたいな考え方をする人間になってしまうそうです。
「とにかく覚えろ」「駄目なものは駄目」「意味はそのうち分かる」と、江戸時代の幼少期の教育は意味を教えなかった。
「あいさつをしろ」「靴を揃えろ」「食事の前には手を合わせろ」などど、道徳を詰め込んで感性脳を育てた。
そのことによって人格が形成された。
もし、順番を間違えて青年期から道徳をすると、それは処世術になってしまうそうです。
もちろんこうした教育が優れているのかと言えば、強制しすぎたり、暴力による教育とならないようにしたりするなど、考えなおさねばならないこともあり、優れているとは言い切れません。
ただ現状として、少子化によって子どもに手厚い支援がなされたり、寿命の延びによって相対的な子どもの期間が延びたりするなどし、精神面での成長のペースが遅く、感性の教育の必要性が高まっているように感じます。
「なぜ?」と考えないと動けない年齢になる前に、まずは習慣として身につけ、
その後「なぜ〇〇をすることは大切なのか?」と自分なりに考えさせ、要不要を自ら選択できるようにしていければいいのかなぁ、なんて思います。
前回の記事ではありませんが、
生まれた時はだれもが「天命追求型」なのかなぁ、なんて思ったのでありました(^^)
おもしろおかしくやるんべぇ♪