最近のブログの記事。
江戸時代のことだったり、
栄養についてのことだったり、
なんですか、脊椎の話って。
挙句の果てには、
なんかデビューしているし。
テーマがバラバラすぎて、
「なにがしたいんだ」「どこに向かっているんだ」
そう思われる方もいらっしゃるかと思います。
しかしちゃんと繋がっています。
最初から何も変わっていません笑
今回はそのことについてまとめたいと思います。
まず、大学時代。
私は西川純先生のゼミに所属していました。
「あー、なるほど、『学び合い』のね。」
確かにそうなのですが、西川研究室のそもそもの目標は、
『学び合い』を実践する、とか、『学び合い』を広める
といったことではありません。
自らの心に響き、多くの人の心に響く教育研究を通して、自らを高め、一人も見捨てない(誰もが輝くことができ幸せでいられる)教育・社会を実現すること、です。
かなり近いけれど、
西川研究室=『学び合い』研究室
ではないんですね。
ということで、こうした教育・社会を実現すべく、日々の教育実践にあたっていました。その土台を『学び合い』が支えているという感じです。
しかしある時、上手くいかないことがありました。
それは『学び合い』を実践することが目的化しかけていたからです。
折り合いをつける事が大切と言いながら、実は折り合いをつけられていないのは自分。
言動が一致しなければ、多くの人の心に響くはずがありません。
その状況を打破するために、まずは自分が『学び合い』を体現すべく、行動するようになりました。
学校や近しい人間関係の中で完結している状態から一歩外に出て、全くつながりのない場へ飛び込んでみることもしました。
また子どもたちに負けないよう、いろいろな本を読んだりと学びを広げ深めようとしました。
その結果、
新たな知識が増えたり、
新たな人と繋がったり、
語り合う中でまた新たな知識を得たり、
繋がりが新たな繋がりを呼んだり、、、、
で気づいてみればこんなことになっていた、ってわけです笑
『学び合い』関係なく、子どもたちに何かを語ろうとする時、
人生経験の濃い人とそうでない人の言葉がもつ深みが同じわけがありません。
私が何か良いことを語ろうとしても、大した経験を積んでいるわけではないので、結局は誰かから聞いたり本を読んで得たりしたような言葉を繰り返すに過ぎません。
頭の中で思い浮かんだ「誰かの言葉」の再生、それには深みが出ません。
ならば今の私にできることは何かというと、自ら『学び合い』を体現することで感じた「こんな良さがあった」「こんな風に感じた」ということを語ることだと思います。これらはすべて私自身が体験して得た「私の言葉」。私以外に語り手はいません。
もっと経験を積んだ時、年齢を重ねた時、
誰もが言うような言葉の中にも、自分なりの深みを持たせて語れるようになるのかもしれません。
それくらい「何を語るか」よりも「誰が語るか」が重要なのだと思います。
これまでのブログの記事があってのこの記事です。
一見繋がりがなさそうで、実はすべてが繋がっているのです。
「そんなことやっても無駄。意味がない。」
物事に意味づけをするのは自分。
意味があったと思うのもなかったと思うのも自分次第。
でもどうせやるなら、勝手に良い方向に結びつけちゃった方が、後悔もしなくて済むし何より楽しくて良いんじゃないかと思います(^^)
おもしろおかしくやるんべぇ♪