おもしろおかしくやるんべぇ~ゆとり世代も悪かねぇ~

THEゆとり世代。さとり世代とも言われる世代「ふたば」の見方や考え方、そして日々の学びをまとめたブログ。

シスター渡辺の話②。

 

前回の記事。

 

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そして今回読んだのがこちら。

 

幸せはあなたの心が決める

幸せはあなたの心が決める

 

 

 

読んで心に残ったことをまとめていきます。

 

 

人を許せば自分も救われる

 

教皇ヨハネ・パウロⅡ世が、

『人を許すとき、許した人は自由になり、解放されます。人を許すとき、その人は未来を創造的に切りひらいてゆくことができます』

と言っていますが、他人を許さないとき、その人は不自由になります。その理由を教皇は続けて、次のように言っています。

『人を許さない人は、また、他人の支配下にある人なのです』

 

『許さない』という人が上位に立っているかと思うと、実はそうではなくて、その『こだわり』に縛られ、許していない相手の支配下にあるということ。自分が自分の主人でないということなのです。

 

~中略~

 

しかし、『あんなやつ、放っていけばいい』という無視ではなくて、『私があの人のことで心を騒がせる筋合いではない』という、『距離』を置く生き方と言ったらいいでしょう。

そうでなくても、自分の心をいっとき乱されて口惜しいのに、それを深追いして、これ以上、自分のかけがえのない一生の時間を無駄にしたくないというプライドー『他人の支配下』に自分を置いたままにしたくないという自己解放への願いと言ってもいいかもしれないのです。

自分の生活をたいせつにするためには、自らの感情を自分でスッパリ『断ち切る』ことが時に必要です。

『もう、これ以上このことで悩むまい』と。

しかし、人間のこと、断ち切ったつもりでも、なかなか忘れられず、許せないこともあります。そんな時、時間が一番いい薬なのかもしれません。」

 

 

これは確かにそうだよなぁと思います。

嫌なこと、嫌な相手のことなど考えなければいいのに、考えてしまって、

嫌なこと、嫌な相手がいつも頭に浮かんでしまう。

 

わざわざ自分で自分を苦しめてしまっている、そんな感じです。

 

誰でも陥りがちなことであるからこそ、そこに陥らないようにする、抜け出せる思考法を身につけるのは良いと思います。

 

 

 

真の愛にはきびしさがある

 

提出日を守らなかった学生のレポートを、受け取らなかった時のやり取り。

 

「その学生は、ひとしきり言い訳を言った後で、『シスターはクリスチャンのくせに、一頭の迷える羊を救おうとはなさらないのですか』と言うのでした。

 一瞬たじろいだ私は、『いいえ、迷える羊を見捨てはしませんよ。やがて社会に出ていくあなたに、甘えが通用しないきびしさがあることを、今のうちに知っておいてほしいからこその処置なのです』と答えたものでした。

 

~中略~

 

寛容というのは、『寛大で、よく人を許し、受け入れ、咎めだてをしないこと』と定義されていますが、それは決して『大目に見てやる』といった『甘やかし』と同じではないと思うのです。相手を許し、受け入れるにあたっては、真の思いやり、愛が、一見きびしく思えることさえあるのです。」

 

 

卒業後もその学生とのやり取りが続いていることから、

安易にレポートを受け取らなかったからこその、今があると思います。

 

もちろん、受け取っていたとしても、それはそれで、また違った今があるのでしょうが。

 

結局はベストな道を選択し、進んでいるということかな。

 

 

 

だからこそ、その時どう対応するべきか、判断がとても難しいです。

その判断が正しかったのかどうか、ずっと自問自答させられます。私は。

 

 

 

 

「あなたは何さまなの?」

 

「私の母は八十七歳で世を去りましたが、生前、その母からよく『あなたは何さまなの?』と言われた記憶があります。あなたは自分を何者だと思っているのかという『たしなめ』の言葉であって、多くの場合、物事が思わしくいかなくてプリプリしたり、イライラしている時に言われたものでした。

 

 世の中が自分の思い通りに運ぶことなどあり得ない、うまくいかなくて当たり前、うまくいったらありがたいと思いなさい、ということも耳にタコができるほど聞かされて育った私は、幸せ者だったと思っています。それだけ、無駄な苦しみから解放されているからです。

 

~中略~

 

『優しくしてくれるに、こしたことはない』

『理解してくれたら、もうけもの』

『感謝されたら、ありがたい』

くらいに考えておくと、心が自由になるから不思議です。

 それは結局、思い込みというのは、その実現において他人に依存する部分が多いからでしょう。」

 

 

これは本のタイトルにある通り、自分が幸せだと思えば幸せだし、不幸だと思えば不幸。

自分で勝手に幸せだと思い込めばいいのに、幸せかどうかを他人に依存して判断しようとしてしまう。

だから他人の言動を必要以上に気にしすぎて、苦しくなってしまうのかなー

ちょっとした心掛けでも、変えることはできそうです。

 

 

 

人生は思い通りにならないのが当たり前

 

「一人の前途有望な学生が自殺して、その遺書には『思うままにならない人生に嫌気がさした。人生そのものがわからなくなった』といった内容が書かれていたそうです。

 悲しみに沈んだ友人数名は、自分たちが常日頃尊敬する老教授のもとへ急ぎました。ともに死を悼み、慰めてくれると思ったからです。

 遺書の内容に静かに耳を傾けた後、その教授は、案に相違して、語気も鋭く言いました。

 

『そのような考えで死ぬなど、思い上がりもはなはだしい。人生とは、人が生きると書く。私のように六十年以上も生きていて、なお人生は分かっていないのに、たかだか二十年しか生きていない者に、分かってたまるか。

 また、人生は思うままにならないのが当たり前であり、それ故にありがたいのだ。人の思いというものの中には、良いものもあるが、よこしまなものもたくさんある。それがもし、人の思いのままになるとしたら、我々は安心して生きていられまい。思うままにならないからこそ、安心して暮らすことができ、また、より大いなる者への随順の気持ちも起きようというものだ』

 

 この教授の言葉は、決して死者に鞭打つつもりで言われたものではなく、生者に、つまり、その分からない、思うにまかせない人生を、今後も生き続けてゆかねばならない若者たちに向けて言われたのでした。」

 

 

その学生の状況を知らないので何とも言えませんが、

でもやはり思い通りにならないからといって自ら命を絶ってしまうのは、思い上がりなのかもしれません。

 

 

 

受け入れがたい自分を受け入れる

 

 「あまりきれいな話ではありませんが、自分の唾液を小皿に受けて、それを飲み直すというのは、決して気持ちのよいことではありません。ふだん何とも思わずに飲み込んでいるものなのに、いざ、あらたまって喉を通すとなると嫌悪感を抱くもので、不思議なことです。

 血液についても同様。指先を針で突いてしまった時など、何のためらいもなく吸っているのに、試験管に取り出した血を、たとえ少量でも吸うのには抵抗があります。

 

~中略~

 

白日のもとに晒された自分、または自分のものというものは、時に見つめ難いものを持っているということかもしれません。

自分でさえ正視しがたいもの、受け入れがたいものを、他人に見られるのはつらいことです。心の中の恥ずかしい思い、わだかまり等が体内におさまっている間は、それでも許容できるのに、一旦外へ出てしまうと、自分でも受け入れられず、ましてや他人の目からは必死になって隠そうとします。

 

他人に隠さねばならない部分が多ければ多いだけ、また、隠す相手が多ければ多いほど、生活は不自由になります。大らかに生きることができなくなるわけです。」

 

 

自分の中にある醜いものと向き合う。実際は自分が自分で醜いと思って、囚われているだけなのだろうけれど、なかなかその感覚から抜け出すのは厳しいよなぁ。

でもそれこそが、自分を受け入れるということなのでしょう。

 

 

他にも、

 

「美しさ」は修行を必要とする。

 

ボランティアはさせていただくもの。

 

等、

心に残ったことがいろいろとあるのですが、今回はここまで(^^)

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

シスター渡辺の話。

 

以前「置かれた場所で咲きなさい」は読んだことがあったのですが、

保江先生との出逢いをきっかけに、渡辺和子シスターの他の本も読もうと思い立ち、BOOKOFFへ。

 

いくつかあったので、とりあえず全部入手し、

そしてまず読んだのがこちら。

 

面倒だから、しよう

面倒だから、しよう

 

 

 

確かに、なかなか面倒なことをするのって難しいよな、と思いながら読み始めました。

 

読んでいる中で、なるほどと感じたことをまとめていきます。

 

 

「小さな死」

 

東日本大震災は、私たちに、あたりまえと思っていることが必ずしもおたりまえではないのだ、ということを教える出来事でもありました。」

 

とあります。

私が今考えていることややっていることの元をたどれば、東日本大震災の影響が大きいです。そして出逢う方々も、やはりこの東日本大震災をきっかけに生き方が変わった、という方が多い気がします。

 

 

「『生きているということは、自分が使える時間がまだあるということだ』といった人がいます。若いから、まだ時間がたくさんあると思っていても、いつ病気になったり、事故に遭わないとも限りません。

 年齢のいかんにかかわらず、一人ひとりが忘れてはいけないのは、時間の使い方は、そのまま、いのちの使い方なのだということなのです。ぞんざいに生きていないか、不平不満が多くなっていないかを、時にチェックしてみないと、私たちの使える時間には限りがあるのです。」

 

 

これは日野原重明先生の言葉でしょうか。私も日野原先生の本を読んでから、同じように考えるようになりました。

 

 

「人は皆、いつか死にます。公演を行うときなど、リハーサルをしておくと、本番であがったり、慌てないで済むように、死そのものも取り乱すことなく迎えるためにも、リハーサルをしておくことはよいことなのです。

 このリハーサルを、私は『小さな死』と名付けています。そしてそれは日々の生活の中で、自分のわがままと闘い、自分の欲望や感情などを制御することなのです。」

 

「聖書の中にある『一粒の麦』のたとえのように、地に落ちて死ねば多くの実りをもたらすけれども、死を拒否する時は一粒の麦のまま枯れてしまいます。実りを生む死となるためには、それに先立つ『小さな死』が求められるのです。その時には辛いとしか思えない自分との闘いが、実りを生む死となるのです。」

 

 

うーむ、なるほど。

少し聖書にも興味が沸いてきました(^^)

 

 

 

「『汝の敵を愛する』ことの意味」

 

言葉にするのは簡単ですが、シスター渡辺の壮絶な人生を考えると、

そう簡単に「汝の敵を愛する」なんて言えないなぁと思います。

 

九歳の時に目の前で父親を惨殺されたシスター渡辺。

殺した側と殺された側とで、ある時、テレビにて共演することになります。

その時の心境はどんなものだったのでしょう。

 

 

「頭では許しても、体がいうことを聞かないということがあります。今、私がもし聖書の中の『汝の敵を愛せよ』ということを実行するとすれば、せめて相手の方の不幸を願わないことです。今、相手の人は生きていらっしゃるかどうかは分かりませんが、『老後をお幸せにお過ごしになりますように』ということが私にとって精一杯の『汝の敵を愛せよ』とおっしゃったイエスさまのみことばを守ることだと思います。」

 

「人間は弱いものです。口ではきれいなことをいってもなかなか体がついていかないことがあります。それを体験できたということは、恵みだったと思います。『シスター、許したいのですけど許せないのです』といわれると『そうですか、私にもそういう思いがあるのですよ』ということがいえるようになりました。言葉でいえても体がついていかないことがあると知り、そんな自分を許すのです。」

 

シスター渡辺は、こうした人間らしい面がご自身にもあることを語ってくださいます。

だからこそ、人々から愛され慕われるのかなと思います。

ただその裏には、並大抵ではない覚悟や意思の強さが感じられます。

 

 

「生きる喜びに気付く」

 

 

 いのちが 一番大切だと

 思っていたころ

 生きるのが 苦しかった

 

 いのちより大切なものが

 あると知った日

 生きているのが

 嬉しかった

 

 

星野富弘さんの詩です。

かつてシスター渡辺は、富弘美術館にお越しになり、富弘先生とお話をされたそうです。

 

この本の中で、もう一遍、富弘先生の詩が引用されています。

シスター渡辺にとって、それだけ富弘先生との出逢いは大きかったのでしょうか。

群馬県民としてなんだか嬉しく思います(^^)

 

 

 

 はなしょうぶ

 

 黒い土に根を張り

 どぶ水を吸って

 なぜ きれいに咲けるのだろう

 私は

 大ぜいの人の愛の中にいて

 なぜ みにくいことばかり

 かんがえるのだろう

 

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

運動会が終わりました。

 

先週末は運動会でした。

 

どの競技も全力で頑張る子どもたちに、心打たれました(^^)

 

 

信じて委ねる。

その度合いを自分の中で高められたかなと思います。

 

 

 

運動会が終わった後、ある子たちが最後の最後まで率先して片付けをしていました。

 

まさか、そこまでするとは。

 

自分の予想の遥か上のレベルに、スーッとのぼってしまい、ただただ驚き。

ありがたい。

 

 

 

運動会終わりの連休明け。

最初はやはり眠そうな姿もありスロースタートでしたが、いつの間にか普段のペースを取り戻していました。

 

むしろ運動会のあれこれがなくなった分、時間にゆとりが生まれます。

 

算数では、全員が2時間分の内容をさらっとやり遂げてしまいました。

やりおる。

 

1時間で2時間分をやったからといってせかせかしているわけではなく、

むしろ心はとても穏やかな状態。教室の空気もゆったり。

 

なるほど。

どんな時にハイパフォーマンスが発揮されるのか、少し感覚を掴んできた気がします。

 

 

 

確実に子どもたちは変わった。

教室の雰囲気も変わった。

 

そして何より、自分自身が変わった。

 

 

明日も楽しみだなぁ(^^)

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

9月の畑の様子。

 

一日一記事、というように分けて更新すればいいのに、それができない私。

ふと思い立ち、スイッチが入ったときがベストタイミング。熱しやすく冷めやすい。

 

 

 

ということで、先週の様子になりますが、畑はこんな感じです。

 

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なんだか自然農の畑、って感じがします(^^)

 

 

 

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蒔き直したダイコンとカブですが、うーん、またもや白っぽくなっている…

 

そしてナガメちゃんも寄ってきてます。

 

どうしたら良いものかー

 

 

 

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エダマメ(ダイズ)は順調に育ってます。

 

1年目、上手くいきそうなのはこれだけかなー。

 

今の土がどういう質なのかがよく分かります。

なかなか難しい。だがそれがいい(^^)

 

 

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やけにでかい莢だと思ったら、カマキリでした。

エダマメの見張り番、ありがとうございます♪

 

今までクモやハチって良い印象がありませんでしたが、彼らも欠かせない味方です。

こうやって生態系が成り立っているんだなぁ。

 

収穫には至らないけど、学びは多い。嬉しい楽しい。

 

 

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ニンジンも頑張っています。

 

どんどん新しい芽が出てきているようです。

発芽のタイミングをずらしたのかな。頭良いなぁ。

 

 

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3番目の畝に、ほうれん草と小松菜を蒔きました。

 

葉物野菜は上手くいくかなぁ、どうかなぁ。

 

 

 

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今回収穫できた、すんごいちっちゃなキュウリ。

 

これしか膨らまなかった笑

 

 

でも、無農薬無肥料無起耕、ほぼ除草なしの状況で育てた固定種。

 

絶対に市販できない一口サイズ。ただこれにかかっているコストは相当高い笑

それもあり、今まで食べたキュウリの中で一番おいしかったかも(^^)

 

 

種の蒔き時は重要なようです。土壌を改良し、来期に期待!

 

 

 

前回は山を探索しましたが、

今回は畑の作業後、近くの沢に下りてみました。

 

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小さい頃、時間が経つのも忘れ、石を並べて橋やダムを作ったなぁ。

結局次に来た時には壊れているんだけど。それをまた作り直して。

 

それからサワガニも捕ったなぁ。

捕まえはしませんでしたが今でも結構いたので、良かった良かった。

 

 

いやー、懐かしい。

 

もう少し上流まで行けば渓流釣りができるそうで、ちょっと興味が沸いてます。

 

 

 

 

やばい。。。畑に山に川に、楽しすぎるぞ。

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

ブログ再開します。人生学習塾の話。

 

いろいろと思うことがあり、更新するか迷っていたのですが、

思い立ったときには、時々でも更新していこうと思います(^^)

 

 

今回はこんなイベントに参加しました。

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お馴染みの、ヘアーサロンマルヤマでのイベントです。

 

大分からたまちゃんこと小玉宏さんをお呼びしての講演会。

彼に影響された方々も講師として、総勢8名の方がいろいろとお話をしてくださいました。

 

 

今回の講師の多くは、以前からFacebook上では繋がっていたり、日頃からいろいろと話をしたりする方です。

しかし今回のように、30分以上のまとまった話を聞く、というのは初めてでとても新鮮な感覚がしました。

 

それと同時に、その人の知られざる過去を知り、その生き様から多くのことを学ばせていただきました。

 

 

 

全国各地から前橋に人が集まり、盛会となった今回のイベント。

私もめちゃくちゃ刺激をいただきました(^^)

ありがとうございます!

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

 

愛にできることは、、、の話。

 

先日は、ファミリーサポート、子育てサポート事業をされている地域の方とおしゃべり。

 

 

 

 

子育て世代は、仕事に子育てに大忙し。

今は核家族化で、近くに頼れる人がいないケースも多く、それが更に負担感を増やします。

 

しかし、子育てを既に終えたり、子どもがいなかったりして、

その代わり、誰かの子育て支援をしたいという方は一定数いるものです。

 

 

 

サポーターの養成講座の受講生も増えているそうですが、

実際に活動するところまで行く方はあまり多くないそうです。

 

 

というのも、

例えば、学童保育の迎えの代行業務があるそうですが、

なかなか親族以外の方が迎えに行くというのは受け入れられなかったり。

 

 

預かっていてもし子どもが怪我したら、、、

お金のやり取りが発生している分、余計に、、、

 

と、どうしても「もし…だったら」と「責任問題」がつきもの。

 

 

「子どもに何かあったら、子どもが何かしたら、、、」

その責任が家庭、特に母親にあると過度に思わせてしまうような風潮の中では、事が起きないよう必死になるのも当然の話です。結果としてなかなか他人に頼ることができず、自分が抱え込んでしまうという悪循環に。

 

サポート事業がなかなか進まないのも納得です。

 

 

 

 

現在の勤務校。

40~50年前は、学年100人を超える規模であったのに、

 

ここ最近は学年20人を下回るようになり、

 

数年で15人を下回るようになり、

 

近いうちに10人を下回りそうです。

 

 

ここ数年の出生数は5,6人だそうで、ということはそれが5年後の1学年の人数です。

 

隣の学校も、その隣の学校も全く同じ状況。

 

4校が集まって、やっと今の学校規模になるくらい。今も学年1クラスで、決して大きいわけではありません。

 

そしてこれが他の郡市でも、他の都道府県でも、同時多発的に起きていくのでしょう。

 

学校が、地域が、どういう路線で進むのか、この5年が勝負だと思います。

 

 

 

疲弊している人がいる一方、支援したいという人もいる、

なかなかそこが結びつかないというもどかしさ。

 

しかし、そうも言ってはいられません。

 

 

 

「もっと社会に寛容さがあれば…」

 

それには、まずは自らの寛容さを高めるところから。

 

厳しい修行になりそうですが笑

 

ふたば、動きます(^^)

 

 

 

 

愛にできることはまだあるかい

僕にできることはまだあるかい

 

 

愛にできることはまだあるよ

僕にできることはまだあるよ

 

 

 

 

いやいや、むしろ、

 

愛に、僕に、できることばかり!!

 

だし、

 

愛にしか、僕にしか、できないことばかり!!

 

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

ちょっとおかしな学級経営の話。

 

授業や運動会の表現を、タブレット端末に入れました。

 

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動画を観て勉強してもいいし、私の説明を聞くのでもいいし、友達と相談し合いながら取り組むのでもOK。

 

いろいろな選択肢がある分、自分に合ったものを選べるので、これまで以上に効果が出そうな気がします。

 

ただこうした中から自分に合ったものを選択し、主体的に取り組む子がいる一方で、

そもそも取り組む気持ちにならない子もいたりするのが現状です(うちのクラスがそうというわけではありません、一般的に、です)。

 

こうした子たちをやる気にさせられればいいのでしょうが、これがとっても難しい。

 

 

 

いろんな方法を駆使して馬を水場に連れて行けたとしても、

最後は馬自身が飲もうとしなければ水は飲ませられないように、

 

いくらいろんなツールを与えたり、いろんな方法で教えたりしたとしても、

受け取る側が受け取らなければ、教わる気にならなければ何にもなりません。

 

 

与えた、教えた、と思っているだけで、

そもそも与えたことにも、教えたことにもなってもいないのかも。

 

 

ではどうしたら受け取る、教わるモードになるかなぁと考えた時に、

私の思うポイントが2つ。

 

「安心・安全な学びの環境が保証されていること」

 

 

「子どもたちを信じて任せる、委ねること」

 

 

この2つが機能していれば、あとは勝手に学習が進むように思います。

 



 

教える側としては、子どもたちが新たなことを分かるようになったりできるようになったりしてほしいのは当然のことです。

 

でもそうした想いが強く出過ぎてしまうと、もともと受け入れる準備ができていない子にとっては、教室が安心・安全な環境ではなくなってしまいます。身を守るために、むしろ反発されてしまうのではないでしょうか。

 

そもそも教師は教える側で、児童生徒は教わる側、と、

既に立場がはっきりと分かれています。

 

教員からみると「別にそんなことはないんだけどなぁ」と思いますが、

子どもからしたら、やっぱりそういうもんなのでしょう。

 

それによって「教師の言うことは全てシャットアウト」となっている子もいるんじゃないかなぁ。そうなると、何とかしようとすればするほど逆効果。

 

 

 

一方で、教師がするのと全く同じ説明をしているのに、子ども同士だとなぜかすんなりと理解する、ということがあります。

 

子ども同士なら、相手が分かろうが分かるまいが、あまり関係ないっちゃない。

相手に対して「こうしよう」という意識が薄いからこそ、案外相手も素直に受け止めることができるのではないかと。もしくは「こいつには負けられない」という意地かもしれません。

 

 

「教師」という立場の者に、良いイメージを持っていない子はきっといます。

ならば教師だけで「安心・安全な学びの環境」を整備するのはほぼ不可能。むしろその手立てが逆効果にもなりかねません。

 

子どもたちを巻き込んで、一緒に「安心・安全な学びの環境」を作っていくしかありません。

 

 

 

 

また、「信じて任せる、委ねる」とは言いつつも、

何をもって「信じて任せた、委ねた」ことになるのか。

 

「信じて任せ、委ね」ているようで、実はその裏の「こうなってほしい」という要望が見え見え。子どもにとっては意図的に感じてしまったり。

 

 


 

「安心・安全な学びの環境」と「信じて任せる、委ねること」

 

あまりその想いを強く出さないように、この2つを実現するためにはどうしたら良いか。




そこで最近新たに意識し始めたこと。

 

 

 

それは

「合気」

 

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加藤先生や保江先生の話からヒントを得ました。

 

 

 

 

自分と、目の前の子どもたちとが、一体となってしまうようなイメージ。

それだけでなく、教室の壁や床、机や椅子、空気などもすべて一体となってしまうようなイメージ。

 

自分が教室に溶け込んで、子どもたちを包み込み、更に一体となってしまう。

そうなるとあら不思議。自分の心と体を整えておけば、目の前の子どもたちも自然と進むように進んでしまう。

 

逆に、目に映るすべての物はメッセージ。

何か空気の澱みや子どもの表情の暗さなどを感じたとすれば、それは自分自身の心と体が整っていない証拠。

心と体を整えれば、自然とそうした澱みや暗さが解消されてしまう。

 

こうしてブログにまとめながらも、自分でも何言ってんだと思いますが、

でもクラスの子たちがどんどん変わっていく現状を見ると、全く間違っているわけではなさそうです。

 

 

 

ただ確証は持てないので、新たな実験を始めてみました。

 

校舎や校庭、樹木や遊具、他の先生方と一体となり、全校児童を包み込んでいるイメージでの、

「ちょっとおかしな学校運営」です。

 

 

効果のほどは分かりませんが、

学年問わずいろんな子たちが最近よく集まってきて、手をつないでくるなど、身体接触を求めてきます。


「あの子、普段は人の表情を窺って、あまり関わりのない人には懐かないので、

 こんな風にじゃれあっているなんて意外です」と他の先生に言われ、そうとは知らない私は驚き。

 

とりあえず、壁をつくり遠ざるようなことにはなっていないようです。

これは効果なのか、どうなのか。

 

 

 

今後もこれを意識していったら、今度はどんなメッセージが舞い込んでくるかなぁ。

楽しみだなぁ(^^)

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪