以前「置かれた場所で咲きなさい」は読んだことがあったのですが、
保江先生との出逢いをきっかけに、渡辺和子シスターの他の本も読もうと思い立ち、BOOKOFFへ。
いくつかあったので、とりあえず全部入手し、
そしてまず読んだのがこちら。
確かに、なかなか面倒なことをするのって難しいよな、と思いながら読み始めました。
読んでいる中で、なるほどと感じたことをまとめていきます。
「小さな死」
「東日本大震災は、私たちに、あたりまえと思っていることが必ずしもおたりまえではないのだ、ということを教える出来事でもありました。」
とあります。
私が今考えていることややっていることの元をたどれば、東日本大震災の影響が大きいです。そして出逢う方々も、やはりこの東日本大震災をきっかけに生き方が変わった、という方が多い気がします。
「『生きているということは、自分が使える時間がまだあるということだ』といった人がいます。若いから、まだ時間がたくさんあると思っていても、いつ病気になったり、事故に遭わないとも限りません。
年齢のいかんにかかわらず、一人ひとりが忘れてはいけないのは、時間の使い方は、そのまま、いのちの使い方なのだということなのです。ぞんざいに生きていないか、不平不満が多くなっていないかを、時にチェックしてみないと、私たちの使える時間には限りがあるのです。」
これは日野原重明先生の言葉でしょうか。私も日野原先生の本を読んでから、同じように考えるようになりました。
「人は皆、いつか死にます。公演を行うときなど、リハーサルをしておくと、本番であがったり、慌てないで済むように、死そのものも取り乱すことなく迎えるためにも、リハーサルをしておくことはよいことなのです。
このリハーサルを、私は『小さな死』と名付けています。そしてそれは日々の生活の中で、自分のわがままと闘い、自分の欲望や感情などを制御することなのです。」
「聖書の中にある『一粒の麦』のたとえのように、地に落ちて死ねば多くの実りをもたらすけれども、死を拒否する時は一粒の麦のまま枯れてしまいます。実りを生む死となるためには、それに先立つ『小さな死』が求められるのです。その時には辛いとしか思えない自分との闘いが、実りを生む死となるのです。」
うーむ、なるほど。
少し聖書にも興味が沸いてきました(^^)
「『汝の敵を愛する』ことの意味」
言葉にするのは簡単ですが、シスター渡辺の壮絶な人生を考えると、
そう簡単に「汝の敵を愛する」なんて言えないなぁと思います。
九歳の時に目の前で父親を惨殺されたシスター渡辺。
殺した側と殺された側とで、ある時、テレビにて共演することになります。
その時の心境はどんなものだったのでしょう。
「頭では許しても、体がいうことを聞かないということがあります。今、私がもし聖書の中の『汝の敵を愛せよ』ということを実行するとすれば、せめて相手の方の不幸を願わないことです。今、相手の人は生きていらっしゃるかどうかは分かりませんが、『老後をお幸せにお過ごしになりますように』ということが私にとって精一杯の『汝の敵を愛せよ』とおっしゃったイエスさまのみことばを守ることだと思います。」
「人間は弱いものです。口ではきれいなことをいってもなかなか体がついていかないことがあります。それを体験できたということは、恵みだったと思います。『シスター、許したいのですけど許せないのです』といわれると『そうですか、私にもそういう思いがあるのですよ』ということがいえるようになりました。言葉でいえても体がついていかないことがあると知り、そんな自分を許すのです。」
シスター渡辺は、こうした人間らしい面がご自身にもあることを語ってくださいます。
だからこそ、人々から愛され慕われるのかなと思います。
ただその裏には、並大抵ではない覚悟や意思の強さが感じられます。
「生きる喜びに気付く」
いのちが 一番大切だと
思っていたころ
生きるのが 苦しかった
いのちより大切なものが
あると知った日
生きているのが
嬉しかった
星野富弘さんの詩です。
かつてシスター渡辺は、富弘美術館にお越しになり、富弘先生とお話をされたそうです。
この本の中で、もう一遍、富弘先生の詩が引用されています。
シスター渡辺にとって、それだけ富弘先生との出逢いは大きかったのでしょうか。
群馬県民としてなんだか嬉しく思います(^^)
はなしょうぶ
黒い土に根を張り
どぶ水を吸って
なぜ きれいに咲けるのだろう
私は
大ぜいの人の愛の中にいて
なぜ みにくいことばかり
かんがえるのだろう
おもしろおかしくやるんべぇ♪