前回の記事。
そして今回読んだのがこちら。
読んで心に残ったことをまとめていきます。
人を許せば自分も救われる
『人を許すとき、許した人は自由になり、解放されます。人を許すとき、その人は未来を創造的に切りひらいてゆくことができます』
と言っていますが、他人を許さないとき、その人は不自由になります。その理由を教皇は続けて、次のように言っています。
『人を許さない人は、また、他人の支配下にある人なのです』
『許さない』という人が上位に立っているかと思うと、実はそうではなくて、その『こだわり』に縛られ、許していない相手の支配下にあるということ。自分が自分の主人でないということなのです。
~中略~
しかし、『あんなやつ、放っていけばいい』という無視ではなくて、『私があの人のことで心を騒がせる筋合いではない』という、『距離』を置く生き方と言ったらいいでしょう。
そうでなくても、自分の心をいっとき乱されて口惜しいのに、それを深追いして、これ以上、自分のかけがえのない一生の時間を無駄にしたくないというプライドー『他人の支配下』に自分を置いたままにしたくないという自己解放への願いと言ってもいいかもしれないのです。
自分の生活をたいせつにするためには、自らの感情を自分でスッパリ『断ち切る』ことが時に必要です。
『もう、これ以上このことで悩むまい』と。
しかし、人間のこと、断ち切ったつもりでも、なかなか忘れられず、許せないこともあります。そんな時、時間が一番いい薬なのかもしれません。」
これは確かにそうだよなぁと思います。
嫌なこと、嫌な相手のことなど考えなければいいのに、考えてしまって、
嫌なこと、嫌な相手がいつも頭に浮かんでしまう。
わざわざ自分で自分を苦しめてしまっている、そんな感じです。
誰でも陥りがちなことであるからこそ、そこに陥らないようにする、抜け出せる思考法を身につけるのは良いと思います。
真の愛にはきびしさがある
提出日を守らなかった学生のレポートを、受け取らなかった時のやり取り。
「その学生は、ひとしきり言い訳を言った後で、『シスターはクリスチャンのくせに、一頭の迷える羊を救おうとはなさらないのですか』と言うのでした。
一瞬たじろいだ私は、『いいえ、迷える羊を見捨てはしませんよ。やがて社会に出ていくあなたに、甘えが通用しないきびしさがあることを、今のうちに知っておいてほしいからこその処置なのです』と答えたものでした。
~中略~
寛容というのは、『寛大で、よく人を許し、受け入れ、咎めだてをしないこと』と定義されていますが、それは決して『大目に見てやる』といった『甘やかし』と同じではないと思うのです。相手を許し、受け入れるにあたっては、真の思いやり、愛が、一見きびしく思えることさえあるのです。」
卒業後もその学生とのやり取りが続いていることから、
安易にレポートを受け取らなかったからこその、今があると思います。
もちろん、受け取っていたとしても、それはそれで、また違った今があるのでしょうが。
結局はベストな道を選択し、進んでいるということかな。
だからこそ、その時どう対応するべきか、判断がとても難しいです。
その判断が正しかったのかどうか、ずっと自問自答させられます。私は。
「あなたは何さまなの?」
「私の母は八十七歳で世を去りましたが、生前、その母からよく『あなたは何さまなの?』と言われた記憶があります。あなたは自分を何者だと思っているのかという『たしなめ』の言葉であって、多くの場合、物事が思わしくいかなくてプリプリしたり、イライラしている時に言われたものでした。
世の中が自分の思い通りに運ぶことなどあり得ない、うまくいかなくて当たり前、うまくいったらありがたいと思いなさい、ということも耳にタコができるほど聞かされて育った私は、幸せ者だったと思っています。それだけ、無駄な苦しみから解放されているからです。
~中略~
『優しくしてくれるに、こしたことはない』
『理解してくれたら、もうけもの』
『感謝されたら、ありがたい』
くらいに考えておくと、心が自由になるから不思議です。
それは結局、思い込みというのは、その実現において他人に依存する部分が多いからでしょう。」
これは本のタイトルにある通り、自分が幸せだと思えば幸せだし、不幸だと思えば不幸。
自分で勝手に幸せだと思い込めばいいのに、幸せかどうかを他人に依存して判断しようとしてしまう。
だから他人の言動を必要以上に気にしすぎて、苦しくなってしまうのかなー
ちょっとした心掛けでも、変えることはできそうです。
人生は思い通りにならないのが当たり前
「一人の前途有望な学生が自殺して、その遺書には『思うままにならない人生に嫌気がさした。人生そのものがわからなくなった』といった内容が書かれていたそうです。
悲しみに沈んだ友人数名は、自分たちが常日頃尊敬する老教授のもとへ急ぎました。ともに死を悼み、慰めてくれると思ったからです。
遺書の内容に静かに耳を傾けた後、その教授は、案に相違して、語気も鋭く言いました。
『そのような考えで死ぬなど、思い上がりもはなはだしい。人生とは、人が生きると書く。私のように六十年以上も生きていて、なお人生は分かっていないのに、たかだか二十年しか生きていない者に、分かってたまるか。
また、人生は思うままにならないのが当たり前であり、それ故にありがたいのだ。人の思いというものの中には、良いものもあるが、よこしまなものもたくさんある。それがもし、人の思いのままになるとしたら、我々は安心して生きていられまい。思うままにならないからこそ、安心して暮らすことができ、また、より大いなる者への随順の気持ちも起きようというものだ』
この教授の言葉は、決して死者に鞭打つつもりで言われたものではなく、生者に、つまり、その分からない、思うにまかせない人生を、今後も生き続けてゆかねばならない若者たちに向けて言われたのでした。」
その学生の状況を知らないので何とも言えませんが、
でもやはり思い通りにならないからといって自ら命を絶ってしまうのは、思い上がりなのかもしれません。
受け入れがたい自分を受け入れる
「あまりきれいな話ではありませんが、自分の唾液を小皿に受けて、それを飲み直すというのは、決して気持ちのよいことではありません。ふだん何とも思わずに飲み込んでいるものなのに、いざ、あらたまって喉を通すとなると嫌悪感を抱くもので、不思議なことです。
血液についても同様。指先を針で突いてしまった時など、何のためらいもなく吸っているのに、試験管に取り出した血を、たとえ少量でも吸うのには抵抗があります。
~中略~
白日のもとに晒された自分、または自分のものというものは、時に見つめ難いものを持っているということかもしれません。
自分でさえ正視しがたいもの、受け入れがたいものを、他人に見られるのはつらいことです。心の中の恥ずかしい思い、わだかまり等が体内におさまっている間は、それでも許容できるのに、一旦外へ出てしまうと、自分でも受け入れられず、ましてや他人の目からは必死になって隠そうとします。
他人に隠さねばならない部分が多ければ多いだけ、また、隠す相手が多ければ多いほど、生活は不自由になります。大らかに生きることができなくなるわけです。」
自分の中にある醜いものと向き合う。実際は自分が自分で醜いと思って、囚われているだけなのだろうけれど、なかなかその感覚から抜け出すのは厳しいよなぁ。
でもそれこそが、自分を受け入れるということなのでしょう。
他にも、
「美しさ」は修行を必要とする。
ボランティアはさせていただくもの。
等、
心に残ったことがいろいろとあるのですが、今回はここまで(^^)
おもしろおかしくやるんべぇ♪