何かをやれば批判が生まれるって話。

 

今回読んだ本はこれ。

子どもたちの光るこえ

子どもたちの光るこえ

 

 

香葉村真由美先生の「子どもたちの光るこえ」。

 

どうしてこんなに試練とも思われるようなことが、次々と真由美先生の身には起こるのか。

自分だったら耐えきれないかもしれない。

プラスに解釈すれば

他の人なら耐えられないけれど、真由美先生ならこれらの状況を打破してくれると思って、そういう状況が引き寄せられているのかもしれない。最後の砦として。

 

壮絶な経験を重ねているから、真由美先生の発する愛情というのはものすごく深いものだと思う。私なんか比べ物にならない。

愛というのは苦しい状況に陥り、そこで周囲の人の優しさに触れたり、かけがえのなさなどに気付いたりすることで深まっていくものなのかもしれない。

 

「人の死」。その中でも「身近な人の死」。

これほど心痛む辛いことはない。しかし後の世に愛を伝えていくために、先人が身をもって教えてくれているのかもしれない。だとしたらそれをしっかりと受け止めて、後に生かしていくしかない。

 

「キラキラ朝礼」

以前に動画で見たことがあります。確か炎上している最中でした。

クラスの状況、先生の心境、いろいろなものを踏まえた時に出てきた案なのだと思います。それ以前にもいろいろと試したのだと思いますが、どれも上手くいかなかったのでしょう。

 

きっと真由美先生が「これいい!」と思ったことをやったから、子どもたちにも心が伝わったのだと思います。

「何をやるか」はあまり重要ではありません。たぶん真由美先生以外が「キラキラ朝礼」をやってもああいう風にはなりません。「何をやるか」ではなく、その中で「何を伝えるか」。

 

自分に自身のない子たちを目にし、このままではいつかまた自死を選択する教え子が出てしまうかもしれない。そうならないためになんとか自分の良さを知ってほしい。人とのかかわりの心地よさを味合わせたい。真由美先生のそうした強い願いがあの「キラキラ朝礼」には表れていたのだと思います。

 

こうしたクラスの状況、先生の心境も知らずに、上っ面だけで判断して是非を判断するなんてナンセンス。そんな批判をできる権利は誰にもありません。

もし「気持ち悪さ」があるのだとしたら、それを取り除いていけばいいだけです。芯が通っているから、そこさえぶれなければ表面に出ている部分はいくらでも形を変えられます。そうやって最善策を見出していけばいい。

ちなみに私の朝礼は極めてシンプル。私は一つひとつの「授業」でこういう心を育てたいと思っているので(^^)

 

「これは洗脳教育だ」と批判する人もいるらしい。

でも考え方を変えてみれば、「様変わりなことは深く知らなくとも批判してもいい」という考え方を、メディアや社会全体に刷り込まれているのかもね。恐ろしや。

 

 

「正義」が「悪」を生む。

「悪」はニコニコ、何やら楽しそうで自己実現を果たそうと燃えている

「正義」はイライラ、「悪」を絶やそうと日々燃えている。

 

どっちが「正義」でどっちが「悪」なんだ?

「正義」や「悪」という区別をなるべくグレーにした方がお互い暮らしやすいんじゃないかな。「悪」を完全に認めるというわけでなく、互いの利害がぶつからないように折り合いをつける。自他不敗。

 

 

話がそれました。

真由美先生のセミナーがあります。

興味のある方はこちら。

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