今回読んだ本はこちら。
タテゴシ体操に出会ってから、「健康な体」について興味が増し、
たまたま目にしたこの本を読んでみました。
前半は古武術の身のこなし方などを説明しているのですが、
私は武術、武道をやっているわけでないのでよく分からず…
少しこれから何か始めてみようかなぁ。
専門的でわかりづらい中でもなるほどなぁと思ったのが、
古武術の基本は「アソビ」や「ウネリ」のない動きだということ。
野球のピッチャーがボールを投げる時のように、確かに体を鞭のようにしならせれば速い球を投げられるかもしれません。
しかし先行動作を見せてしまっては、武術の世界では致命的。
イメージは、体がいくつかに分かれて、それぞれが独立して動く感じ。
一本の鞭のようにしなるのとは全く違う動きです。
例えるなら、哺乳類や鳥の群れの先頭が方向を変え、後続もそれに合わせて変えていく、動きの波が伝わっていくというのが現代的な体の使い方。
古武術的な使い方は、誰かが合図を出したわけでもなく、魚の群れが一斉に方向を変えるような、それぞれが独立して瞬時に動く、ああいうイメージ。
イメージは分かった。ではどうすればいいのかというと、
うーん。
分からん(^^)
この本の最後の方に、著者の甲野善紀さんが、古武術を極めていく過程で見出した、いろいろな考えがまとめられています。
よく「丹田」を意識することの大切さが言われたりします。
「無住心剣術」という流儀があるそうです。しかし重要だと思われる、「丹田を自覚し、鍛える『練丹』」について、書物などで残しませんでした。
後学の者たちは、「これは大きなミスであり、そのために彼らの優れた流儀を学ぶのに必要な手掛かりをなくした」と評したそうです。
ところが、そうした手掛かりのないはずの流儀を、相当に使える門人が輩出されていったそうです。
しかし、重要な手掛かりであるはずの『練丹』を打ち出して門人を導いた者の門下には、剣術史上に残るような剣客は出なかったそうです。
このことについて甲野さんは、
「丹田の法が間違っていた、ということではなくて『丹田』などと言われると、『ああ、それさえ得ればいいのだな』と、稽古する者が安易な発想になって、何か、観念的信仰的に『丹田、丹田』と思い込むことで、何か、やったような気分になるからじゃないでしょうか。
これは様々な新宗教や能力開発法にも見られることですが、元々あったものを簡易化し、何か、信仰の対象のようにして打ち出すと分かりやすいですから普及はするんですが、なかなか深く入ってゆきにくい、ということがあるのでしょう。」
と言っています。
確かにキーワード的な物やノウハウがあると分かりやすいですが、結局それさえできていればOKというようになってしまって、思考停止。その先を追い求めようとしなくなり、成長も無くなってしまうのでしょうね。
これはどんなことにも共通することだと思います。
「基礎基本を大事にする」ということについても考えさせられました。
例えば野球の素振り。
一見すると、やっている素振り自体は同じように見えます。
しかし始めたばかりの人と経験を重ねた人の素振りが同じものであるわけがありません。
意識の向け方、実際に使われる筋肉や力の入り方など、全く違うはずです。
何を「基礎基本」と捉え、どれだけ自分が「基礎基本」を身に着けているのか。
その物事について深く極めた者にしか「基礎基本を大切に」という言葉は使えないなぁと感じました。
またこの方が残している言葉が、どれも深い。
まずは代表的ともいえるのが、
「運命は完璧に決まっていて、同時に完璧に自由である」
そして、
「武術は、力に力でぶつかることではない。それは効率が悪い。
そうではなく、相手の力で崩させる。それは合気道も同じ。
こちらが支点を消して気配を消せば、相手は情報を欲しがる。
相手は力を抜き、センサーモードにならざるを得ない。
その受け身のセンサーモードの時に、相手側から脈絡のない動き(=情報)がドッと入ってくると、全く抵抗できないし対応できない。
それは、相手の確固たる信念に、こちらも確固たる信念でぶつかっても埒が明かないのと同じ。
むしろ、こちらは自在に変転して、相手を映す。
それは、相手にうまく情報を与え、自分で考えさせ、〈買ったほうが得だ〉と自分自身で納得して結論を出させるのが上手なセールスマン、というのと同じ。
生きていると決断しないといけないことは現実にたくさんある。
だから、自分の本心に沿うような、決断の時に参照する『モノサシ』を自分自身で身に着けることが必要だ。
自分にとっての具体的なモノサシは『深く静かな呼吸』をしているかどうかということ。
『深く静かな呼吸』とは、自分の行動決定を自分の本心に照らして、最も納得できたときに『自然に』生じる呼吸のこと。意識的にする呼吸ではない。」
そして「教育」についても、
「教育では、むやみに厳しさを教えなくてもいい。楽しさを教えることが大事だ。
楽しさを教えると興味が引き出されてくる。
熱中すると自信もつき、自然にプライドも育つ。
そのプライドは、自分自身をより厳しい立場へと追い込んでゆく。
そうして厳しさは自然に学ばれていくものだ。
何しろ大学に受かりたいだけで学問をやって、仮に大学に入れたとしても、卒業後、今度は就職の厚い壁がある。そこでなんとか企業に採用されたとしても、不愉快な上司の下でストレスのかかる仕事をしなければならない可能性は非常に高い。
それよりも、自分で生きる意味、学ぶ意味を、若いうちから自覚できるように学んでいけば、苦労したとしても自分で納得のいく苦労である。
仮にどこか就職した後、理不尽な上司と対峙しなくてはならなくなったとき、自分なりの覚悟があれば、そこできっちり言いたいことを言って辞めることもできるし、あるいは理不尽な上司の下で働くことで、自らを磨くという方に積極的な価値を見出すこともできる。
とにかく学問が自分の人間力を高めるために使えるように、学ぶことの原点について若いうちから本気で考えることは、これからますます価値観が混沌とし、未来を見通すのが困難な時代で非常に重要なことのように思われる。」
と言っています。
甲野先生は、武術や体に一直線に向き合い、その結果こうした自分なりの哲学が生まれ磨かれていったのだと思います。
言い換えれば、何かに一直線に向き合う経験のない者がそれっぽいことを言っても、結局は薄っぺらい話にしかならないということです。(と言っている私の考えも、なのですが…)
一直線に向き合う、とは、批判を受けることも覚悟し、とにかく行動すること。それを継続すること。なのかなぁ。
また体の話に戻りますが、
江戸時代の人は速く走れないそうです。
まぁあの服では、今のように腕を大きく振ったり足を高く上げたりするというのは不可能でしょう。
しかし全力疾走はできない代わりに、小さい体に大きな力と持久力を秘めていたそうです。今のように筋トレなんてしないだろうし、栄養状況も良くはないでしょう。
剣術を磨いたり、後は日々の生活を送ったりする中で、自然に運動量が確保され、より効率的な体の使い方を見出していったのでしょう。
「体育」という教科がありますが、果たしてそれは本当に「体」を育んでいるのだろうかと思い返してみました。
よくあるスポーツテスト。あれは現状の能力の測定に過ぎません。その成果を上げるのであれば、テストの前にいかに多様な運動を行ったか、そうした時間をどれだけ取れたかということが関わってくると思います。
日常的な運動量の減っている現在。例えば小学生のうちは、今の低学年のように各分野に分けずに、遊びを通していろんな動きをする時間に。テストにかかる時間ももったいないので、テストもなしにして、その代わりに汗だくへとへとになるくらい運動する時間がたまにはあってもいいのではないかと思います。
小さい子は走り回るのが大好き。
心臓が未発達な分、ふくらはぎのポンプを活用して血液を巡らせようとしている、らしいですね。じっと座っていられないのも、こうしたことが関係しているようです。運動量がますます減れば、もっとじっとしていられなかったり姿勢を維持できないような子が増えてくるのではないかと思います。
また特定のスポーツをやっていて、そのスポーツにだけ特化している…という子もいたりします。
野山を駆け回ったりして、遊びを通して運動神経が発達し、コツさえつかめばいろいろなスポーツをある程度器用にできるなんてタイプの子が、かつてはもっといたと思います。
特定のスポーツに特化した結果、同じような動作が続き、同じ箇所に負荷が多くかかります。そして怪我に繋がります。
選手生命の短いスポーツは、やはりそれだけ無理のある体の使い方をしているのだろうなと思います。
引退後もその体と付き合って生きていかねばならない、となったときに、
現代的な体の使い方ってどうなんでしょう。
年を取って足を骨折し、車いすや寝たきりの生活になると、一気に体が衰えていくそうです。
平均寿命が延びているのだから、それに伴い、体も長く使えるようにしなくては。
となれば、古武術的な、無理のない最小限の力で最大限の効果を発揮するような体の使い方が、これから重要になってくるのではないかと思います。
そしてそういう体の使い方を「体育」でできればいいなぁと思います。
体育全体の中では少ないですが、「体つくり」の時間ってめちゃくちゃ重要ですね(^^)
おもしろおかしくやるんべぇ♪