今年はとても穏やかに、新たな学級が進んでいる。
やはりこれまでの進め方には無理もあったのではないかと思う。『学び合い』を成立させようとして。そしてその環境をなんとか整えようとして。
『学び合い』は考え方である。と言いながら、やはり見目形が気になる。まあそれはどこかで批判を受けるのを恐れているのだろう。しかしそれはほとんど気にならなくなった。
今年は『学び合い』の語り、というようなことをほとんどしていない。言葉にする必要がないと思うようになった。言葉以上に体全体から発せられるメッセージのほうが大きい。
良くも悪くもその先生の学級に1年間いると、そのカラーに染まる。だから1年経てばきっと学び合うようになっているということが、ありありと想像できてしまう。これまでの学級が、子どもたちが物語っている。
『学び合い』によって、何を目指すか。
「テストで結果を出す」「コミュニケーション力を高める」「うまくいかない授業をなんとか立て直す」いろいろある。
私が今一番注目しているのは「2040年問題を乗り越える」だ。
20年後、日本の人口が1億人を下回る可能性があり、高齢者人口は過去最高。
反対に生産年齢人口や子どもは減少していき、ここから人口減少のスピードがさらに増していく。
それに伴い、今ある自治体の半数が消滅の危機に。
ここまで悲惨なシナリオにはならないかもしれないし、むしろこれ以上に無残な状況かもしれない。ただどちらにしろ、今の社会の構造とは大きく変わっていくだろう。
そんな状況を乗り切るためには、AIやロボット、海外からの労働力、社会の仕組みの変化など、人口が少なくなっても成り立つ社会にしていかざるを得ない。
これまでの産業革命もIT革命も、「より便利な世界に」とポジティブな視点で進んできた。それに伴う問題もいろいろ起こったが、一度便利なものが生み出されると、人間はそれを手放すことができず、新たに生まれたものはその後発展していった。
しかし今回は「不便な世界にしないために」と、ネガティブな視点だ。しかしここを乗り超えるシステムを構築できれば、今後この「超先進国」である日本と同じような道をたどるであろう国からの支持を得ることができる。システムを輸出することができる。そこに今後の日本の未来があるように思う。
今のところ、この問題に対抗できる教育は『学び合い』しかないと思う。もちろんこれから新たにこの問題に対抗できるようなものが生まれれば、私は即移行する。20年後を何とかしようと思ったら、それまでの1年1年がとても貴重なものとなる。それが20回分しかない。自ら動きださねば。
「テストで結果を出す」
大学入試改革が進められている。思考・判断・表現力を問われるようになる。高校での3年間でどのような学びをしたのかが問われるようになる。だからただマークシートを黒く塗りつぶせばいいのではなくて、知識をもとに自分の言葉で表現できる能力が、より重視される。だから日々の学習の中で知識や技能を定着しつつも、こうした能力を少しでも伸ばせるよう、伸ばす機会を保証できるよう取り組んでいる。そして「振り返りジャーナル」などで日々の気づきや学びを構築するようにもした。
しかし、だ。
そもそも「大学進学」という道をどれだけの人が選択するのか。そこにどれだけの意味があるのか。
先述した社会構造を乗り越えるためには、ビジョンを描くエリートがもちろん必要だ。「士農工商」でいう「士」。しかしそれは少数でよい。
それよりも専門的な知識や技術を備え、0から1を生み出すことのできる「農」や「工」の存在が欠かせない。
今仕事の多くが「商」だ。生み出された価値の取引。今ある資本がどんどん減っているのだから、生み出すほうにシフトしなくては。「商」の層も厚すぎるのだろう、今の社会の構造では。
こうした中で「大学進学」という選択肢をとる必要がどれだけあるか。「農」や「工」など「手に職」が、これから求められる層だと思う。一度仕事をし、新たに学び直す、同時に学びを進めるなどの視点も大事になってくるのではないか。
テストは出題者が回答者の能力を問うもの。今後の社会では「こうすればよい」という模範解答はなく、最適解を自分で見出していくしかない。そしてそれをできる人が求められる。
そうなったとき、「テストで結果を出す」ということにどれだけの意味があるのだろうか。
(そもそも「士農工商」の階級はなかった、という指摘は今回パスでお願いします。あくまで説明の例として。)
「コミュニケーション力を高める」
この能力は重要だ。もののやり取りにしろ助け合うことにしろ、いわゆる「コミュ力」が高いか低いかで大きく状況が変わる。
多様な人と折り合いをつけながら、自分のやりたいことをやれる。そんな人を多く育てていきたい。
この「コミュニケーション力を高める」は2040年の社会を見越してだ。学級の中で、学校の中でというレベルには留まらない。「みんななかよく」とか「いじめをなくす」という捉え方でもない。そもそも同じ年齢の人が同じ場所に集められ、同じことを学ぶという構造にやはり無理がある。集団が流動的であればいじめは起こらないだろう。折が合わなくても違うコミュニティーに移動すればいいだけの話である。
さまざまな年齢の人と、ルーツが日本以外にあるような、さまざまな人ともコミュニケーションをとれる。それが生き残る術にもなる。
ただコミュニケーション能力が低い人もいる。「変人」と呼ばれる過去の偉人たちもこうした人が多い。しかし常人ではできないような発想をし、数々の発明をした。こうした人たちの能力なしに、今の社会の発展はない。そういう視点で、コミュニケーション力が低くても排除するのではなく包み込む。そんなコミュニティーができればいいなと思う。
「うまくいかない授業をなんとか立て直す」
いわゆる「いい授業」に無理にフィットしていく必要はない。その「いい授業」はその人にしかできないし、自分には自分の「授業」がある。
これら社会の構造が変われば、授業、いや学校のあり方も変わってくる。なにかにフィットしようとするのではなく、むしろこれからの授業、学校のあり方を提案できる側でありたい。
『学び合い』西川研究室の目標を借りて言うと、
「自らの心に響き、多くの人の心に響く教育研究を通して、日本を変える」
『学び合い』の捉え方が変わったというよりも、このことが現実味を帯びてきたこと、そしてその姿を何となく想像できるようになったことを、「変化」と感じているのかもしれません。