おもしろおかしい出来事が続々と起きていたので紹介してきました。
しかし、紹介しきれないレベルになってきてしまったので、ストップします。
あ、内容ではなく数がです。
気になる方は直接聞いてください(^^)
今回は『学び合い』と私について考えていこうかなと。
『学び合い』によって、成績と人間関係が向上します。
これまでやってきて、これはほぼ間違いないと思います。
抜群の結果とはいかなくとも、初任者ペーペーの私がやっても、一定の成果を出せたと思います。
教師が一方的に説明し、学習者はノートをとる、という受け身のスタイルではなく
解き方や分からないことを相談し合いながら子どもたちが主体的に学ぶようになります。
一方的な一斉指導では個々が切り離されています。そこに「みんなが」という意識が生み出すことにより、授業の中で人間関係を築けるようになっていきます。
とはいっても、もちろんすぐに成果に現れないこともあります。
むしろ手を抜いたりごまかしたり、ぶつかり合ったりすることもあります。
しかし安心して何度も失敗し、乗り越えていけるという場があることが大切。その役割を学校が担わねば、正解だけを求めて、自分で考えることをしない、やる前から挑戦を諦める人間になってしまいます。そうすれば失敗しなくて済みますからね。
教え子たちを、生きているうえで上手くいかないことを、すべて人や環境のせいにして成長を止めてしまう人にしたくはない。成長を止めた人が、変化の激しい今の社会でどうやって生き残っていけるかって話です。
ところで、今どき一方的な一斉指導なんて稀です。互いに説明しあうような授業は多く取り組まれています。コミュニケーション力を高めるようなエクササイズなども多く取り組まれています。
では、なぜ、『学び合い』なのか。
大切なのはどこを見据えているかだと思います。
『学び合い』を実践するときに、まずは理解してもらうところから入ります。
何よりも分かりやすいのはテストの点数。ここである程度の結果を出すことによって、「なにやら変わったことをやっているけど、まぁ大丈夫そうだ」という安心感を得られます。
そのあとはどこに向かっていくか。
『学び合い』が目指しているのは、「テストの点数を向上させること」ではありません。
あくまで、主体的に学ぶようになった結果として、テストの点数に表れるだけです。予想外に「あれっ?こんなはずじゃ」と成果に現れないということもあるかもしれません。しかしそうした場合はその結果をもとに、「じゃあこれからどうしていこうか」と集団がより高次なものへと進化するための学びの材料としてしまえばいいわけです。
かつての私のようにテストの点数に縛られ過ぎるのはやめましょう。本質を見失います。テストの点数と『学び合い』は全く別次元のもの。並べて考えることで『学び合い』が陳腐なものになってしまう。
抜群な結果を出せるかはわかりませんが、そこそこな結果は出ます。これはほぼ間違いないと思っていい。安心してください(^^)
話は変わって、
核家族化が進み、地域もつながりが薄れています。隣の家同士でも会話がないなんてこともあるくらいです。
鍵っ子だった私。よく鍵を忘れましたが、近所の家にしょっちゅうお邪魔してました。こんな姿はもう遠い遠い昔の話…
一斉指導の中で、子どもたちは、ばれないように互いにノートやワークシートをそっと覗き合っています。ばればれですが(^^)
では「相談していいよ」と言われたら…
これが、なんと動けないんです。
私だったらすぐに聞きに行きます。分からないのにじっと座っているなんてもったいないですから。
でもそんなもんなんです。いざそれがオッケーとなると動けない。「どうやるの?」「教えて?」と一歩踏み出すだけの人間関係力(というより勇気?)を持っていない子は意外と多い。
だから最初は教師がたくさん入らないといけません。
「人間は本能的に学び合う。だから課題と環境を設定すれば自然と学び合…」
いません。いや、合えません。それが現状です。
本能的には学び合うのかもしれませんが、それまで生きてきた中で学び合う本能に蓋をされています。または学び合う環境が、それが認められる環境がなかったのかもしれない。
親世代、祖父母世代もそうなのです。今の子どもたちが学び合えないのも無理はないです。
この蓋はかなり手強いです。教師がどんどん介入して解放してやらねば。まぁ解放され始めれば、自然と学び合うようになります。
わいわいやりながら自分のペースで楽しく学習できること。一瞬一瞬を全力で生きているような子どもたちがこの学び方を選択するかどうか、お判りいただけるでしょう。
こうして子どもたちが主体的に学び合えるようになってきたら、少しずつ手を引いていくようにすればいいです。ただすぐに状況は変化するので、じっくり様子を見取って適切にフィードバックすることは大切ですね。客観的な視点で自分を見ることは、まだ難しいですから。
という状況です。
1年間でどれだけのコミュニケーション力を高められるでしょうか。
「人間関係力を向上させる」と言ってもたかが知れています。校内研修などで取り入れて、研究紀要に「成果があった」とまとめられるようなレベルまで行けるかは微妙だと思います。
ただこれは1年間で取り組んだ場合の話。
2年3年…と、長いスパンで継続して取り組むことで『学び合う』学校になっていきます。小中学校が『学び合う』ような学校になれば、その地域が『学び合い』的なものになっていくでしょう。こういうふうに、今の学年が終わった後、学校を卒業した後も見越しての取組であれば、かなり「人間関係力の向上」につなげられると思います。
先を見越しての『学び合い』
先ほど「地域が『学び合い』的なものになる」と言いました。これが私が『学び合い』に見出す魅力の一つです。
20年30年40年後…どんな社会になっているかまったく想像ができません。
いや、数年先、東京オリンピックが開催されている様子や、それが終わった後の様子も想像ができません。
私はその流れに逆らわずに変化していけばいいだけですが、今の子どもたちはそうはいきません。学校を卒業するまでは、自分で自分の道を選択し行動するということができない。だから周りの大人が社会の変化に敏感になって、どう変化しても必要であろう力を子どもたちが身につけられるようにしなくては。
子どもたちだけでなく、小中学校を核とした地域や保護者も『学び合う』ようなコミュニティになれればいいのにと思います。地域にはいろんな職種の方が集まっています。これからの時代、どの職種が生き残るか分からない。でもすべての職が失われるということはないと思います。「困ったときはお互い様」の精神で協力していければ、そのコミュニティは生き残れるのではないかと思います。
コミュニティ内で自給自足をしていけば、とりあえず衣食住は確保できる。餓死、孤立死は防げると思います。あとは稼げる人が稼ぐ。人と人との心のつながりを大切にし、コミュニティ内の子どもの成長をみんなで喜び合える。これってすごく素敵だし幸せそうだなと思います。
そしてこうしたコミュニティの中で育った子は、学校が『学び合い』かどうかなんて関係ありません。生まれながらに自然と『学び合い』を体得していくことでしょう。そうした子たちが成長して大人になった時、そんな素晴らしいコミュニティからわざわざ出ていくでしょうか。きっと多くの子がそのコミュニティに貢献する道を選択するのではないかと思います。
「子どもはうちで預かっておくから、たまには夫婦水入らず旅行でもしてきなよ。少しだけど、はい、これ餞別。」
なんて、これは私の勝手な想像ですが、こうした助け合い支え合いが自然と起こるような姿、いいなぁ。
上記の内容とは違いますが、実際に独自のコミュニティを作っている方が身近にいます。その関わり方を見ると無理なく笑顔で楽しくやっているように思います。
大きくなりすぎると維持が大変かもしれません。なので小さくともぽつぽつと生まれたらいい。そしてそうしたコミュニティをつくるきっかけを、学校が担えたらもっといい。
とは言っても…
「学び合うことは本能」、というところでも書きました。
子どもたちだけでなく、親や祖父母世代も個々に切り離されてしまっています。必要性を切迫感を、感じていれば別ですが、独自のコミュニティをつくるということはハードルがかなり高いです。
そして今ある地域のコミュニティのしがらみ等々、閉鎖的な環境に悩まされているケースも少なくない。小中学校を核にして…と言いつつ、その小中学校が存続の危機なんて自治体もこれからどんどん増えていくでしょう。現実を見れば息が苦しくなるような問題ばかり。挙げ始めればきりがない。
そこで一つの道となるかなと思うのがネットでのコミュニティ。
私はこちら、
西野亮廣さんの「革命のファンファーレ」を読んでから、オンラインサロンに入会しました。
このオンラインサロンの中で、互いのニーズが合って、新たな雇用が生まれたりしています。オンラインサロンが持つ可能性について、これからもっと深く学び、まとめていけたらと思います。
閉鎖的な地域コミュニティに生きづらさを感じたり、存続の危機にある地域コミュニティに不安を感じたりしているならば、こうしたコミュニティもあるということを知っているだけでもだいぶ心が軽くなるのではないでしょうか。
「多様な人と折り合いをつけ、自らのミッションを実現する力を高める」という『学び合い』(ちょっと自分なりに言葉アレンジしちゃってます…)。
先を先を見据えた時にも生かせるところに、その可能性を感じています(^^)
私にできること
以前、こんな記事を書きました。
小さな学校。
こんな学校ができれば、それぞれのペースで学習ができる。場所も選ばない。
「学校にクーラーを」と世間では叫ばれていますが、そもそもそんなクーラーもないような灼熱の教室に、これまた灼熱の通学路を歩いていく必要もない。
先ほどのような独自の地域コミュニティができれば、
両親が仕事に行っている間に、隣のおばちゃんちでネットで勉強したり、Zoomで話し合いに参加するなんてのもいいんじゃないかな。庭で採れた野菜使ってお昼も出してくれるんじゃない。おばちゃんからしたら地域から孤立しないってのが一番だと思うし、お互いのニーズを満たせる。
妄想はいくらでも膨らむ。わくわく。
ただそれをどう実現させるか。具体的なビジョンには欠けるし、何より私自身の影響力に欠ける。今すぐに実現はできない。賛同し協力してくれる仲間も必要。
では、今何ができるか。
こうした漠然とした妄想を日々発信すること。
このブログで、語り場で、そして求めていただけるなら外に出ていきたい。
オファーお待ちしております(^^) お代はいりません。(交通費と宿泊費、支援してくれたらありがたいけど…笑)
その中で、考えが足りない部分については意見ももらえるだろう。
何よりも多くの人に問題意識を持ってもらうこと、そして読んでくれた聞いてくれた人の心に火を灯したい。「何でもいいから、とにかく行動しよう」と。
そして子どもたちに求めるような『学び合い』を体現すること。
まだ私は釈迦のように弟子たちに説法するような段階ではない。とにかく動く段階。
いろいろと経験を重ねた人の言葉には重みが生まれるけれど、わたしはまだまだ、ぺらっぺら。としたら言葉ではなく常に学び続けようとする態度で見せる。
今、地域コミュニティを再生しようとしている人とつながる。話す。できることをやる。
今、ネットでコミュニティを作っている人とつながる。話す。できることをやる。
「ローカルエリート」としての生き方、「ネットエリート」としての生き方、
どちらも提案できるように動くぞー!今・ここ・すべて!