小学校で外国語が必修となり(多くは英語)、
どうやって指導するかなど、いろいろと策が練られている。
その一方で、なかなか日本人の英語力は向上しない。
なんでだろう。
言語はコミュニケーションのツールであると同時に、
その国の文化や歴史など、いろいろな要素を含んでいる。
例えば英語では、先に主語と述語が来る。
日本語は述語が最後に来るし、主語の省略がなされる。
伝達という観点で考えると、英語の方が日本語よりも優れていると思う。日本人であっても日本語は誤解を生みやすい気がする。それによる勘違いもよく起こる。
では英語が優れていて日本語はダメかというと、そんな単純なことではない。
国境があるようでなく、多様な人種・民族の暮らす社会では、誤解を生まずにちゃんと物事の伝達ができることが大切である。ちょっとした誤解が対立を生みかねない。
また交渉という点からもやはり伝達の正確さは重要である。
日本はというと周囲を海に囲まれていて閉鎖的。そんな中で自分の意見を強く出し過ぎてしまうと、あまり上手くない。伝わりづらい表現は、実はそうした社会で上手くやる知恵なのかもしれない。
そういえば英語ではYesかNoかをはっきりさせるけれど、日本語ではあいまい。濁す。文脈や表情などから判断させる。そうした面からも、文化や歴史の違いによる言語の違いを感じる。
他国の文化を考える時に、分かりやすい例がこれ。
日本では食事をするときに器を持って食べる。しかしお隣韓国では、これは行儀が悪い。「郷に入っては郷に従え」という言葉に従い、韓国では器を持たないようにするだろう。ずっとそれで生活していれば慣れるかもしれないが、それでも最初のうちは一種の罪悪感のようなものを感じるだろう。なぜかといえば、これまで行儀がいいと思われていたことが行儀が悪く、行儀が悪いと思われていたことが行儀がいい。真逆であるから。
食事といえば、韓国や中国では少し食べ残すのがマナー。全部きれいに食べてしまうとマナー違反。これも日本人の感覚としては真逆である。
それは文化の違いとして理解することはできるだろう。しかしそれを自分ができるかと言えば、どうしても難しいところがある。
アイコンタクト、分かりやすいリアクション、口を大きくはっきり動かす。どれも馴染みがない。そりゃなかなか上達しないのは当然の話。
そしてもう一点。
みんな大好き福沢諭吉さん(肖像が描かれた紙はもっと好き)をはじめ、幕末、明治初期の方々が外国語を必死に和訳してくれた。外国語を使わなくとも自国の言語だけで生活できたというところから、わざわざ外国語を会得しようという気持ちが起こりにくいのも当然の話である。
もちろん他国の言語を会得し、コミュニケーションを取れることは大切である。
それを通して相手の文化や歴史を理解しようとする姿勢も大切である。
それらを踏まえたうえで、こう思う。
「全員である必要はないよ、ね…?」