令和になって初の更新です。
連休中、東海・近畿地方の、一之宮をはじめとした数々の神社を巡ってきました。
8日間でいただいた御朱印の数を数えてみたら、なんと
51!!
一つ300円として、結構な額になりますねぇ笑
御朱印をいただかず参拝だけにした神社もあるので、訪れた神社数となるともう少し増えます。
また近くに有名なお寺があった場合にはそちらにも参拝したので、寺社仏閣合わせると、御朱印や訪問個所の数はもう少し増えます。
境内を回る間に疲れた体を運転中に回復させ、
運転で酷使した目と脳を神社で休め、
御朱印を書いていただいている間に休憩する、というなかなかハードな旅でしたが、その疲労以上に得るものが多かったです。
そもそもなぜこうして全国一之宮を巡拝するようになったかと言うと、理由は単純。
「日本をより良くするなら、まずは各地の神様にご挨拶しなきゃ!」
はい、単純というか、むしろアホです。
ですが、名前に「純」の字が入っているので、もうこれは逃れられない運命です。
「日本をより良くするなら、まず他にやることあるでしょ」というごもっともなご批判が聞こえてきそうですが、一切お受けいたしません。
だって家を建てる時とか、別にしなくてもいいといえばいいのに、地鎮祭とかやりますよね。それと同じ感覚です。
今ある日本に感謝し、今後の決意を表明する。そのための旅です。
一之宮巡りをしていると、多くのことに気づかされます。
まずは日本の建国と神話が切っても切り離せません。
紀元前660年、今の暦にすると2月11日。
日本について学ぶ海外の方々が知っていて、日本に暮らす日本人が知らないという現実。
恥ずかしい話ですが、かくいう私も、こうして巡り始めるまではよく分かっていませんでした…
神武天皇の祖先にあたるのが、天照大御神(あまてらすおおみかみ)。
別に私は右でも左でもないので、天皇制がどうとかいうつもりはありませんし、
神話の信憑性についてもよく分かりません。
あまりに古すぎて、残された資料から考えることしかできないのですから、それが事実かどうかは分かりません。一つのストーリーとして共通に認識していることが大切なんだと思います。
この共通の認識が揺るいでしまったら、日本って何?となってしまいます。
というよりこの共通認識が失われた時が、日本の終わりなのかもしれません。
日本に仏教が伝来した時に、受け入れるか否かで争った蘇我氏と物部氏。
蘇我氏の祖先は武内宿禰(たけうちのすくね)で、天皇家に繋がるし、
物部氏の祖先は饒速日命(にぎはやひのみこと)で、辿れば天照大御神に繋がります。
聖徳太子は推古天皇の摂政として活躍しましたが、もともと用明天皇の皇子なんですね。
南北朝に分かれ、ぐちゃぐちゃしましたが、
幕末の志士、明治維新の偉人、そして実業家や政治家。
ルーツを辿れば大体どこかの戦国大名に行きつき、更に辿ればどこかの天皇に行きつき、天照大御神まで辿る前にはどこかで繋がります。
そしてそれは自分たちもそうです。
神社を巡ることは「歴史」を知ることにも繋がるし、「自分のルーツ」を知ることにも繋がります。
そして近い遠いはあれど、「日本人みんな親戚だよ」ということが分かります。
おもしろー(^^)
栃木の日光にある一之宮は二荒山神社(ふた【あ】らさんじんじゃ)と言います。
その昔、日光の中禅寺湖を巡って、栃木の二荒山の神様は大蛇に、群馬の赤城山の神様は大ムカデになって争ったとか。
その戦いで流れた血で赤く染まったので、赤城山と呼ばれるようになったという話があります。
二荒山の「二荒」は「にこう」とも読めます。
「二荒(にこう)」と「日光(にっこう)」かぁ。
また、山梨にも静岡にも浅間神社があります。
山梨にあるのは浅間(あさま)神社。
静岡にあるのは浅間(せんげん)神社。
「あさま」と呼ぶ場合には火の神様。
「せんげん」と呼ぶ場合には水の神様を祀っているそうです。
火と水なんて相容れないような気がしますが(これはポ〇モンの影響か?)、
火山があることで温泉ができますし、積もった雪が解けて自然の中で濾過され、良質な湧き水になります。
Wikipediaによると、アイヌ語で「アサマ」は「火を吹く燃える岩」という意味があるそうです。またマレー語では、「アサ」は「煙」、「マ」は「母」を意味するとか。
そういえば、「阿蘇(あそ)」も似たような読み方ですね。
また「せんげん」についても、「泉源」とかにつながったりして…
「浅間」という漢字。
「浅」という字はもともと「淺」という字です。
「水」を「戈」で薄く薄く切った様子から、「浅い」になったのだとか。
「貝(お金)」に「戈」で「賤しい」。なるほどー!
「間」という字も、門構えの中が本当は「月」だそう。「日」と「月」だと印象が違うし、意味も違うような気がします。
というように、
神社を巡ることで、その「地名の由来」を考えることにも繋がるし、「大和言葉、日本語」を考えることにも繋がります。言葉については、意外と他国の言語と繋がりがあることも見えてきます。
おもしろー(^^)
一之宮は歴史ある神社が多いです。
そのため、境内にはすごく立派な木や岩があります。
樹齢千年以上という大木もあります。
ということは、戦国の世の中を見てきたんだろうなぁ。
奈良の大神(おおみわ)神社には本殿がありません。
それは三輪山そのものをご神体としているからです。
山、森、岩、水…
人間に恩恵をもたらしてくれますが、時には脅威ともなります。
こうした自然に対し、感謝と畏敬の念をもって信仰の対象としているところがいいなぁと思います。
豊かな山や森が豊かな水を生み出し、豊かな川や海を生みます。
考えてみれば当然なのに、忘れてしまいがちです。
三輪山によって生み出された水から、奈良漬けができます。
富士山によって生み出された水から、静岡のお茶ができます。駿河湾で獲れる魚介類ができます。
田畑に流れる水もです。
日本って広いようで狭くて、いろいろなところで繋がっていると気付かされます。
そしてこうした自然による産物によって生かされている、ということにも気付かされます。
そして何よりも、、、
神社を参拝するとき、拝殿の奥には鏡があります。
まさに自分の写し鏡。
これはつまり「あなたの中に神様がいるんだよ。あなた自身が神様なんだよ。」ということです。
ルーツ、血筋を辿ってみれば、みんな親戚。
食べているものはすべて神様(自然)の産物。それによって肉体が形づくられています。
一神教の方からしたら大激怒しそうですが、これが八百万(やおよろず)の神、あらゆるものに神が宿るという神道の考え方です。
家や家具。もともとは木です。
布や衣服も、もともとは植物。
プラスチック樹脂。
石油からできているものも多いですが、化石燃料は大昔の生物の死骸からできていたりします。
物になってしまうと忘れてしまいがちだけれど、生活を支える多くの物は、もともとは生物なんです。
最後に、この旅を通して考えたことをまとめて終わりにします。
それは、
「もう一之宮巡りをする必要ないかも!」
え?
ここまでまとめてきて、最後の最後に、これ? という感じですが笑
結局、一人ひとりみんな大事な神様。
それを気付かせてくれる、思い出させてくれる場としての神社。
御朱印そのものにも何か意味があるわけではありません。
このことを分かってしまえば、必ずしも神社に行く必要はないんじゃないかなと思います。
神様という第三者、超越した存在がいて幸福をもたらしてくれるのではなく、あくまで神様である自分が自分自身に幸福をもたらすだけですから。
全ては自分自身。今この瞬間を大切にし、為すべきことを為すだけです。
ただ!
境内にある鳥居に、灯篭に、手水舎の柄杓など…
どれにも「奉納」の文字が書かれています。
そして奉納の文字と一緒に、企業や個人の名前が書かれています。
つまり神社は多くの人によって支えられているということです。
しかし今、神社を取り巻く状況はなかなか厳しいです。
結構高齢の方が多いです。
遷宮には多額の費用がかかりますが、神社に寄付をするだけの余力がある企業や個人も減っています。
宮大工さんだって減っているし、高齢化が進んでいます。
破損しても、腐食してもなかなか直せません。
企業と同じように、神職さんの成り手も不足していると思います。
お祭りを支える子どもやボランティアも減っています。
成り立たなくなる神社も増えてくるのではないかと思います。
小さな神社は大きな神社と一体となるなど、スマート化していく必要もあると思います。
でもこれは学校の統廃合とも似ていて、学校も神社もなくなってしまったような地域は、何によって人と人とが繋がり、何を心の拠り所としていけば良いのでしょう。
観光地にいるとあまり感じませんが、結局どこの地域、どこの神社も、同じような状況に置かれています。
心の拠り所であり、古くから残る自然や建造物を有する貴重な神社を後世に残していくためにも、
こうしたことに気付いた人から、自分の地元の神社を支えていくことが大切なんだなぁと思いました。
なので「神社を巡る」ことよりも「神社を遺す」ことに今後は重きを置いていこうと思いました。
とはいえ一之宮巡拝は継続し、各地にお金を落としてきますけどね(^^)
おもしろおかしくやるんべぇ♪