おもしろおかしくやるんべぇ~ゆとり世代も悪かねぇ~

幸せ Society 5.0 『学び合い』教育2.0 革命と信用

ここ最近考えたことを、あれこれと。

 

本を読んだり人と話したり旅に出たり。

そうやっていろいろと考えが広がり深まった気がします。

これまでに記事にしたことと被ることもありますが、今回はそのまとめを。

 

その1

私が関心のあることの一つに「2040年問題」。

 

高齢者の割合が高まり、医療や介護などの社会保障費が膨らむ。

働き手世代が減る。業務はどんどん大変になるのに、収入はさほど増えない。世の中に出回るお金がさらに減る。税収も落ち込むだろう。親世代が疲弊すれば少子化もますます進む。教育へのサポートが減る。さらに…という負の循環。

これまで国や地方自治体が担っていたライフラインの整備も厳しくなることが考えられる。オリンピックなんてやってる場合じゃないでしょ💦

 

こんなお先真っ暗なようなことは考えたくはないけれど、起こりうる事態として想定しておく必要がある。

 

乗り切るためには、人口が減少しても成り立つ仕組みを作るしかない。

ロボットや人工知能の技術の向上。任せられることは任せ、人間がやる仕事を選別する。

 

欧米諸国は新たなものの発明が得意。しかし品質に欠ける。

日本はその品質で勝る。しかしコストがかかる。

中国や韓国、インドなどはそのコストを下げることができる。

 

「家電」に関して、上手くやったが既にシェアは奪われた。

「自動車」に関して、日本はかなり上手くやった。しかしいつまで続くか分からない。

スマホ」に関して、上手くいかなかった。質は高いはずなのに、その質の高さは魅力的には映らなかった。

 

人類にとっての次世代の大きな発明って何だろう。

Society5.0を支える「IoT」かな。

 

家電に関しては厳しいだろう。そんなにテレビや冷蔵庫やクーラーなどの家電に性能の高さ、求めないし。日本製はどうしても高すぎる。

 

質の高さを生かして勝負するなら、ずばり「自動運転技術」。これっきゃないでしょ。

多少コストがかかろうが、「安全性」には変えられない。これがまだ何とか日本が自動車産業で生き残れている理由だと思う。「自動運転技術」に関して世界的なシェアを獲得できれば、これほど日本にとって心強いことはない。

 

自動運転が普及すれば、生活は大きく変わる。もちろん失われる職も増えてしまうが、その分、違う分野に人手をかけられる。

「Iot」を活用し、新たな社会が形成される。それにより、より快適な生活が生まれるが、同時に新たな問題も起きてしまうだろう。ますます人は自分で動かなくなって、健康被害は膨らむ。自分で考えることもしなくなって、想像力に欠ける。ますます人と人とのつながりが薄れる。

でも新たな発明により新たな問題が生じるのは、どの時代もそう。自動車の普及によって交通事故で命を落とす人が出てしまったし、スマホを使ったいじめで自ら命を絶つなんてことも起きてしまった。

「危険だからやめておこう」と思って日本が辞めても、他国は必ず開発する。特に経済発展の真っただ中にいる国にとっては、これほど魅力的なことはない。ひとたび新たなものが生み出されたらもう後戻りはできないんだな…

 

 

そして「食」。

自分の体は自分で食べたもので作られているのに、その当たり前の感覚が抜けてしまっている。

今日を食い繋ぐのに必死になる必要はなくなった。その良さと言えばそうだけれど、自国の食糧生産を軽視して輸入に依存している現状はマズイと思う。天災を通して、多くの被害や犠牲を出して学んだはずなのに。

自分たちで食べる分くらいは自分たちで賄えれば、意外と心豊かに生活できると思う。仕事がなくとも、とりあえず餓死はしなくて済む。自分の体や精神を犠牲にして働く必要もない。生活の足しとして、ちょっと働く。そんな生き方の選択もできる。

 

 

その2

こうした社会を見越して、どんな教育をしていくか。

 

 

分からないことに出合ったとき。

私はとりあえずググる

 

じゃあ学校でもそうすればいい。個人のスマホタブレットの持ち込み可。

あとはWi-Fi環境を整えればいい。

 

学習のペースもみんな一緒である必要はなくて、電子化したテキストを使って各自のペースで学べばいい。学校に通うのが大変な場合には家や公共施設などでもOK。最低限の技能や知識に関するテストはネット上で受けられる。しかも何度でもOK。自動車の教習所的な。単位認定が出れば先に進める。小学生が中学生や高校生の内容をやってもOK。今でも実際塾ではやっていたりするわけだし。小学生の単位を全部取れたら卒業認定。飛び級もOK。

教師の役目は教えること重視から、相談に乗ること重視へ。全部自分でできれば問題ないけれど、みんながそうとは限らない。

なのでどこまで進んでいるかを確認したり、ヒントを出したり、同じような課題に挑戦している子同士をつなげたり。そういうコーチングやファシリテーション、カウンセラー的な能力が教員には求められてくる。

 

あとは自分の追究したいことにとことん取り組む時間を。何かを調べるでもいいし、制作するもよし。大学の卒業研究や卒業制作などに似ている。こういう時間を午後にまとめて設定して、学校を離れて地域で学ぶことも可能。地域人材も大いに活用。部活動もこれに兼ねてしまう。スポーツよりもプログラミングとかそういう分野のほうが人気になるかも。卒業後の生活に直結してくるから。

 

Society3.0的な教育から早く脱却し、Socity5.0を見越した教育へ。

 

その3

効率の良い学びの中に、あえて非効率さを。

 

これまでまとめてきたような教育の姿は、社会の変化に合わせた非常に効率的なもの。

でも一見非効率なことを経験せねば目指すのが困難なことがある。それが「人格の完成」。

 

現在の社会もそう。金銭的にも物質的にも豊かになり、暮らしはとても便利になった。

スマホの発明なんて、まさに、だろう。空間を越えて手軽に人とつながれるようになった。しかしその反面、身近な人への関心が薄れてしまった。

どんな便利な道具も誰かが苦労して生み出したもの。軍事目的で開発されたものが多いけれど、それを一般に広めようとした人は社会をより良くしようと思っていはずだ。それを決して人を傷つけるために広めたわけではない。と思いたい。

 

発明した人の苦労を知らずに今では手軽に利用できる。そしてそのサービスを日々支え続ける人がいる。私たちはこのことをもう少し自覚し、感謝するべきではないだろうか。

 

ネットでパッと何か物を注文することができる。今では即日配達も可能である。それが当たり前になるとそこへのありがたみが薄れてしまうのは仕方ないこと。でも考えてみれば、それが届くのは、物を作る人がいて、運ぶ人がいるからだ。

物を作る人にしても、もう少し詳しく考えれば、原材料を生み出す人、パーツを生み出す人、そのパーツを作る機械を生み出す人、製品の検査をする人、梱包する人、梱包する箱を生み出す人、製造数や費用を管理する人と、たくさんの人が関わっている。

運ぶ人に関しては… ちょっと省略します。

 

そしてそれは人だけではない、機械を動かすには水が必要。形を変えるためには熱を生む必要がある。そのためには何かを燃やさねばならない。燃やすためには空気も必要。製造に関わり汚れた水や空気も、自然の力が浄化してくれている。

 

確かに届くのが遅れたらイラっとする気持ちも分かる。でもその届いたもの一つにこれだけのいろいろな物事が関わっていると考え直せたら、少しはイライラも薄れ、今より心豊かに生活できないだろうか。

 

こういうことを理解するには時間がかかる。理科や社会、いろんな観点が関わってくる。それら一つひとつを学ぶときにはその必要性は分からないかもしれないけれど、こうやって考えた時、これまで学んだこと一つひとつに意味が生まれる。そして自分がいかに物事を知らないのかということを知り、もっと学ぼうとする意欲にもつながる。

 

技術の発展が進むことは素晴らしいことなんだけれど、それを使いこなせるだけの力を私たちは持っていない。便利な道具のはずの「お金」にも「スマホ」にも完全に使われ振り回されている状態。これに気付くためには、一度は使われ振り回されないと分からない。

 

 

教科の学習は効率よくやってもいいけど、道徳や学活の時間などでは、あれこれ議論を。

すごく時間はかかるし、端から見れば何て無駄なと思うかもしれないけれど、そういう一見非効率なことからしか、人格を磨くのって難しい。

トラブルが起こらなければ楽でいいけど、トラブルが起きたからこそ相手への意識が生まれたり、同じことを繰り返さないようにしたり、今後は上手く乗りきったりする力が身に付く。これを学校という守られた場で経験できるか否か、その後の人生に大きく影響すると思うな。

 

その4

あとは「なんのために」生きるのか。自分なりの意志と使命を持つこと。

 

より良い学校に進学し、より良い企業に就職する。そうすれば一生安定した生活を送れる。

 

で、どうするの?

 

あとは死ぬだけ?

 

 

 

つまんな。

 

 

人と同じような価値観で、

誰もが手にするものを手に入れ、

誰もが経験することを経験し、

一時は満足する。

 

しかし上には上がいて及ばないことを知り、

劣等感を味わう。

 

そこで人と違うことをしようとして、

叩かれ、

諦める。

 

それを他人がやろうとすると、

疎ましく思って、

徹底的に叩く。

 

 

一度しかない人生、それでいいのか?

 

それって自分の人生を生きているようで、

ただ生かされているだけではないのか?

 

 

決められた枠組みの中で生かされることに嫌気が差し、

ある時代の人たちは荒れて反抗した。

 

それが力で押さえつけられると、

ある時代の人たちは別の世界に逃避し、静かに反抗する。

 

やっていることは違えど、根底にある想いは似ている。

 

 

 

私の使命は(勝手にそう思っているだけだけど)、

こうやって想いを伝えること。

 

そして漠然と生きている、生かされている人の心に、一人でも多く火を灯すこと。

 

 

大変なこともあったけれど、

自分なんて何の役に立つか分からないけれど

でも「生きててよかった」と感じてもらえるように。

悲しさや辛さではない「涙」が流れるように。

 

そして、その人なりの意志や使命を見出すためのお手伝いとなるように。

 

 

しかし、私一人の力には限界がある。

私の想いが届く人もいれば、届かない人もいる。

 

だから仲間が必要。

心に火が灯った人が、別の誰かの心の火を灯すお手伝いができればいい。

 

 

誰の火が誰の心に火を灯すか分からない。

複数の人に応援され、やっと火が灯る人もいる。

 

火を消そうとする人もいる。

不用意に近づけば消されてしまう。

程よい距離感を取ればいい。

 

でもいくつもの火が集まると、

そう簡単には火は消せない。

 

一人でも消えないで残っていれば、

またそこから火が広まる。

 

みんな消されちゃったら

誰かまた火を灯してくれる人を見つければいい。

 

一人ひとりの火は小さく、そんなに大きくない。

だから消されないためには、もっとたくさん集まるしかない。

 

ある閾値を越えたら、

無理に火を灯そうとしなくても、

消そうとしたその人も自然発火してしまうかもしれない。

 

 

平成30年8月25日、今現在。

ただ教科の勉強を教えることは教育には非ず、

本当の「教育」ってこういうことだと思う。

 

 

あ、真面目に語ろうとすると顔が強張るから、

もっとおだやかーに、ゆるやかーに、たのしーく。

 

誰か、笑いのセンスを分けておくれ(^^)