おもしろおかしくやるんべぇ~ゆとり世代も悪かねぇ~

THEゆとり世代。さとり世代とも言われる世代「ふたば」の見方や考え方、そして日々の学びをまとめたブログ。

魂ふるえた読書の話。

 

今まであまり本を読んでこなかったので、

最近隙間の時間さえあれば本を読んでいる私。

 

 

新たな本に出合うたび、新たな気付きをたくさん得ていますが、

今回読んだこの本はとにかくすごかったです。

 

 

まさに名著!是非読んでほしい!

食えなんだら食うな

食えなんだら食うな

 

 

 

 

覚悟を決め、あとは行動し続ける。

それだけだと思います。

 

ただ、著者の関大徹さんやその師匠、

常人の次元を遥かに超越しています。

 

 

 

読んだ中で特に心に残ったことをまとめます。

 

 

 

「病なんて死ねば治る」の章より、

 

 

「すべての人々の恩恵によって、いま、私は生かされている。よくつかわれるたとえだが、一粒の御飯を頂戴できるのも、それを生産して下さったお百姓さんのおかげであり、それらのかたがたには、いちいちお礼を申しあげられないほどの距離と多方面にわたっている。

 だからこそ、せめて身近の、声をかけられる範囲の人には、和顔愛語でゆかねばならぬ。おかげをこうむっている人間の、人間としてのつとめであろう。いや、つとめてするのではなく、おのずから、にじみ出てくるものでなければならぬ。」

 

  

これだって、当たり前すぎる当たり前のことです。

でもそれがなかなか難しい。

 

「和顔愛語でゆけなんだら食うな!!」と一喝されてしまいそうです笑

 

 

 

「無報酬ほど大きな儲けはない」の章より、

 

 

豊臣秀吉は、遺児の秀頼のために、東洋一といわれる金銀と城塞を残して死んだ。秀頼は、この金銀と城塞の為に滅んだといっていい。金銀による軍事行動力を叩くために、徳川家康大阪城を攻め、ついでに秀頼母子をほろぼした。もし秀吉に仏教的な思想があれば、金銀を天下のためにばらまき、秀頼を豊臣という新興公家として京都の片隅にでも置いたであろう。そういう裸の秀頼まで、いくらむごい家康でもひねり潰そうというはずはなく、かれの血筋を絶やすことはなかったであろう。豊臣家は末代まで続いたはずである。

 豊臣秀吉父子だけではない、人間みんなそうなのである。持って死ねる金もなく、残して末代まで保証できる金もないのである。」

 

 

「人間、本来無一物である。みんなが赤ン坊の初心にかえればいい。すると、ずいぶん余計なものが身辺につきまとっていることに気づくであろう。余計な金があれば、施しなさい。施しという無報酬の徳を通じて、

『無一物中、即、無尽蔵』

という人生の秘密がおわかりになるであろう。

『即』なのである。

 

 赤ン坊が、なにも持たずに生まれてきたために、母や父や、多くの人から無尽蔵の愛を受けられるのである。」

 

 

金は天下の回り物。

手放せば入ってくる。逆に言えば、手放せないから入っても来ない。

 

そんな話をよく聞きますが、なるほど、

ここでもそう言ってますね。

 

むしろ「無一物中無尽蔵」という考えが先で、そこからよく聞く話が導き出されているのかもしれません。

 

 

地位や権力、お金に執着しない。

執着するからこそ、かえって脅かされる。

執着するのではなく、それをもって何を為すか。

 

 

生きることにも執着しない。

生きて何を為すか。

 

 

 

きゅ、究極です(^^)

 

 

 

ためにする禅なんて嘘だ、の章より、

 

 

「たとえば、企業で有用な人間といえば、企業を大いに儲けさせてくれる人間であり、そういう陣頭に立って働く人間でなくても、最低限、企業の管理に、きっちり当てはまる人であろう。もっと端的にいえば、社長を頂点として、上司の思い通りに動いてくれる人間であろう。

 そういう人間になってくれることを、企業では『人間形成』と称する。なんという傲慢であろうか。自分の思い通りになる人間が有用であり、思い通りにならぬ人間は無用と斥ける、そのために『人間形成』するという。そういう人間形成に禅が役立つとするならば、それは、企業にとっては『善』であろうが、形成されたナマの人間にとって、これほどの『悪』はない。

 禅の有用とは、そんなちょこまかした、ちいさなちいさな世界に人間を閉じ込めることではないのである。禅は、あくまでも個人の『さとり』であり、全体の中での矮小化とは、本質的に違うのである。

 だから、そうした、期待を込めての『人間形成』のための新入社員教育に、禅が利用されるなんて真っ平である。これほど、禅を悪用することはないからである。

 そのような野心、もしくは意図をもって来られた人に、私は、いつも次の言葉をのべて、返事にかえている。」

 

達磨大師、梁の武帝に見ゆ。帝問う。朕、寺をたて僧を度す。何の功徳がある。達磨いわく、無功徳」

 

 

 

ここの章を読んで、自分で自分に問いかけ、自分と深く向き合わされました。

「自分の思い通りにさせようとしてはいないだろうか。」

 

「自分が教えたから、相手が分かるように、できるようになった。」というのは、完全に傲慢だと思います。

 

相手が教わろうとしてくれたから、分かるように、できるようになりたいと思ってくれて努力したからに過ぎません。

それなのに「教えてくれてありがとう」と言ってもらえることに対する感謝の念を、常に意識しておかねばならないと感じたのでありました(^^)

 

 

 

 

その他にも、

 

「社長は便所掃除をせよ」

「自殺するなんて威張るな」

「若者に未来などあるものか」

「犬のように食え」

地震ぐらいで驚くな」

「死ねなんだら死ぬな」

 

と過激な物言い笑

 

しかしそこにあるエピソードや込められた想いというのは、言い表せないものばかりです。

だからこそ、是非この本は読んでほしいです!

 

 

あ、一応補足しておきますが、

「ガキは大いに叩いてやれ」という章があります。

そこに載っているエピソードは「それはさすがにやりすぎでしょ…」

ダメです。

 

 

 

 

読み終えて、「あぁ終わってしまったかぁ…」と思っていると、

あとがきの執行草舟さんの内容もまた、なんとも。

 

最後の最後まで心動かされた一冊でした(^^)

 

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪