先日の道徳でのこと。
テーマは命。
教材は「ゆきひょうのライナ」というお話。
どういう話か簡単に紹介すると、
主人公であるゆきひょうのライナ。
川で泳ぐ魚に見とれていると、サギが魚を捕まえて去っていってしまう。
今度はキツネが子ウサギを捕まえようとしているところを見て、思わず声を上げてしまう。子ウサギを捕まえ損ねてしまったキツネが、ライナに「食べなければこっちの命がなくなってしまう」と叱る。
その後、みみずくのおじいさんから、「無駄な命は何一つないこと」「食べられたものは新たな命につながっていること」「なくなった命の分も一生懸命生きること」などを教えられる。その結果、ライナは逞しく成長していった、というようなお話である。
定番パターンだと、主人公ライナの立場になって、
サギが魚を捕まえたシーン、
キツネから子ウサギを守る結果となるも、キツネに叱られるシーン、
みみずくから話を聞いたシーンとに分けて、その時の気持ちを考えるだろう。
でもそういうことはせず、今回は読んだ感想をまとめ、互いに伝え合うだけにしてみた。
やはり、
「子ウサギがかわいそうだと思った。」「それを守ったライナは逞しいと思った。」
というような考えが多く出された。
しかしそれに対し、キツネの立場から、
「でも食べなければキツネの命が無くなってしまうよ」という声が挙がった。
そして、みみずくの言葉を使って、
「かわいそうかもしれないけれど、キツネの命として生きていくんだよ」
というような話になっていった。
ある子から、
「ライナだってこれからは獲物を捕らなきゃ生きていけないんだよ」という考えも出た。
話が一段落したところで、
みみずくの「なくなった命の分も一生懸命生きること」という言葉から、
今度は「じゃあみんなの命を支えるのは、どんな命があるかな?」と聞いてみた。
すると、牛、豚、鶏、魚…といろいろな名前が挙がった。
さらに、お米や野菜という声も挙がった。
これらは自らの命を支える食物のこと。
それで食べ物のありがたさや「いただきます」の話で終われば、
これまたいい感じの定番パターン。
でもそれだけではなくて、「おじいちゃんやおばあちゃん」という声も挙がった。
これはご先祖様あっての自分ということだろう。
こちらの発問によって授業を流すのではなく、あくまで一人ひとりの読んだ感想から考えを共有するようにしたからこそ、こういう違う視点での意見も生まれた。そして何より、あれこれ意見を共有し合う時間を多くとることができた。
まだまだ考えは深まる。
これらを総合すると、自分の命は、食物の命と過去のご先祖様の命によって支えられているということにあらためて気づき直す。
そうなると、ものすごく多くの「なくなった命」があることが分かる。
ある子は、その責任感の大きさを感じながら生きていくことの大変さについて、最後に振り返っていた。
そういう気持ちは誰しもある。私だって考えたことがあった。この世に一つしかない大切な命だと分かっているからこそ、その自分の命の使い方について戸惑うこともある。
ただ、まさか小学校低学年の子がここまで深く考え言葉にするとは思いもしなかった。
命が大切であることは誰もが知っている。
でもなぜ大切なのか、それを一歩踏み込んで考えてみる、あるいは普段当たり前になっていることを見つめ直してみるのが、道徳の時間の意義なのだと思う。
これまでいろいろと道徳の授業のやり方を工夫して実践してきたけれど、ここまで考えが深まったことはなかった。想定した流れ通りに進み、予想される反応が出て終わり。綺麗にまとまっているといえばまとまっているけれど、深みがない。予想を超えあっと言わされるような意見も出てきにくい。
では今回どんな手を打ったかというと、発問は特になし、感想をワークシートにまとめて、それを共有し合うだけ。そのあとはさらに雑談的な感じで新たな考えを共有し合うだけ。手抜きとも言われかねない。
授業ではないといえばそうかもしれない。子どもたちの感想次第で、まったく深まらない可能性もあった。
けれど、いわゆる「授業」をしていたら、ここまで深まることはなかったと思う。
委ねられて、主体的に考えるからこそ、価値について深く見つめることができる。あれこれ意見を共有し合うことを積み重ねているので、そこに本音も出てくる。
ではなぜこういう集団になったのだろうかという話は、また明日。
おもしろおかしくやるんべぇ♪