ふと思ったこと。
教師主導型だと、どうしてもできないこと。
それは、
「教師がニュートラルでいること」
集団を常に引っ張っていかなければならないから、教師のもつエネルギーに集団が左右されてしまう。
そこに合う子にとっては心地よいだろうし、合わない子にとっては居辛い集団となってしまう。
結果としてそれが、集団の序列を生み出すことに繋がってしまったりする。
そういう集団の中で、日々の学習に集中して取り組むことができるだろうか。
言いたいことも言えないこんな世の中じゃpoison状態になってしまわないだろうか。
『学び合い』で、教師は「集団の理念」を語る。
それは教師のエゴではなく、集団に所属する一人ひとりにとって「得」であること。
だから「集団の理念」に沿って、どうすべきか考え実行に移すのは教師だけではなく、そこに所属する全員である。
教師が強くエネルギーを発しすぎないからこそ、子どもたちが主体的になれる。そうやって学習に取り組んだり、意見を主張したりすることができる。自分たちで少しずつ集団を創り上げていく。
ただその過程で、どうしても誰かと誰かのエゴがぶつかってしまうこともある。
そういう時、教師がニュートラルな状態であるから、両者の考えを客観的に聞くことができる。
トラブルが起こる時、大体このどちらかのパターンであることが多い。
一つ目。
両者の話を聞いていると、徐々に見えてくる。
どちらも集団のためを思って、良かれと思って何かをやっている。
それがぶつかってしまう。
でもその言動の背景にある想いは似ているのだから、互いがどういう想いからそういう言動をしているのかを分かれば、結構すっきりする。
教師は、その背景の想いを引き出すお手伝いをしているにすぎない。
「みんなのためにいろいろと考えてくれてありがとうね。でもそれによって苦しい思いをさせてしまったのは申し訳ない。今回の学びを今後に生かしていこうか。」
二つ目。
集団のためを思う気持ちが強く出過ぎている場合。
それに合わない子が反発したりして、ぶつかってしまう。
でもこういう時、なぜ集団を思う気持ちが強く出過ぎるのかというと、教師自身がそのエネルギーを強く発しすぎてしまっているから。それに影響されて、応援してくれる子が強く出過ぎてしまう。結果としてそれに合わない子をよく思わなくなる。
「正義」が生まれる時、必ず「悪」も生まれる。
その原因は教師。
「みんなのためにいろいろと考えてくれてありがとうね。でもそれによって苦しい思いをさせてしまったのは申し訳ない。今回の学びを今後に生かしていこう、一緒に。」
教師がニュートラルでないと、白黒はっきりさせたがる、正義と悪とに分離したがる集団になる。
ニュートラルであるから、グレーなところで留めることができる。自他不敗の概念。
そしてこれは教室内の『学び合い』に限った話ではない。
職員集団もそうだし、一般企業でもそうだろう。
経営にかかわるすべての人に共通することだと思う。
経営のトップは常にニュートラルでいることが大切。
強烈なトップの改革は、その一瞬は一見改善したように見えるかもしれないけれど、
裏ではその集団のメンバー同士に序列が生まれている。やがてぶつかる。
そうした集団は長くは続かない。
維持できないということは、そのやり方は自然に反しているのである。
自然に反しているものは、やがて淘汰される。
思えば、自分が『学び合い』を実践していて上手くいかなかった時は、
『学び合』わせようとするエゴが強く出ていたんだろうね。
その応援をしてくれる子と、それに違和感を感じる子がぶつかる原因となってしまった。
応援してくれる子の存在はもちろんありがたいけど、それに違和感を示してくれた子の存在もありがたい。その時はすぐに気づけなかったけれど、メッセージを送り続けてくれていたんだなぁ。
これを学びに変えて、ニュートラルでいることを心がけます。なかなか難しいけど。
おもしろおかしくやるんべぇ♪