今回読んだ本はこちら、
不勉強が身にしみる?学力・思考力・社会力とは何か? (光文社新書)
- 作者: 長山靖生
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2013/12/20
- メディア: Kindle版
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もともと、不勉強のまま生きてきてしまったという後悔もあるので、タイトルに惹かれて読みました。
子どもに勉強をさせたいとき、読書をさせたいとき、
それを言おうとしている周りの大人はどうでしょうか。
周りの大人が当たり前のように勉強したり読書をしたりしていれば、
その姿を見て子どもも自然とそうするはずです。
「ゲームばかりしていないで、少しは勉強しなさい」
そういう本人はいつもスマホの画面ばかり見ていたら…
「もっと本を読みましょう。」
そういう教師が全然本を読んでいなかったら…
言動が一致していないこと。
これ、最も子どもから信用を失う行為だと思います。
いや、子どもだけではないですね。
とやかく言わないならまだしも、あれこれ口出しするくせに行動が伴わないのは最悪のパターンです。
「こんな本読んだら、こんなことが書いてあって面白かったよ。」
「こんなことを知って、それを生かしたら上手くいったよ。」
そういう会話を普段から楽しんでいれば、自然にそうなると思います。
子どもの方から「何の本読んでるの?」なんて興味をもつものです。
『学び合い』が上手くいかなかった時、
折り合いをつけることが大切と言いながら、一方的に押し付けるような形になってしまっていたのでしょう。折り合いをつけられていないのは私自身でした。そりゃ上手くいかないはずです。
「人のふり見て我がふり直せ」
「他人は自分の写し鏡」
まさに、その通りです。
そうしたことがあり、今は自分が『学び合い』的な生き方をしています。
そうしたら、もう、とんでもないですよ!
西川先生は「『学び合い』は得だ」と言いますが、確かに得なことばかりです。しかしこうした生き方を続けた結果、どの道恵まれることばかりになっていくので、今ではもう損か得か判断すること自体どうでもよくなりました笑
この本の中で、特に心に残ったことが二つ。
一つ目は、大人になって「もっと勉強しておけばよかったな」と思うのは、どういう時か、という話。
それは、子どもに何かを教えてあげたいと思った時、だそうです。
確かに私も職業柄、その感覚が痛いほど分かります。
今までろくに本を読んでこなかったことを後悔するのは、伝えられることがない、と気づいた時です。
だから今、何かを伝えつつも、それ以上に何かを得ることに躍起になっています。
子どもたちの学びのスピードが加速するにつれて、私はそれ以上に突っ走らなくては。
そんな思いがあるから、少しでも時間があれば読書をしています。
別に勉強って一人でコツコツやるというものでもありません。人から学ぶことも多くあります。なのでいろいろな人と繋がり、あれこれ語り合ったりしています。子どもはこうした学び方はなかなか自由にできません。ま、子どもがそうした学び方を自由にできるようになったら、もう私は追い抜かれますね。その時が楽しみだなぁ(^^)
なんのために勉強をするのか?
「将来、自分が困らないため。」
それで合っていると思います。
でももっと解説が必要だと思います。
別に勉強しなくても生きていけます。何もできないままで、子どものままでいるほうが、むしろ楽に生きていくことができます。誰かが助けてくれますから。大人になることに魅力がなかったら、将来の不安ばかり煽られたら、そりゃ学ぶのをやめたくなるのも当然です。
でも学ばないでいると、
誰かに何かを伝えることができません。
子どもに何かを教えてやることもできません。
中身の伴わない口だけの人間、子どもはすぐに見抜きます。
子どもたちは日々全力で生きて、常に学び続けています。
だからこそ、それを見ている側に感動を与えることができるのだと思います。
誰かの役に立ったり誰かの救いとなれなければ、
誰かの笑顔を増やすこともできません。
勉強をしないということは、自分の魅力や価値を高めないということ。
その無さを感じながら一生を終えていくのでもよければ、それでもいいと思います。
私はそれが辛すぎるので、学び続けるのだと思います。
そういう意味での「自分が困らないため」と、今の私は捉えています。捉え方はまた変わるかもしれませんが(^^)
二つ目。
「数学離れ」の話。
実は数学の方が社会とかよりも点数を取りやすい、とか。
良いかどうかは別として、より多くの問題を解き、その解き方を暗記してしまうくらいやれば、満点を取ることもできるそう。
記述式の問題においても、最終的な解は出せなくとも、その過程があっていれば部分点はもらえるらしい。
確かに記述式の数学は意味が分からず、お手上げだったけれど、とりあえず何か書いていれば部分点はもらっていました。
そしてそれが、意外とマークシート式のテストくらい点数が取れたんです。
社会の方が、何となく知識を動員して解けそうです。でもそういうところをついて出題してくるんですよね。
「常識的に考えればコレ。でも実はコレ。」的なもの。
それに引っ掛かり点数ガタガタ。そんな経験ありませんか?
ここから話が少し変わるのですが、
数学的な考え方、理論的な考え方。こうした考え方を身につけていれば、
うさんくさい儲け話に引っかからないはずなんです。
でも引っかかる人がたくさんいます。
それは「真理」よりも「経験や感情」の方が邪魔をするからなんでしょうね。
社会の問題でだまされてしまうのも、そういうことが関係しているのかもしれません。
今知ることのできる歴史も、真実とは限りません。
その時代その時代の「正義」、つまり「強者」の創り上げた「物語」的な要素が強いです。「弱者」の存在は書き換えられたり、存在のそのものを消されたりしてしまいます。これは事実とは限らず、真実とも限りません。
例えば中国の三国志で蜀に思い入れが強くなるのは、横山光輝さんの影響でしょうね。司馬遼太郎さんの作品も、とにかく良い物語になっているので、どこが事実で、どこが加えられた部分なのか分かりません。NHKの大河ドラマもそうです。
それはそれとして楽しむ分にはいいんです。私も好きです。
ただそれがすべて事実かというとそういうわけではない。それを頭の片隅に置いておき、全てを信じ込まないことも大切なのだと思います。
その分、数学は真理を追究しています。そこに「経験や感情」は入りません。
その良さもあるのですが、人間って「正論過ぎる正論」には耳を塞ぎたくなってしまうんですよね。
分かっていること、何となく気づいていること、
それを突き付けられたくないと心の中で思っているのでしょう。
それが数学よりも社会の方を選択し、その方が何となく点数が取れると思っているのではないか、というようなことを筆者は言っています。
世の中に疑問を抱いたり嫌気がさしたりしつつも、
ド正論を突き付けられたくない。
結果として、疑問や嫌気と付き合い続けることになる。
その流れを変えるには、やはり変化することに対しての「お得感」が必要なのだと思います。
まずは楽しくてワクワクするほうへ進む。
いつかは真理と向き合わねばならない時が来ますから、それはその時でいい(^^)
おもしろおかしくやるんべぇ♪