最近叫ばれています「教員の多忙化解消」
そのために業務を精選したり、より効率よく進むよう改善したり、
ローコストでなるべく高いリターンを求めたりと、いろいろと策が考えられ取り組まれています。
その流れに賛同しつつも、なんか心の奥に引っかかっているものがありました。
そしてそれが少しずつ分かってきたように思います。
それは「なんのために多忙化解消を目指すのか」ということについてです。
時間外業務が多くて疲弊している教員を救わねばならないのはもちろんのことですが、
「子どもと向き合う時間を多くとれるようにすること」がもっと大きな目的のはずです。
しかし「教員の負担をどれだけ減らせるか」というところばかりに目が向いてしまっているように感じます。
何かを始めるのは簡単でも、減らすのはなかなか難しいです。
でもある学校が「〇〇を今年からなくした」となれば、それを前例に周りの学校も続き、なくしていきます。
ある学年が、ある教員がやったことが、次第にみんなに広がっていきます。
全国学テで良い結果を出した実践例が全国に広まっていったように、多忙化解消の具体的な方策も広まっていくのでしょうか。
同じような学校、同じような教員が全国的に多量生産されます。
そうやって業務が効率化された先に何があるのでしょう。どの学校も大差なし、どの教員も大差なし。これ、逆に短期間・短時間での使い捨て的な働き方が進んでしまいそうな気もします。
業務の改善により時間的なゆとりを生んだら、そのあとは、「どんな学校にしていくか」「子どもたちにどんな力を身につけさせたいのか」などを子どもたち、保護者、地域の方々と話し合う時間が必要だと思います。
学校の在り方やカリキュラムそのものなど、根本的な部分に迫っていく必要があります。子どもたち、そして社会の実態を捉え、それをもとにより良い学校づくりをしていく。それでこそ、子どもたちに真に向き合うということだと思います。
「何のために学校があるのか」「なんのために〇〇がカリキュラムに位置付けられているのか」というもっと奥深い観点から議論がなされる。それにより地域の実態に合った学校づくりを目指す。その実現に向け教員それぞれの力を発揮し取り組む。それでこそ、一人ひとり違った教員がいることの良さが教育に生かされるのではないかと思います。
多忙化解消や業務の効率化の一番の敵は「同一歩調」で、「多様性を認めること」が解決の糸口のように感じます。
「今の学校の枠組みの中でどう効率よくやるか」という表面的な改善だけに留まらず、もっと根本的な改善を見越しての多忙化解消や業務の効率化が推進されることを願います。