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THEゆとり世代。さとり世代とも言われる世代「ふたば」の見方や考え方、そして日々の学びをまとめたブログ。

『学び合い』ってなんですか?【②大切なポイント編】

 

前回の記事では、「そもそも『学び合い』って何?」ということについてまとめてきました。

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これを読んで、こう感じた方が多いのではないでしょうか。

 

「ああ、『学び合い』って自習みたいな感じね。」

 

ずばり、正解と言えば正解。しかし大切なポイントが欠けています。今回はそのポイントについて紹介したいと思います。

 

『学び合い』=自習?

 

 人間は生まれながらに学び合う本能をもっていると思います。

周囲の人が立っているのに自分だけ立てない。

周囲の人が喋っているのに自分だけ喋れない。

最初は泣いて欲求を満たすことしかできませんが、だんだんと周囲の人の真似をし始めます。「学ぶ」とは「真似ぶ(まねぶ)」こと。

もう少し大きくなってくると、公園や児童館、こども園などで同年代の子とのかかわりが生まれてきます。こうしたかかわりの中で自然と「これどうやるの?」とか学び合っています。あっという間に新しい遊びを生み出したり、物を作る技能を高めたりします。

 

放っておけば人間勝手に学び合います。

「なんだ、放っておけばいいんだから、『学び合い』って楽でいいじゃん。」

 

いえいえ、ここから大事なポイントに入っていきます。

『学び合い』=放任?

 

ここを勘違いをされる方が多いです。だから上手くいかなくなります。職務放棄だと言われかねません。

 

私自身の過去を例にしながら、ポイントに触れていきたいと思います。

 

 

勉強をサボっていた私。しかしテスト前に学び合っていたのでなんとか乗り切ってこられました。

そのときの私の学び合う目的は、「目の前のテストをパスすること」。

正直言って他の人のテストどうこうに関わっている余裕がありませんでした。

自分の利益しか考えていない。こうやって書いていると「なんて最低な奴だ」って感じてきます。でもそんな過去があっての今があるので。みなさん、ありがとう。この恩はこれから残りの人生をかけて還元していきます(^^)

 

なんとなく学び合っていても、自分の目先の範囲しか見られないのが現実です。まずは自分。そして気の合う数人の仲間。

関係が固定化してくるにつれて、だんだんと成果が落ちていきます。

2人だったら2人、3人だったら3人の常識で判断するしかないので、その判断が非常識なものになりかねません。その中で解決できないことについては、そこから一歩外に出なければ解決できません。常に他の集団と関係をもとう、そこから学ぼうという意識がないと、あっという間にただの寄せ集め、傷のなめ合いグループになってしまいます。

 

そうなると数人のグループがいくつか、そこにあるだけのクラスになります。共同体感覚の範囲は自分の所属しているグループのみ。次第にグループ同士で優劣の差をつけ始めたり、ぶつかったり、挙句の果てには無関心。他のグループがどうであろうと、自分たちには関係なし。残念ですが、こういう集団が多いのが現状です。

本当は当事者がこの状況を崩せればいいのですが、わざわざリスクを負ってまで状況を変えようとする人は少ないです。(本当はそういう人材を育成したいんですよ)

そこで、どのグループとも利害関係がぶつからない存在。グループの調整役として教員が必要となってくるわけです。放任ではありません。集団にゆだねつつも常に全体を見渡し状況を判断する必要があります。必要な時には必要な手立てを加える必要があります。(それについては、またのちほど)大切な役割を担っています。

 

はっきり言って全く楽ではありませんからね。ただし何となく日々の授業をこなしているのとは遥かに違う、教師としてのこの上ない充足感を味わうことができるのは確かです。一人ひとりの子どもの姿がどれも愛おしく見えてきます。一つの小さな出来事でさえ涙が流れるほど感動します。これを知ってしまったら、多少の大変さは乗り越えられますよ。

 

「一人も見捨てない」という言葉を使えるほどの経験を私はしていません。なので「みんながみんなのために」という言葉を使います。

 

学び合うこと自体は本能ですが、「一人も見捨てない」や「みんながみんなのために」は本能ではありません。優劣をつけたり他を排除したりしてしまおうとする悲しい本能と向き合わなければなりません。そのためには常に「一人も見捨てない」や「みんながみんなのために」を語り続け、方向付けをする存在が必要です。それが教員の役目。

 

ということで『学び合い』は自習でもなければ、放任でもない。ただ単に学び合うこととも違うわけです。

 

あの時『学び合い』ができていれば…

「自分のテストを乗り切るため」というレベルの目的ではなく、「みんながみんなのために」、クラス全員が第一志望の進路先に進み、そしてそれぞれの立場で地域を、社会をよりよくしようという意志をもって『学び合い』をしていたなら、どうなっていたでしょう。

 

結果的に全員第一志望に合格したわけではないかもしれません。でもそうやって互いに助け合い高め合った仲間であるなら、その絆、心と心のつながりはずっと続くものだと思います。合わない人がいても、「まぁあいつはあいつで、いいところもあるからな」と、少なくとも互いに傷つけあうような関係にはならなくて済むと思います。

その関係の中でモノやサービスのやり取りをしているかもしれないし、ビジネスパートナーになっているかもしれない。家庭を築いているかもしれない。

実際そういうつながりもあるけれど、それはほんの一部。『学び合い』をしていたらそうしたつながりがもっと多くあったかもしれません。地元に残って地域を支えようとする人ももっと多かったかもしれない。

 

現状は個々はバラバラ、地域は衰退の一途。都市部に進学、都市部で就職。

 

 

同年代が集まる場という、学校の良さ(それによるデメリットももちろんあるけれど…)を生かすことができなかった分、

これからその可能性を広げ魅力を高めていきたいと思います。

学校を核としたコミュニティの再構成。がんばるぞー。

 

 

 

ということで、なんとなく『学び合い』に大切なポイント、伝わったでしょうか(^^)