もともとは一つ、点のように小さい宇宙。
それがビッグバンを起こし、時間と空間が生まれた。
今、太陽や地球、月、
空気、水、
自然、生物、そしてその中の一つである人間、
そして人間の一人に私がいるのも、全てはビッグバンによるもの。
ここからは私のイメージ。
宇宙を数えきれないくらいの、∞ピースあるパズルだと考える。
水や空気を形づくる分子を1ピースとしてみる。
生物はそのピースが100~10000くらい集まった、まとまり。
ある程度ピースが集まってきたので、絵が見えてくる。
それを見て、「このパズルは〇〇だ」と思う。
実際は勝手な思い込み。ほんの一部見えただけでそれ以外の部分がまだまだ見えていないのだから、分かるはずがない。
それなのに、勝手な思い込みにより自分が完全だと勘違いする。
考えてみれば変。
完全な存在でありたいのなら、もともとビッグバンを起こす必要はなかった。パズルをばらばらにしなければ良かった。
だから存在する太陽、地球、月、空気、水、自然、生物、その中の人間、その中の私…
すべて不完全。
それは悪いこととかではなく、そうなんだから、そう。
ネガティブに考えることもなく、そうなんだから、そう。
相手に完全を求めるから、
自分が完全であろうとするから、
上手くいかないのは当然の話。
完全がいいなら一つの宇宙に戻るまで待っててねって話。いつになるか分からないけど。
だったら不完全であることを素直に受け入れた方が楽。
人と考えがぶつかる、性格が合わない。そりゃ当然の話。
あなたも私も不完全なのだから。
そうすれば互いをかけがえのない存在だと感じ、尊重し合えるようになる。
分かり合おうとする努力はできる。それが折り合いをつけるということ。
学校という場。
定められたカリキュラム。
どうしてもその中で得手不得手が生じる、
いろんなことに長けた子がいれば、そうではない子もいる。
長けたことが多いと「上」。
そうではないと「下」。
こう捉えがちなのは人間の心の弱さ。まぁ人間自体も不完全なのだから、仕方ない。
私はこう語る。
できないことがたくさんある人。
気にすることはない。
その人の存在はとっても大事。
できることがたくさんある人が、その人に手を貸してあげられるから。
できないことばかりということこそが、その人の素晴らしい個性。
できることがたくさんある人。
人と比べたって仕方ない。
あなたよりもできないことが多い人がいることで、
あなたのできることが生かされる。
みんながなんでもできてしまったら…
学校に来る必要もないし、そもそも勉強をすることもない。
「ありがとう」も「ごめんね」も、一切のコミュニケーションの必要がない。
それって生きていて幸せ?
みんな不完全であるからこそ、豊かに生きられるのかもしれないね(^^)
できることが多い人は、あまり人と関わらなくても自分の力で生きていける。
できないことが多い人は、人に助けてもらわねば生きていけない。
明らかに後者のほうが人生ハードモード。
人生ハードモードのほうが、
教育の目指す「人格の完成」に近づきやすいんじゃないかな。