おもしろおかしくやるんべぇ~ゆとり世代も悪かねぇ~

THEゆとり世代。さとり世代とも言われる世代「ふたば」の見方や考え方、そして日々の学びをまとめたブログ。

教師主導型授業とアクティブラーニングについて考えたこと。

 

何かを「教授する・される」という視点で考えた時、

「力量のある人の『一斉指導・授業』に勝る授業方法はない」と思う。

 

例として算数の「割合」の授業で考えてみる。

まず教師の中に「教えたいことや身につけさせたいこと」がある。

「基準量」、「比較量」そして「割合」。これらを活用してさまざまな問題を解けるようになることをねらいとしたとする。

かけ算の「被乗数×乗数=積」をもとにかけ算の式にし、求めたいものを文字xにして求める。数直線に表し考える。後は式を変形して答えを導く。定番はこんなところ。

 

しかし同じ内容であっても、教材研究を極め、より身近で分かりやすい例を挙げられる人がいる。記憶に残りやすい考え方などを考案できる人がいる。人に何かを伝えるスキルに長けた人がいる。影響力をもつ人や有名な人といった人間的な魅力をもつ人がいる。またこれらの魅力を併せ持つ人、はたまたすべてに長けた人もいる。そうなったら凡人は完敗。

 

そこでアクティブラーニングなど、対話的な手法を取り入れてみることに。教師一人の力ではなく、集団の力を使って理解を深められるようにする、という発想。

 

しかしここでも同じような流れが起こる。アクティブラーニングをよりよく機能させようとしたら、今度は学習意欲を高めたり、よりよい集団形成をできたりするようなコーチングやファシリテーター的なスキルに長けた人が出てくる。またも凡人の完敗。

 

つまり、教師主導型の何かを「教授する・される」という視点で見た時、

確かに凡人よりは、アクティブラーニングができる教師のほうが力量は上だろう。しかし教師一人でできてしまえるほど力量に長けた教師は、そもそもアクティブラーニングなどする必要がない。やはりこれまでかなりの年月をかけて教材の理解や指導のスキルを磨いてきた人たちには敵わない。

 

それが最初に述べた「力量のある人の『一斉指導・授業』に勝る授業方法はない」ということ。

 

しかしここで出てくるアクティブラーニングは、あくまで「授業」で使う手法の範囲として。本来は「主体的・対話的な深い学び」のはず。身につけるべき内容が決められている中での学びを「主体的」と言えるのかどうか、疑問が残る。宿題の「自主学習」的な。

 

教師の中に答えがある、教師の予想の範疇を超えない以上、真の意味でアクティブラーニングとは言えないのではないか。それを越えないものは、教師主導型授業の範囲内なのではないか。

 

ではどんな学習がアクティブラーニングかと言えば、

「小学校の算数の中で、割合は理解しづらい。その割合をより多くの小学生が理解できるような説明を考え出そう。」など。

教師の中に正解はない、一緒に考えていこうとする態度。

松下村塾吉田松陰のようなスタンス。

 

考える際、これまで蓄積された割合の指導のノウハウを集める。教師向けの書籍も子どもたちと一緒に読みながら考える。どのやり方が一番伝わりやすいかを調べるテストに協力してもらう人を集めたり、実際に結果を導き出して分析したりする。そこから導き出された最適解がゴール。

 

まぁただ、一つの単元でこんなに時間をかけることは現実的に不可能。

なので本当にアクティブラーニングにしようとしたら、一時間単位、一単元単位の課題ではなく、もっと長い期間を見越す必要がある。

またその課題は抽象的なものとなる。具体的であればあるほど、教師の予想の範疇を越えない。学び合いのようで学び合わせているだけになりがちなので。

 

となると「20年後、30年後…どんな世の中になっていようとも、助け合い高め合いながら一人ひとりが自分なりの幸せを見出し生きていけるような社会をつくろう。そのために必要と思われる力を日々の学習を通して身につけていきましょう」

くらいの課題というかビジョンの提示くらいがちょうどいいのかも。

 

 

短期間に、ある程度答えや方向性の見えている知識や技能を身につけさせようとするなら「教師主導型授業」で、

正解のない問題に対する最適解を見出せるような力を身につけるためには、長期の「アクティブラーニング」で。

 

それぞれの良さが生きる場面で、上手く応用していけたらいいんじゃないかなと思う。