前回、睡魔に叶わず後ほど更新すると言っておりましたが、何日か経ってしまいました。
そうやら謎の睡魔は体調不良から来るサインだったようで、体調の回復に時間を要しました。あとはなかなか更新する時間が取れず、いつの間にやら日が経ってしまっていました。
今日からまた更新のスタートです。
ということで、書くということ。
先日卒業生一人ひとりに向けて手紙を書いていて気づいたことがあります。
「あれ?心で文を書こうとするとめちゃくちゃだ。」
内容が分からない、ということはないと思いますが、よく文章を書く時に言われる「~だ。~である。」の常体と「~でした。~ました。」の敬体がごちゃごちゃでした。また分の繋がりが不自然なところもちらほら。
伝えたいこと100%、心で文章を書こうとするとこうなるんだなと感じました。
逆にここできちんと体裁を整えて書こうとすれば、心の度合いが減り、頭で書く比率が増えます。心60%・頭40%といった具合でしょうか。
今回は手紙。多少体裁が整わなくても、心で伝える部分が前面に出ていてもいいのかなと思います。
その時、いろいろな場面での「書く」ということを考えさせられました。
まずは「ノート指導」
見やすいノート。模範的なノート。これってどうなんでしょう。
見栄えのするノートということは、思考をまとめながらも体裁も整えているということです。マルチタスク、かなり高度な業です。これができるというのであれば相当能力が高いと考えられます。しかし体裁ばかりにとらわれて、ちゃんと思考の整理ができていないケースも考えられます。
自分の思考の流れをまとめるはずのノート。ただノート提出などがあるので、体裁を整えなくてはならない部分もある。そのノートには本当に思考の流れが整理されているのか、学びがまとめられているのか、形だけになっていないか、という視点で見る必要があります。
そして「作文」
内容も体裁も最初から整えようとすれば大変です。かなりレベルが高い。そりゃ「何を書けばいいかわからない」となってしまうのが当然です。
よく低学年の子などはたくさん書いているのだけれど、何を伝えたいのかよく分からなくなってしまうケースがあります。しかしこの文章は心100%で書いた、自分なりに伝えたいことを世に生み出したものなのだと思います。この文章に赤を入れて「書き直し」をさせてしまいがちですが、子供はこの「書き直す」という作業が好きではありません。
この心100%で書いた魂のこもった文章。これはこれで素晴らしい作品です。ただ人に伝えるものにするためには体裁を整えなくてはならない、心の部分を少し削って、頭で考える文章にしなければならない。このことを子供もきちんと理解して、また「別の作品」として、ある程度体裁の整った文章にする。こうすることで納得して取り組めるのではないかと思います。また思ったことを思ったままに書き出してもいいんだという風になります。
今年振り返りジャーナルなどを読んでいて、誤字が気になりました。
しかし本には「誤字などは訂正しない」、とありました。
その理由が分かった気がします。
誤字に不安を抱いていたら、思ったことを素直に書く、ということができなくなってしまいます。それでは本来の意味が発揮されません。素直に書いているからこそ誤字に気づかない、そんなもんなのでしょう。
もちろん外部に出す文章は体裁を整えなくてはなりませんが、そうれなければ「まぁ、いっか」と思える心の余裕をもっておきたいです。
「書く」ことの妨げに、自分がなってしまわないように。