幸せの形
一人ひとり幸せには形がある。だからどれがいいものでどれが悪いものとは言い切れない。ただ今の日本で生き生きと幸せを感じ過ごしている、そういう人が多いようには思えない。金銭的・物質的に豊かになっている日本。明日の食に困るような、生き死にに直面するようなこともほとんどない。それなのになぜだろう。
色んな人と話したり本を読んだりするなかで、幸せにはある程度段階があるように感じる。そこから感じた今の私のとらえ方をまとめておきたいと思う。
やってもらう幸せ
生まれたとき、人は泣くことしかできない。世話をしてもらえなければ死んでしまう。生きるためには、誰かになにかをやって助けてもらうしかない。これは幸せというよりも安心感のようなイメージかもしれない。マズローの欲求階層説でいうと、土台となる生理的欲求や安全欲求が満たされている状態と言えるかも。特に乳幼児期、こうやっていろいろな人から愛情を受けているのとそうでないのとでは幸せの感じ方、心の満たされ方は違うと思う。
自分でできる幸せ
今まではやってもらっていたことを自分でできるようになる。新しいことに挑戦してできるようになっていく。できることが喜びであり幸せという段階に入っていく。特に小学生くらい。挑戦する→褒められる→自己肯定感・自己有能感が高まる→新たなことに挑戦する、と良いループが繰り返される。こうやってどんどん力を伸ばしていくことができる。もちろんその根底には安心できる土壌がある、つまり生理的欲求や安全欲求が満たされているというのが前提で。
人に施す幸せ。
より高次の段階はここだと思う。小学校高学年から中学生くらい。やってみてできずに挫折することも多い。それを繰り返す中で自分に自信をなくしていく。褒められるべきことを褒められると自信に繋がるが、大して褒められるべきことでもないことを褒められると、無理されているような気を遣わせているような感じがして、かえって自信をなくす。そうした不安な思いが「どうせ自分なんて…」という思いに繋がってしまうのではないか。こうして自己肯定感・自己有能感を感じられなくなった時、夢や目標をもって前向きに取り組むこともできなくなってしまうし、さらに自信を失うことを恐れて、夢や目標を抱くことさえ辞めてしまう。それが今の金銭的・物質的に豊かになっていても精神的な豊かさを見失っていることに繋がっているのではないかと思う。
ただそうした状況にあっても、誰かの役に立つということは心が満たされるものである。褒められるのではなく認められる。感謝される。自分にとっては大したことではなくても、相手にとってありがたいことになればそれは事実である。そういうことに喜びを見出していくようになると、自分できることよりも人の役に立つことの方が満足度が高いことがなんとなく分かってくる。
これまでは良い高校や良い大学に進学し卒業すればいい企業に就職でき、そうすれば一生安泰な幸せな人生が送れる、というようなロールモデルがあった。しかし今は完全に崩壊している。身の回りに幸せそうに生きている人が溢れていていいはずなのにそうではない。それは子供たちも感じている。だから「将来困るから勉強しなさい」なんてことを言っても心に響くはずがない。夢や目標をもたないようにし、これ以上自分を否定されるようなことがないようにしているのだから。「あなたの将来のために言っている」なんてことも心に届かない。将来のことを考えないようにしながら心の安定を保っているのだから。
なんのために勉強するのか。幸せになるためだと私は考えている。では幸せとはなにか。いつまでも、やってもらうことに幸せを感じているわけにはいかない。とはいっても他力本願な考えの人は多いし、その方が責任を転嫁できるのである意味楽。でも楽ではあっても、高次の、幸せを感じる段階には達することができないのではないかと思う。
次の自分でできる幸せの段階。ただ自分でできることに限界を感じたり自信をもてなくなっているのだから、小学生くらいまでは良いもののそれ以降はこの段階では心から幸せといえるかといったら疑問である。
その次の、人に施すことに幸せを感じる段階に達すれば、誰かも幸せを感じることができるし、役に立ったという事実から自分も幸せを感じることができる。そしてこの段階を意識すると、誰かの役に立つために勉強をするという視点が生まれてくる。勉強をしたことが自分の力を高めることにもつながり、そしてその高めた力によって誰かの役に立つこともできる。このことによって得られる幸福感は、他のことよりも大きいのではないかと思う。
こう考えれば誰でもがんばれる、勉強する、幸せになれる、というわけではないかもしれない。けれど今のところ、自分なりにはこれが最適解なのではないかと思う。