ようやく最終205話まで読み終えました。
なぜこんなにヒットしているのか、その魅力を考えてみたいと思います。
ストーリーはというと、
突然鬼に襲われた竈門(かまど)一家。
生き残ったものの鬼になってしまった妹の禰豆子(ねずこ)と、
彼女を人間に戻そうと鬼殺隊(きさつたい)という組織に入る主人公の炭治郎(たんじろう)。
結構序盤に出てくるラスボス、鬼舞辻無惨(きぶつじむざん)。
「なるほど、こいつを倒せばいいわけか」
と、結構分かりやすいストーリー。
作者が早めに完結させたいというのもあったのかもしれないけれど、
漫画においても、今は分かりやすいエピソードがウケるわけね!
読んでいて最初に感じたのが、
内なる心の、しかも直接的な描写が多いこと。
へこたれそうになったり、
自分で自分を鼓舞したり、
悟空やルフィなんかと比べると、最初はまぁ、弱い弱い。
仲間の善逸(ぜんいつ)なんて、もう。
ただストーリーが進んでいくにつれて、こうした描写が少なくなっていき、
そこから強くなっている様子、また精神的にも成長している様子が伝わってきます。
最初は強くなくてもいい。
素直に弱さを出せる。
ただ、そのままでいいとは思っておらず、克服したいと思っている。
そうした感情を肯定し代弁してくれているので、
読者にとっても感情移入しやすく、それが人気な理由の一つになっているのかな。
だからか、善逸みたいなキャラクターの方が人気度が高いようで。
また親目線で成長を微笑ましく見守っているというのもありそう。
過去のアニメやゲームがリメイクされているように、
親子二世代で楽しめる、というのは大きなポイントかな!
(これは販売戦略的なものもあるだろうけど)
ただ親世代がハマったドラゴンボールとかワンピースみたいに、
冒険とかの要素はあまり重視されていなくて、
海賊王を目指したり、つえー奴と戦ってワクワクしたり(そういえば、いつからドラゴンボールはバトル漫画になったんだ…)といった、
「より高みへ」という、従来の少年ジャンプ的な感じとはまた違う。
むしろこの漫画のテーマは「家族愛」「兄弟・姉妹愛」。
戦闘シーンはあまり重要ではなく、
いろんな技が出てくるけれど、正直あまり印象に残らない。
(ヒノカミ神楽、一つも覚えてない笑)
戦闘シーンそのものよりも、
死にかけた時の走馬灯が重要 笑
どうして鬼殺隊になったのか、
はたまた鬼になってしまったのか、
その過去には必ず「家族」や「兄弟・姉妹」などが関わっていて、
数々のキャラクターの中から、
「誰のエピソードが好きか」
が「鬼滅の刃」の大きな魅力に。
そう考えると、
主人公の炭治郎は良い奴過ぎて、
どんどん強くなってしまいすぎて…
最後はきっと炭治郎と禰豆子が無惨を倒すんだろうけど、
もうなんか正直それはどうでもよくなってしまって…笑
炭治郎、ごめんね。
ストーリーの後半になるにつれて、
鬼殺隊のトップ集団「柱」や、
無惨の部下集団「十二鬼月(じゅうにきづき)」の、
個々のエピソードの方がむしろメインに!
(アニメ版はここに入る前に終わってしまう。
ここからが面白いのに、続きは映画という。やりおるな。)
いろんな「家族愛」「兄弟・姉妹愛」のカタチを垣間見る。
共通しているのはすべて「大切な人を守りたい」という想い。
鬼は鬼で、元々は人間であり、
「認められたい」「なんとしてでも生き延びたい」という我欲が、
闇落ちするきっかけに。
ただこれは誰もが陥り得ることでもあるわけで。
ワンピースは基本的には敵でもぶっ飛ばすだけ。
「昨日の敵は今日の友」じゃないけど、
後のエピソードに登場し、サポートしてくれたりもする。
ドラゴンボールはたくさん死ぬけど、
神龍(シェンロン)が生き返らせてくれたり、
あの世が描かれるので、頭の上に輪っかがあるけど普通に出てくる 笑
しかし鬼滅の刃は、死ぬときは死ぬ。
仲間であってもバタバタと。
描写もなかなかだし、結構攻めてる。
「生と死」はタブー視されがち。
でもそうした切なさや儚さもまた魅力であり、
結構読者は求めているのかも。
自然災害の多発、今回の感染症の流行。
突然巨人や鬼に襲われるなど、
近頃の漫画は「諸行無常」を伝えているのかな、なんて。
話は変わって、そういえば最近の子供たち。
七夕やら正月の絵馬やらで夢や目標を書くと、
「家族みんなが健康で幸せに暮らせますように」
なんてのが多いです。
突飛なことを書くのは気が引けるから、当たり障りのないものを書いている、
というのもあるかもしれないけれど、
それにしても「家族」の比重が大きい。
それはそれで、もちろん良いことなのだけれど、
「こうしたい」「こうなりたい」という強い想いはあまり感じません。
(かくいう私もそうでしたが)
こうした想いは勉強したり努力したりするモチベーションになったりするのですが、
それがなければ、何がモチベーションになるのでしょうか。
なんらかの「鬼」によって、当たり前の日常が失われた時?
「出世したい、稼ぎたい、名を馳せたい」という人は世の中を回し、
「家族みんなが健康で幸せに暮らせますように」という人は、
金銭的にはさほど裕福でなくとも、家族仲睦まじく心豊かに生活する。
という社会もあり?
今回の特別定額給付金なんて、まさにベーシックインカムみたい。
一人当たり月〇万円が振り込まれ、その中で生活する。
それ以上の生活がしたい場合は、社会に出て稼ぐ。
そうなったら学校の意義は?
社会生活を営むための、基本的な学習は必要ですが、
みんながみんな、受験に向け根詰めて勉強をする必要はあるでしょうか。
残るのは、
基本的な生活習慣と最低限の「これから時代の読み書き算盤」を身につける、
保育機関の延長のような学校と、
「出世したい、稼ぎたい、名を馳せたい」という人向けの、
エリート養成のための学校?
今回の休校をきっかけに、
「家族で過ごす時間が長くなって良かった」
「今後も隔日の登校、一回3時間程度の登校で良い」
なんて声もちらほら聞きます。
しかし毎日お昼の準備をするのは大変だそうで、
給食を望む声は多いです。
ただベーシックインカムなどの制度が整備され、
親が仕事に出る必要がなくなれば、その問題も解消されます。
ママ友同士で交代で作ったりすれば、
毎回自分が作らなければならない、ということもありません。
こうやって地域コミュニティが徐々に復活していくのかも。
四六時中ずっと一緒だと苦しいという場合も、
こうした地域コミュニティがあれば、だいぶ負担感、閉塞感は薄まるでしょう。
極論のような気もするけれど、
財政にめどが立てば、ありっちゃあ、ありなような気もする。
おもしろおかしくやるんべぇ♪