読み書きこそ、って話。

 

今回読んだ本はこちら。

国語教育を救え

国語教育を救え

 

 

 書店で何となく気になったので購入して読んでみることに。

 

 

 

そこまで言わなくてもいいんじゃないかなーと思うくらい、

筆者は現状の国語教育を批判しています。

 

 

ただその中で、確かにと思うこともたくさんありました。

 

その一つが「発問」について。

 

最近の定番の授業は、授業の初めに課題やめあてを提示し、その時間に考えさせたいことを子どもたちに教師は問います。

ということは、「その問いから外れた読み方は認めない」ということを暗に意味にしていることになります。

 

一つの問いで一時間。一つの教材文を読み解くのに数時間かかります。

最初から読めている子にとっては退屈な時間でしかないし、その問いがぴんと来ない子にとっては、ずっとぴんと来ないままです。

よくある、「授業で扱った教材文のテストは解けるけれど他の文章で応用が利かない」、なんてことにもなってしまいます。

 

小学校だと担任が自分のクラスの国語を担当しますが(例外もあるかもしれませんが)、すべての教師が提示する発問が、洗練された優れたものであるとも限りません。

 

何よりも窮屈です。

同じ文章を読んでも、そこから感じること学ぶことは人それぞれです。

教師が想定している以上に深く読んでいる子もいます。

 

「誤読や読み落としも有るだろう。ほっておく。たくさん読めば、そのうち読めるようになってくる。わかってくる。大事なのは自力で読むことだ。」

 

という筆者の主張に「なるほど。確かに。」と思いました。

 

読んで、感想をシェアして、また読んで。

それだけでも十分読む力はつくのではないかなと思います。

そしてそれこそ「主体的対話的な深い学び」なのではないかと思います。

 

ただ、試験で点数を取るための読みとなると、ある程度テクニックが必要となってくるかもしれません。でもそれは本来の読みとは違うと思いますが…

 

 

 

また現行の教科書では表現することが重視されています。

自分の考えをもち、話し合う。

 

しかし自分なりの意見を主張できる子はあまり多くありません。

主張できたとしても思いつきのようなものが多く、その根拠を説明しだしたとたんに「あれれ?」

 

ではそうした力はどうやって高めていったらよいのでしょうか。

 

 

「書くこと」が、思考を整理するのに役立っていると考えます。

 

このご時世、パソコンで打ち込むのではなく書くなんて時代錯誤な気がします。

でもパソコンで文章をまとめるのって、見栄えは良いのですが、あまり思考が深まらない気がします。

 

私自身も、ブログを更新して後から読み返してみたら、「なんだこの思考がまとまっていない感は!?」と思うことが多々あります。

ここぞという場面で話すときなどは、いつも書いて思考を整理します。

また普段から気づいたことなどは手帳に書き込んでいます。

 

どうしても手元に書くものがない時はスマホにメモをしています。あとは思考がいらないとき。とにかく情報だけをメモして、あとで補足を加えながら手帳にまとめ直しています。

 

そうやって一度書いて整理することをしているから、こうしてパソコンでも文章にできている気がします。なんともアナログ人間(^^)

 

とはいえいきなり子どもが書いて思考を整理できるかと言えば、難しいところがあります。

 

そこで、まずは、「視写」

 

書くことに慣れるところからスタートします。

思えば自分が小学生の頃は視写をよくした気がしますが、今はそれをやっている時間がほとんどありません。

視写をしているだけでも、自然と書き方に慣れていきます。こうした素地があるから作文ができるようになっていき、やがて文章にまとめることを通して自分の思考を整理し、更には自分の意見をもち伝えられるようになっていくのではないかと思います。

 

そのための過程が随分と削られてしまっているように感じます。

 

ということで、隙間の時間に視写を取り入れるようにしてみました。

そうしたら、変化が凄い。

 

まず書くスピードが上がります。一文字一文字書くのではなく、ある程度の言葉のまとまりとして捉えられるようになっていくからです。また自然と既習の漢字練習にもなりますし、新たな語彙を獲得することもできます。

 

ただのやらされでやっていれば苦痛でしかないかもしれません、でもその意図を意識しながらやってみると実は奥深く、「終わったー」というただの解放感ではない達成感もあります。お手本を作りながら感じました。

恐るべし、視写。

 

ということで、圧倒的な量を読むことと書くことが、すべての基本なのではないかと、今更気づかされたわけです。

平成も終わろうとしている今、江戸時代に戻りました笑

 

 

今は、あらゆるもののさわりの部分がカリキュラムとして詰め込まれていますが、いまいちそれらが実生活に生かされている感じがしません。

それなのに「読み書きそろばん」という基礎の基礎をやっていた寺子屋を出た人たちの方が、そこを出た後もずっと自ら学び続けているし、やがては大きく時代を変えていきました。

この違いは何なんでしょう。

 

大事なのは内容ではなく、自ら学ぼうとする姿勢なのではないかと思います。

自分の興味のあることであれば、誰が何と言わなくとも勝手に学んでいくはずです。

勉強がもう勉強ではなく、趣味や遊びの感覚になっていく。そこを目指したいものです。

 

 

 

少し話は変わりますが、

活動として学び合っているときはテンションが上がりますが、『学び合い』は意外と静かです。

最初は「分からない人ー」とか言って歩き回るのですが、分かってもらおうとしても上手くいきません。どれだけ教えようが、結局はその子自身が分かろうとしてやるしかないということに気づいていきます。そしてその時、一人ひとりが自分のやるべきことをやっていることが、個人にとっても集団にとっても一番力になることをだんだんと分かっていきます。その集団にいたら自然とやる気が出てしまう、そんな感じです。なのでかかわりも最小限の程よい加減に落ち着いていきます。

結果として一人ひとりがそれぞれ読み書きをしている時間が多くなります。読み書きをしているとき、子どもたちはとても穏やかです。

 

没頭。無我夢中。

 

 

漢字練習。計算練習。読書。作文。

絵を描く。塗り絵をする。工作をする。

 

そういえば「視写って凄い」と言いましたが、今、写経とかも注目されてますよね。

 

こういう超集中状態を、勉強を通じて経験する。

その時勉強をしているという感覚はないかもしれません。

ただ目の前のやることをやっていたら、時間があっという間に経っていて、もの凄い力を発揮していたり新たなひらめきがあったり。

 

いつの間にかゼロポイントフィールド?サムシンググレート?宇宙?天?に繋がっている。

 

これこそが勉強することの真の目的?

そしてその第一歩が、読むことと書くことなのか?

 

国語教育って奥が深すぎるー

でもおもしれー(^^)

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪