おもしろおかしくやるんべぇ~ゆとり世代も悪かねぇ~

THEゆとり世代。さとり世代とも言われる世代「ふたば」の見方や考え方、そして日々の学びをまとめたブログ。

巡り巡った現在地、の話。

 

仕事に慣れるためにもがいた、社会人1年目。

 

日々疲れ果て、休日は本当に休日。

平日に向けての気力を養い、再び仕事へ。そんな日々でした。

 

 

途中から仕事にもだんだんと慣れてきて、

お誘いもあり、ゴルフやボードなど、趣味に費やす時間を持てるようになっていきました。

 

そうすると今度は、土日だけでは物足りない。

平日の仕事後も時間をうまく活用するようになりました。

 

 

かといって仕事を疎かには、全くしていません。

仕事は仕事、プライベートはプライベート。それぞれが充実する道を探していきました。

 

 

どんどんと世界が広がっていき、

いろんな場所へ行き、いろんなイベントに参加し、いろんな人とのつながりを得ました。

今度は、どうしても時間が足りなくなっていきます。

 

なので、力と時間を注ぐものを絞っていくようになりました。

 

 

 

そうして、ただ目の前のやるべきことに全力で取り組むようにしていたら、

 

 

 

巡り巡って、今は仕事が一番楽しい(^^)

 

 

 

 

働き方改革とは真逆の方向かもしれません。

 

 

でも本来は、仕事って時間も疲れも忘れて取り組める、楽しいものなのではないかと思います。

自分に裁量の余地が無く、やらされであったりすると、だんだんと苦痛になってしまうだけ。

 

 

仕事をしたい人からしたら、制限をかけられるのは苦痛だろうなぁ。

 

 

人それぞれ考え方は違うし、置かれている状況も違うのだから、

一律に決めるのではなく、それぞれのできる範囲で働くことを互いに認め合えることが大切なんじゃないかなー。

 

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

緩和ケアの話。意外な意外なつながり。

 

以前、まごころ塾に参加した際、

緩和ケア医の萬田先生のお話を聞きました。

 

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その話が、以前読んだこの本の内容にも似ていました。

 

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そこで今回、

萬田先生の本を読んでみました。 

 

穏やかな死に医療はいらない (朝日新書)

穏やかな死に医療はいらない (朝日新書)

 

 

 

当たり前だけれど、「食べる」っていう行為はとても大切なんだと思いました。

自分で食べ物を手に取って口に運び、咀嚼する。飲み込む。

それだけでも結構な動作が必要です。

 

 

点滴や胃ろう。

寝たまま、全く動かなくてもできます。

 

でも、動くことがほとんどなくなってしまうので筋肉が衰え、どんどん動けなくなってしまい、遂には寝たきり。点滴や胃ろうが外せなくなってしまう。

 

動かないので体がどんどん衰えていき、過剰な水分を排出することもできなくなっていくのでしょう。

入院している方の体がパンパンに膨れ上がってしまうというのは、こうしたことが繋がっているのだと、初めて知りました。

 

動物である以上、やっぱ動いてなんぼなんですね。

 

 

 

 

少しずつ動けなくなっていき、

徐々に徐々に、枯れていきながら死んでいく。

これが苦痛が少なく、自然に近い死に方なのだそうです。

 

 

 

 

ん?

 

どこかで聞いた話に似ているような…

 

 

 

 

今ある多くの野菜は、

放置しておくとぐじゅぐじゅになって組織が崩壊したりカビが生えたりするそうです。

 

なぜかというと肥料をいっぱい与えているから。

 

 

自然栽培に近い形で育てた野菜は、放置しておくと水分が抜けてしぼんでいくそうです。

 

 

 

人体も野菜も同じだ。

 

 

 

良かれ良かれと思っても、必要以上のものを与えてしまうのは結果的に良くないのでしょうね。

 

 

 

ハングリーなくらいがちょうどいい。

それでこそ、吸収しようという意欲につながるのでは。

医療や野菜に限らず、何事においても…

 

 

 

 

 

 

どんな人生を歩むか。

 

今は選択肢がたくさんあります。

 

しかし選択肢が多すぎて、逆に生き方の迷子になっているような気がします。

 

 

 

そうするとどうしても、他人のことが気になります。

 

 

他人を自分の写し鏡だと思って、自分をより良くするために生かすのなら良いのだけれど、

 

 

 

多くは自分と他人を比較して、

 

 

自分を卑下したり、

 

自分が優位に立つために他人を蹴落としたり、

 

必要以上に実力以上に自分を飾ったり…

 

 

 

人間関係で上手くいかないのも、

心病んでしまうのも、

こうしたことが関係しているように思います。

 

 

自分の軸をもって生きていれば、そう迷子にはならないのでしょうが、

なかなか軸をもつのも大変です。

 

 

そこで発想の転換

 

どう生きるかではなく、どう死にたいかを考えれば、大切にしたい価値観や今後の生き方がおのずと見えてくるのではないか、というのが最近の私の考えでした。

 

 

 

 

ちょうどそんな時、緩和ケアや萬田先生のことを知ります。

 

 

タイミングが良すぎる(^^)

 

与えられるべくして、きっかけが与えられているようにしか思えません。

 

 

思い通りにいくとは限らないけれど、自分なりの死生観をもつことって大切なんじゃないかと思います。

また緩和ケアという選択肢があるということを知っているだけでも違うような気がします。

 

 

 

とりあえず、「死」をテーマに考えるのは、ここで一区切りかな。

 

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

「プペル展inぐんま」が終わって思うこと

 

かつて、「幸せ」とは何かを考えて、こんな記事を書いていたようです、私。

 

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その中で3つの「幸せ」についてまとめました。

 

それは、

・やってもらう幸せ

・自分でできる幸せ

・人に施す幸せ

 

です。

後者になるほど、より上位の「幸せ」だと考えていました。

 

 

 

しかし、今回のプペル展を通して少し考え方が変わりました。

 

 

 

 

目標の1万人には届きませんでしたが、それでも16日間で8000人を超える来場者。

展示物自体はプロの作品ですが、イベントの運営はほぼ素人のボランティアです。

そうしたイベントにこれだけの人が集まったというのは衝撃的です。

 

 

西野さんはどこかの本で、

「イベントのお土産として絵本が売れる」

的なことを言っていました。

 

今回のイベントを通し、その様子を目の当たりにしました。

 

えんとつ町のプペル」の絵本なんて、書店で探せば見つかるはずです。

でも書店ではなく、ネットでもなく、イベントの会場で買うというのは、

そこでの体験や思い出に価値を置いているからなんですね。

 

買ってもらった子どもも、買ってあげたお父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃんも満足そうでした。

帰って絵本を読んだときに、「プペル展」に行った日のことも思い起こされるのでしょう。

 

ボランティアスタッフとしてこういう場面を見ることができ、とても幸せです。

 

 

本の販売などお金に関わる部分に関してはちょっとごめんなさいをして、駐車場の係をしていたのですが、帰りがけのお客さんの中に、

「良かったよ。ありがとう。」

「暑い中大変でしょう。」

と声をかけてくださる方もいました。それもまた幸せなことです。

 

 

 でも一番は、「なぜ推すのか」をまとめた記事にも書いた通り、

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共に創り上げた(と勝手に思っている)仲間の存在ですね。

 

主催者の千恵さんをはじめ、各地からボランティアが集まりました。

みんな職業は全然違います。

大工さんは見事なパネルを作り上げるし、普段お金に関わっている人はめっちゃ数えるの速いし。

それぞれの良さが随所で生かされていたように思います。

 

 

その時ふと、最初に書いたことを思い出しました。

 

 

私は、私にできる駐車場の係をしただけ。

それでお客さんに「ありがとう」と言ってもらえる。

そして自分にできないことは、仲間がやってくれている。

 

 

つまり、3つの「幸せ」を同時にすべて満たしていたんです。

 

どれが上位か、という話ではなくて、

この3つに当てはまるような「幸せ」にどれだけ気づくことができたか、なんです。

 

人に何かをやってもらって当たり前だと思っているときには、「幸せ」の分類が「やってもらう幸せ」しかありません。だから「幸せ」だと感じる機会はあまり多くありません。

そもそも、やってもらって当たり前だと思っている時点で、「ありがたい」ことに気づかず、「幸せ」を感じることもないかもしれませんが。

 

 

こうやってイベントを開催する側、何かを提供する側になると、今まで当たり前だと思っていたことが当たり前ではなく、ありがたいことだということに気づきやすくなります。結果として「幸せ」を感じる機会が増えていきます。

 

もちろん大変なこともあります。でもそれがあるからこそ、強く「幸せ」を感じられます。それを共有できる仲間もいます。みんなで激辛の何かを食べて、ヒーヒー言いながらも楽しく盛り上がっている、そんな感じですかね。

 

 

 

西野さん関連をはじめ、今、自分で参加費を払って、イベントのスタッフの権利を買うなんてのが増えています。スタッフをやるのに賃金が支払われるどころかマイナスです。でも喜んでやっているんです。

 

それは、モノやサービスを与えてもらう、受けることよりも、与えることによって発生する幸福感にハマってしまって、そこに価値を見出しているからだと思います。働くというより、趣味の一環、遊んでいる感覚です。協働することにより人脈も広がりますし、繋がりも深くなります。イベントをやる側の方が得るものが多すぎるし大きすぎる。

 

 

 

以前は、「行事より授業で勝負」と思っていました。

でもやっぱり人は行事やイベントを求めているんですよね。

 

これだけの来場者数がそれを示しています。

今後もイベント産業やレジャー産業は伸びていくことでしょう。

 

では今の子どもたちは、苦労を買ってでもし、それ以上に自分たちがワクワクするようなイベントを開催して、人を喜ばせることができるでしょうか。そういうことをしようと思うでしょうか。

 

 

昔は、本来おもちゃではない木の枝や石などの自然物を、自分でおもちゃにして遊んでいたはずです。しかし今は、おもちゃで遊んでいるようで、誰かが作ったおもちゃに「遊ばされて」いるだけのように見えます。しかしその状況を子どもたちは「遊んでいる」と思っているのだとしたら…

「楽しい時を作る」のは、「バ〇ダイ」ではなく子どもであってほしいものです。

 

こうした遊び方で育っている子どもたち。

業務改善の影響を受けて、どんどん行事が削られてしまったら、楽しみや喜びを創り上げる体験をどこでするのでしょう。

もちろん過去のものを踏襲しただけの、何のためにやっているのか分からないような行事なら見直すべきです。しかし全く無しにしてしまうのも考えものです。

 

慣れていないのだから、上手くいかないのは当たり前。でもやらなきゃ上手くはなりません。

授業を蔑ろにするわけでもなく、授業を通して培った力を、行事に生かして発揮する。

そうやって自らの心に響き、相手の心にも響くような体験を通した学び、遊びを学校でしていきたいと思うのでありました。

 

 

本当にAIやロボットに今ある仕事の多くがとって変わられるとしたら、仕事をしたくてもできなくなります。

なら遊ぶしかありません。

本気で遊べる人が価値を持つようになってくるのかなー

学校で遊び方を教わるようになるときも来るのだろうか笑

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

本学と末学の話

 

学問には「本学」と「末学」がある。

 

「本学」とは、「人間としての在り方」を考えたり学んだりすること。

昔の寺子屋では、「四書五経」などを通してこれを学んでいた。

 

「特別な教科 道徳」「キャリア教育」

そこに求められるものは大きいなぁ。

 

 

平安末期から江戸時代まで約1000年読まれた「実語教」もあとで読んでみたいと思います!

 

 

 

「末学」とは、「本学」に加える、知識や技能などのこと。

読み書き算盤は、末学。

「外国語」「プログラミング」

 

 

 

「本学」という幹が太くてこそ、「末学」という枝葉を広げることができる。

 

 

でも細っちい幹しかないのに、むやみやたらに枝葉を広げようとしていないか。

 

まさに、

 

 

本末転倒 

 

 

 

 

おもしろおかし…

 

くなんて、言ってられんわ!

 

 

もっと本質に目を向けた方がいい(^^)

トップランナーは突っ走れ!

 

年度末です。

あと少しで今の学年が終わります。

 

卒業式の練習以外は、結構時間にゆとりがあります。

その時間を活用して、復習三昧。

理解している子は、教えることに徹しています。

 

 

しかし、あれあれ?

 

 

私の経験上ですが、これはあんまり上手くいかないようです…

 

 

手厚く支援してあげようとすればするほど、自分から分かるように、できるようになろうと努力しなくなってしまいます。

教える側としては必死に教えてあげているのに、教わる側には響いていない…

 

そのうち、どちらもだれてきます。

 

 

たくさん復習をすれば良さそうなのに、あまり成果に繋がらない。

しかも学習に向かう意欲が低下してくる。

そういう例は結構あるのではないかと思います。

 

 

 

考えてみれば、トップランナーの子たちには、復習の時間など必要ありません。

彼らが走るスピードを緩めてしまうと、クラス全体が学習に向かう雰囲気にもブレーキがかかってしまいます。

トップランナーはどこまでも突っ走ってくれた方が、クラス全体にとっては良いようです。

 

 

 

例えば100マス計算。

 

1問でも間違いを少なく。1秒でも速く。

こうやって自分の目標を立てて取り組めるようなものであれば、トップランナーも突っ走れます。なので取り組んでいるときの様子も良い感じでした。

 

 

 

かけ算の復習をしているある時、

「かけ算をしっかり身につけておくと、3年生でやるわり算の時にいいよ。」というような話をしました。

 

すると翌日、ある子が自主学習としてわり算をやってきました。

 

みんなに紹介してみると、「やってみたい!」という声が。

 

まずは、□×5=20みたいな問題に挑戦しました。

思っていた以上によくできていたので、わり算にも挑戦してみました。

 

なんと。わり算も良くできていました。

かけ算九九の復習がもっと必要かな、と思っていた子も、教えてもらいながら良くできていました。

こういう学習もまた、トップランナーが突っ走れました。だからクラス全体が学びに向かう雰囲気になったのだと思います。

 

復習をするのではなく、いつの間にか復習になっている学習を。

そしてトップランナーが立ち止まってしまわないこと。

 

これを意識しておくことが大切だと思いました。

 

 

 

 

 

またある子が、

「先生。どうしてこんなに卒業式の練習をしなきゃいけないの?」

と聞いてきました。

 

 

あはは(^^)

 

 

日頃から姿勢が良く、しっかりと声を出せるような子にとって、

何時間も練習する意味が分からないのでしょうね、そりゃそうだ。

 

最初は、卒業式のような場を得意とするトップランナーが、自らの行動によって全体を引き上げてくれました。

全体のレベルが引きあげられてくると同時に、トップランナーの子たちが突っ走る必要が無くなりました。今この段階。このまま停滞が続けば、確実に質が落ちますね。

 

どれも一緒なのだなぁと感じました。

 

 

 

それで、思ったこと。

 

トップランナーの子たちは目の前のことに全力で取り組んでいます。それにストップをかけられる学期末や学年末。彼らはどう感じているのでしょう。

教師はどうしても1年という期間で物事を見がちです。

でもそれを別に求めていない子も結構います。

そしてそういう子が意外とクラス全体の雰囲気を握るキーパーソンとなっていたりします。

 

お楽しみ会とかもやっていたのですが、意外とトップランナータイプの子ほど、そこまでやりたいという感じではないようです。

 

トップランナーはとにかく目の前のことに集中して突っ走る。

その姿を見て、中間層の子に火がつく。

この中間層の子が、教えてあげることが上手だったり、お楽しみ会のようなイベントを盛り上げてくれたりします。

クラスの8割が、集中して何かに取り組みだせば、クラス全体が良い方向に動きます。

そんな感じかなぁ。

 

 

なので今年は最後の最後まで突っ走ろうと思います。

学習のスピードを緩めません。

 

 

 

「あ。今日で今年度終わりか。じゃあまた4月ね。いるか分からないけど。」

 

 

これくらいでも別にいいんじゃないかなって、最近は思います(^^)

 

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

私がなぜ「えんとつ町のプペル光る絵展」を推すのか、の話。

 

いよいよあさって16日(土)より、

えんとつ町のプペル光る絵展in群馬」が開催されます!!

 

 詳しくは以下のページへ。

poupellegunma.strikingly.com

 

 

なぜ私がこのイベントを推すのか、紹介したいと思います。

 

 
1.絵が綺麗

 

キングコングの西野さんにこんな才能があったなんて知りませんでした。(まぁ、すべて西野さんというわけではありませんが、その辺りは2で詳しく述べます。)

 

一度絵本を読んだことのある方ならわかると思いますが、とにかく絵が綺麗です。

その絵が後ろから照らされて、真っ暗な会場の中で光るんです。想像しただけでもわくわくします。

一目見た瞬間に、来た子どもたちがどんな反応をするか。それもわくわくします(^^)

 

 

 

2.絵本の作り方が凄い

 

多くの絵本は、普通一人の作家さんが作ります。

発行部数的に、そうしないと利益を得られないからです。

 

しかしこの「えんとつ町のプペル」は、分業で作られています。

 

なぜそれができるかというと、クラウドファンディングで先に制作費用を集めているからです。もちろんその費用が集まるのは、西野さんのネームバリューが大きいと思います。しかしこうした普通とは違う作り方を考えられるというのは魅力です。

 

 

新しいことに挑戦しようとしても、「どうせ無理」と言われてしまったり、

何かをやりたくてもお金が足りなくて諦めざるを得なかったり。

 

でも本気で実現したいと思えば、やり方はいくらでも考えられる。

そのことを、この「えんとつ町のプペル」のヒットによって教えてもらいました。

 

 

 

3.ストーリーが素敵
 

 

絵本に登場するルビッチは、自分の信じていることを他者に否定されます。

ストーリーを通して、上記の2で述べたようなことを物語っています。

詳しくはHPから!全編が無料で公開されています。

poupellegunma.strikingly.com

 

 

 

4.主催者の想いが凄い

 

私が推す理由は、これが一番かもしれません。

 

主催者の中島さん。

本業は本業で大変なのにも関わらず、「プペル展をやりたい」という願いでこのイベントを立ち上げました。

特に子どもたちに来てもらいたいという想いが強く、中学生以下は入場料無料です。

大人の参加費についても、イベントの開催にかかった費用を賄える分しかとらず、利益はいっさい度外視です。

(営利目的ではないので、教育委員会も後援についています。でなきゃ私もこうして応援できません…)

 

こうした熱い志を持つ人の周りには、同じように熱い志を持つ人が集まります。

チラシやポスターを配るのもすべてボランティア。みんな楽しんでやっています。苦労も多いだろうに、みんなそれを見せません。

 

そうした姿にもまた心打たれ、私もでき得る限りの応援をしたいと思うのでした(^^)

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

これからの日本、これからの教育

 

昨日は地元高崎のたまごホールにて開催された、とある講演会に参加しました。

 

講師は元文科省寺脇研さんと前川喜平さん。

 

ゆとり世代の私にとって、お二人の話は興味ありあり。

こんな凄い講演会が高崎で開催されちゃうんてすね。しかも、しれっと。

 

 

 

 

話の中で心に残ったこと。

 

それは今、

 

子ども1人に対し、大人は7人いるということ。

 

 

これを年金や介護のこととかで考えると、少ない働き手で多くの高齢者を支えなければならないことが明らかになってくるから絶望的…

 

でも教育で考えてみると、希望ばかり。

これほど子どもに対して手厚く支援できる状況なんて、これまでの日本にはなかったのだから。

 

「子どもがこんなに少ないのに、どうして大人が守ってやれなかったのか」

心にグサッときますが、でもそれも事実。受け止め繰り返さぬよう前に進まなくては。

 

 

AIやロボットを駆使するなどし、少ない労働力でも維持できる新たな社会を形成する。

そのための素地を形成したり、そのための力をこれからの子たちが高められるような環境を整備したり。今の大人はそこに注力せねば。

結局は、自分の老後にも関わってくるわけですから(^^)

 

 

もう一つは、

 

教師だけで教育ができると思うな

 

随分上からだなって感じですが、まぁそれはいいです。それもまた事実ですから。

 

 

公立の小中学校は、郡市、地域のもの。

昔は地域の人が、自発的に校庭の手入れとかを手伝ってくれていたと思います。

勤務校でも、大雪が降ったときに除雪を手伝ってくれた方がいました。ありがたや。

 

学校や子どもは地域の宝。この感覚が普通だったと思います。

 

いつから学校と地域との距離がこんなに遠くなってしまったのでしょう。

 

防犯上の問題もありますが、不審者に入り込む余地を与えている時点でもう問題なのでは。

日頃から地域の方が入っていて顔見知りになっていれば、普段いない方がその場にいれば分かるはずです。そしてそういう関係ができている場には入り込みづらいと思います。

 

隣の家の人と話すこともないくらいですから、お互いの無関心さがこういう状況を生んでしまったのかもしれませんね。

 

 

日本語を話せない外国籍の子が増えます。

特別な支援を要する子が増えます。

でも本来は、一人ひとりみんな違うわけですから、40人なら40通りの特別な支援が必要なはずです。

 

経済の縮小で税収が落ち込みます。

税収が落ち込めば、教育にかけられる予算が減ります。

そんな状況で一人ひとりにあわせた特別な支援なんてほぼ不可能です。

 

子ども同士で支え合うことにも、限度があると思います。

多様になればなるほど対応しきれない。

どこかで自己犠牲がつきものになってしまいます。

 

「多様な人と折り合いをつける」

同年代の子たちだけでなく、幅広い世代の人と折り合いをつけられたほうが、きっと「得」だと思います。

 

ただ見守る側の大人の間に、なんでもやってあげるのではなく、あくまで子どもがやろうとしていることの支援に徹する、なんて共通の理解が必要となるでしょうが。

 

 

学級単位、学校単位の『学び合い』の限界。子どもと教師との間で行われる教育の限界。

 

地域単位の『学び合い』へ。

その必要性は年々高まっていると思います。

急にやろうと思ってできることではありません。

少しずつでも、できることから始めなければ。

 

 

 

 

「昔は良かった…」

「これからの子は大変だよね…」

「これだから、ゆとりは…」

 

聞きたくもないことを聞かされ、

自分で選んだわけでもないのにゆとりゆとりと揶揄され…

 

大人世代に、世の中に、イライラしていた時もありました。

 

 

でもそのゆとりの中で、あれこれ考える時間を持てました。

大人の言う当たり前を当たり前とみるのではなく、疑ってかかりました。

考えれば考えるほど泥沼にはまっていき苦しい時期もありましたが、そういう時期があったことのありがたさを、今では感じます。

ずっと詰め込まれていたらあれこれ考える余裕はなかったし、どこかで限界が来ていたかもしれません。

 

ゆとり教育に関していろいろな意見があると思いますが、今の私があるのはゆとり教育のおかげです。

批判にも耐え、進めてくださりありがとうございました。

今度は私が日本を変えていきます。群馬から。教育を通して。

 

 

そんなことを講演会後に話しました。

 

寺脇さんと。

 

しかもマンツーマンで。

 

宣言してしまった。

 

 

やば。

 

 

 

前川さんは少し早めに帰られたのでお話しできず。残念。

 

 

今回の講演会を主宰である、RnSIさん。

 

www.rnsi.work

 

代表の伊藤さんも、

「このままでは日本がもたない。ここ群馬から変えていく。このままじゃ死んでも死にきれん。」

というもの凄く熱い志をもった方です。

上野村で活動されているということで、今度お邪魔してじっくりお話を聞いてみたいなぁ。

 

 

いやぁ、

まさかこんなことになるとは。

こんな出逢いがあるとは。

 

何が起こるかわかりませんね。

最近少し出不精でしたが、新たな環境に身を置いてみることを辞めてはいけないなと感じました。

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪