おもしろおかしくやるんべぇ~ゆとり世代も悪かねぇ~

THEゆとり世代。さとり世代とも言われる世代「ふたば」の見方や考え方、そして日々の学びをまとめたブログ。

私がなぜ「えんとつ町のプペル光る絵展」を推すのか、の話。

 

いよいよあさって16日(土)より、

えんとつ町のプペル光る絵展in群馬」が開催されます!!

 

 詳しくは以下のページへ。

poupellegunma.strikingly.com

 

 

なぜ私がこのイベントを推すのか、紹介したいと思います。

 

 
1.絵が綺麗

 

キングコングの西野さんにこんな才能があったなんて知りませんでした。(まぁ、すべて西野さんというわけではありませんが、その辺りは2で詳しく述べます。)

 

一度絵本を読んだことのある方ならわかると思いますが、とにかく絵が綺麗です。

その絵が後ろから照らされて、真っ暗な会場の中で光るんです。想像しただけでもわくわくします。

一目見た瞬間に、来た子どもたちがどんな反応をするか。それもわくわくします(^^)

 

 

 

2.絵本の作り方が凄い

 

多くの絵本は、普通一人の作家さんが作ります。

発行部数的に、そうしないと利益を得られないからです。

 

しかしこの「えんとつ町のプペル」は、分業で作られています。

 

なぜそれができるかというと、クラウドファンディングで先に制作費用を集めているからです。もちろんその費用が集まるのは、西野さんのネームバリューが大きいと思います。しかしこうした普通とは違う作り方を考えられるというのは魅力です。

 

 

新しいことに挑戦しようとしても、「どうせ無理」と言われてしまったり、

何かをやりたくてもお金が足りなくて諦めざるを得なかったり。

 

でも本気で実現したいと思えば、やり方はいくらでも考えられる。

そのことを、この「えんとつ町のプペル」のヒットによって教えてもらいました。

 

 

 

3.ストーリーが素敵
 

 

絵本に登場するルビッチは、自分の信じていることを他者に否定されます。

ストーリーを通して、上記の2で述べたようなことを物語っています。

詳しくはHPから!全編が無料で公開されています。

poupellegunma.strikingly.com

 

 

 

4.主催者の想いが凄い

 

私が推す理由は、これが一番かもしれません。

 

主催者の中島さん。

本業は本業で大変なのにも関わらず、「プペル展をやりたい」という願いでこのイベントを立ち上げました。

特に子どもたちに来てもらいたいという想いが強く、中学生以下は入場料無料です。

大人の参加費についても、イベントの開催にかかった費用を賄える分しかとらず、利益はいっさい度外視です。

(営利目的ではないので、教育委員会も後援についています。でなきゃ私もこうして応援できません…)

 

こうした熱い志を持つ人の周りには、同じように熱い志を持つ人が集まります。

チラシやポスターを配るのもすべてボランティア。みんな楽しんでやっています。苦労も多いだろうに、みんなそれを見せません。

 

そうした姿にもまた心打たれ、私もでき得る限りの応援をしたいと思うのでした(^^)

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

これからの日本、これからの教育

 

昨日は地元高崎のたまごホールにて開催された、とある講演会に参加しました。

 

講師は元文科省寺脇研さんと前川喜平さん。

 

ゆとり世代の私にとって、お二人の話は興味ありあり。

こんな凄い講演会が高崎で開催されちゃうんてすね。しかも、しれっと。

 

 

 

 

話の中で心に残ったこと。

 

それは今、

 

子ども1人に対し、大人は7人いるということ。

 

 

これを年金や介護のこととかで考えると、少ない働き手で多くの高齢者を支えなければならないことが明らかになってくるから絶望的…

 

でも教育で考えてみると、希望ばかり。

これほど子どもに対して手厚く支援できる状況なんて、これまでの日本にはなかったのだから。

 

「子どもがこんなに少ないのに、どうして大人が守ってやれなかったのか」

心にグサッときますが、でもそれも事実。受け止め繰り返さぬよう前に進まなくては。

 

 

AIやロボットを駆使するなどし、少ない労働力でも維持できる新たな社会を形成する。

そのための素地を形成したり、そのための力をこれからの子たちが高められるような環境を整備したり。今の大人はそこに注力せねば。

結局は、自分の老後にも関わってくるわけですから(^^)

 

 

もう一つは、

 

教師だけで教育ができると思うな

 

随分上からだなって感じですが、まぁそれはいいです。それもまた事実ですから。

 

 

公立の小中学校は、郡市、地域のもの。

昔は地域の人が、自発的に校庭の手入れとかを手伝ってくれていたと思います。

勤務校でも、大雪が降ったときに除雪を手伝ってくれた方がいました。ありがたや。

 

学校や子どもは地域の宝。この感覚が普通だったと思います。

 

いつから学校と地域との距離がこんなに遠くなってしまったのでしょう。

 

防犯上の問題もありますが、不審者に入り込む余地を与えている時点でもう問題なのでは。

日頃から地域の方が入っていて顔見知りになっていれば、普段いない方がその場にいれば分かるはずです。そしてそういう関係ができている場には入り込みづらいと思います。

 

隣の家の人と話すこともないくらいですから、お互いの無関心さがこういう状況を生んでしまったのかもしれませんね。

 

 

日本語を話せない外国籍の子が増えます。

特別な支援を要する子が増えます。

でも本来は、一人ひとりみんな違うわけですから、40人なら40通りの特別な支援が必要なはずです。

 

経済の縮小で税収が落ち込みます。

税収が落ち込めば、教育にかけられる予算が減ります。

そんな状況で一人ひとりにあわせた特別な支援なんてほぼ不可能です。

 

子ども同士で支え合うことにも、限度があると思います。

多様になればなるほど対応しきれない。

どこかで自己犠牲がつきものになってしまいます。

 

「多様な人と折り合いをつける」

同年代の子たちだけでなく、幅広い世代の人と折り合いをつけられたほうが、きっと「得」だと思います。

 

ただ見守る側の大人の間に、なんでもやってあげるのではなく、あくまで子どもがやろうとしていることの支援に徹する、なんて共通の理解が必要となるでしょうが。

 

 

学級単位、学校単位の『学び合い』の限界。子どもと教師との間で行われる教育の限界。

 

地域単位の『学び合い』へ。

その必要性は年々高まっていると思います。

急にやろうと思ってできることではありません。

少しずつでも、できることから始めなければ。

 

 

 

 

「昔は良かった…」

「これからの子は大変だよね…」

「これだから、ゆとりは…」

 

聞きたくもないことを聞かされ、

自分で選んだわけでもないのにゆとりゆとりと揶揄され…

 

大人世代に、世の中に、イライラしていた時もありました。

 

 

でもそのゆとりの中で、あれこれ考える時間を持てました。

大人の言う当たり前を当たり前とみるのではなく、疑ってかかりました。

考えれば考えるほど泥沼にはまっていき苦しい時期もありましたが、そういう時期があったことのありがたさを、今では感じます。

ずっと詰め込まれていたらあれこれ考える余裕はなかったし、どこかで限界が来ていたかもしれません。

 

ゆとり教育に関していろいろな意見があると思いますが、今の私があるのはゆとり教育のおかげです。

批判にも耐え、進めてくださりありがとうございました。

今度は私が日本を変えていきます。群馬から。教育を通して。

 

 

そんなことを講演会後に話しました。

 

寺脇さんと。

 

しかもマンツーマンで。

 

宣言してしまった。

 

 

やば。

 

 

 

前川さんは少し早めに帰られたのでお話しできず。残念。

 

 

今回の講演会を主宰である、RnSIさん。

 

www.rnsi.work

 

代表の伊藤さんも、

「このままでは日本がもたない。ここ群馬から変えていく。このままじゃ死んでも死にきれん。」

というもの凄く熱い志をもった方です。

上野村で活動されているということで、今度お邪魔してじっくりお話を聞いてみたいなぁ。

 

 

いやぁ、

まさかこんなことになるとは。

こんな出逢いがあるとは。

 

何が起こるかわかりませんね。

最近少し出不精でしたが、新たな環境に身を置いてみることを辞めてはいけないなと感じました。

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

新たな読書のスタート、の話。

 

戦後、西洋に倣って経済発展を成し遂げ、物質的・金銭的な豊かさを得ました。

 

それで「幸せになったか」と考えると、うーん。

 

衣食住に困ることなく生活できるようになったことは、間違いなく素晴らしいことです。大病を患ったり事故に巻き込まれたりしない限り、そう簡単には死にませんから。

しかしそのことが「ありがたい」ことではなく「当たり前」のことになってしまいました。

あらゆること・ものが「当たり前」。

物質的・金銭的な豊かさを得る一方で、精神的な、心の面の豊かさを失ってしまったように思います。

 

 

そんなこともあり、

 

公務員の前身=武士

なわけですから、

 

武士の心を学び始めました。 

 

www.futaba1107.com

 

忘れかけている東洋的な思想を思い出し、西洋的な思想と融合することで、

 

目指すは中庸的な存在!

 

 

 

そんな時、

 

時空旅人 2018年 3月号 Vol.48 偉人たちの愛読書
 

 

たまたまこんな雑誌を目にしたので、 

 

 

www.futaba1107.com

 

吉田松陰の愛読書から学ぶことにしました。

 

 

 

今後読みたいのが、

四書五経」「武系七書」「洗心洞箚記」「菜根譚

です。

 

 

 

そして今回。

まず初めに読んだのは、 

 

現代訳論語
 

 

「四書」の一つ、論語 

 

 

 

この本と併せて読み進めました。

 

 

 

 

面白いなぁと思ったのが、孔子からどんな教えを受けたのかが、弟子ごとに違うということ。

孔子の思想や理念といった「抽象」の部分は一貫したものであって、

それをどのように一人ひとり違う弟子たちに伝えるか、という「具体」の部分に関しては結構バラバラ。なので、一見矛盾しているように感じることもありました。

 

まさに「具体」と「抽象」。 

www.futaba1107.com

 

 

自分が無意識のうちに自然とできてしまうことは、わざわざ言葉にする必要がありません。それを弟子たちに伝えるということは、きっと孔子も、自身の言行を一致させる難しさを常に感じていたのだろうなぁ。

そう考えると、急に身近な存在のような感じがします。

 

まぁ、人間そんなもんですよね(^^)

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

緩和ケアの話。意外なつながり。

 

2018年。

 

とにかく動く。考えずに悩まずに動く。

そうやって行動してきました。

 

でも行動をするには健康な体が大切。

そう思って、健康的な食生活や体作りに興味をもちました。

そしていろんな情報を得ました。

 

 

2019年。

今興味をもっているのが「死」に関してです。

 

別に怪しい感じではありませんし、ネガティブなわけでもありません。

 

 

「どう生きるか」を考えてみると、選択肢が多すぎて悩みます。

考えてわくわくが止まらないくらいならいいのですが、私はわくわくすることよりも不安の方が多くなってしまいました。

 

でも「どう最期を迎えたいか」を考えてみると、思いついたことはシンプルなことばかりでした。

ならばそれを大切にした生き方をして、合わないものは切り離していけば、案外幸せな人生を送れるんじゃないの、と思うようになりました。

そう考えていくと、わくわくするとまではいきませんが、いい意味での諦めみたいな、ポジティブな感情が生まれました。

 

 

ちょうどそのタイミングで、今日はまごころ塾。

今回の講師は、緩和ケア 萬田診療所の萬田緑平先生でした。

 

 

自分の大切な人が病気にかかったとき、

もちろん治って欲しいし元気で長生きしてもらいたいと思います。

 

ただそのための治療は、本当に本人の望んだものなのでしょうか。

 

家に帰りたいと思っても、チューブにつながれた措置が始まればそうはいきません。

完治して帰れればいいですが、そうでなければ最期を病院で迎えることになります。

 

病院で暴れる方もいらっしゃるようですが、それはなぜなのでしょう。

 

押さえつけ、落ち着いていきます。

それは納得したからなのか、抵抗しても無駄だと諦めたのか。

 

家族も医師も、患者のためを思って方法を考えています。

患者本人が治療を望まないから治療をしない、というのはなかなか難しいと思います。

患者が一見すると元気な時ほど、特に。

 

 

 

そしてふと、こんな風に思いました。

 

「これ、教育にも似ているかも」

 

その進路は本当に本人の望むものなのでしょうか。

失敗させたくない、辛い思いをさせたくない、家族や教師の愛も分かります。

 

子どもにはその判断能力はないのでしょうか。

だとしたら、認知症の患者の判断はどうなのだろ。

 

反抗するとしたら、なぜでしょう。

 

 

 

まさか、講演を聞いたことがこう繋がるとは思いませんでした。

しかし大切な視点や情報を得られたと思います。

これからもう少し萬田先生の本も読みたいと思います!

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

群馬セミナー2019の話。

 

先週の土曜日、

今年度も無事に群馬セミナーを開催することができました。 

www.facebook.com

 

 

ちょうど同日に東京でも会があったので、人数が集まるか心配な所でしたが、予想を越える参加者が集まり驚きました。

 

それだけ『学び合い』の裾野が広がっているのだと思います。

 

 

 

県内や近県の方の参加が多く、保護者も参加されるのが群馬セミナーの魅力的だと思います。

そして今回は特に、教育関係だけでなく、多様な方々が参加していました。

 

その分、どの層をターゲットにした内容にするかは、今後考えていかねばならない課題です。

 

 

と言っても…

全員のニーズを満たすというのは困難です。

 

群馬セミナーは年に一度の大きなイベント的なポジションで、

もっと深く知りたい、学びたいという方には、毎月最終木曜に行われているセミナー(通称:木セミ)や太田の会、そしてふたばの会(不定期開催)のような小規模の会に参加してもらうしかありません。

 

気軽に相談できる場が、県内にもっと増えるといいと思います。

大きな市には一つくらいあっても良さそうです。

これからはオンラインも活用していけるといいなぁ。

 

 

群馬の会でありがたいのは、『学び合い』が成立していく過程を知っていて、初期の実践をされていた方と直接話ができることです。

 

今では多くの書籍も出ているので、だいたい『学び合い』がどのようなものかは分かります。

しかし実践者と直接話さないと伝わらない、分からない部分もあります。

 

分かっているつもりでも、少しずつ忘れてしまうものです。

 

「ああそうだ、そうだった」

「なんでこんなことを悩んでいたんだろう」

 

そうやって初心にかえれる場、私にとってはそれが群馬セミナーです。

 

実践していく人が増えれば、その分上手くいかなくて悩む人も増えます。

多くの人が初心にかえれる場として、各地の『学び合い』の会がもっと広まっていくといいなと思います。

 

 

ご参加いただいたみなさま、ありがとうございました(^^)

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

「抽象的」の捉え方が変わった話。

 

今回読んだ本はこちら。

具体と抽象 ―世界が変わって見える知性のしくみ

具体と抽象 ―世界が変わって見える知性のしくみ

 

 

読書のすすめで購入したこのシリーズも、残り少なくなってきました。

 

 

 

本にもあるように、「具体的」=わかりやすい、「抽象的」=わかりにくい。

と私も捉えていました。

もちろんそうした面もあるのですが、その理由と、「抽象的」であることの素晴らしさを知り、なんだか見る世界が変わったような気分です。

 

 

もとは別の物を、同じグループにしてまとめる。それを記号に置き換える。

人間が生み出した「言葉」や「数」こそ、まさに「抽象化」の賜物なんですね。

 

本書の最後の方にある言葉がとても印象的。

 

「国語」と「算数」

小学校からずっと学ぶ「二大教科」こそ、まさに「抽象化」を学ぶ教科。

 

「数学なんか勉強しても役に立たない」という言葉は、まさに「抽象化の学習」が失敗していることを意味する。

 

国語も、日常会話の言語として使うだけなら、「日常日本語会話」だけ学べばよい。

わざわざ膨大な時間をかけて、難解な文章を要約したり、自分の考えをまとめたりする練習をするのは、「抽象」と「具体」の往復運動というを頭の体操のため。

そこが「国語」が、単なる「日本語」ではない、決定的な違い。

 

なるほどー!!!

 

最後の最後にここを読んで、これまで読みながらなんとなく理解していたことが、すとーんと落ちました!

 

 

 

他にも学びがたくさん。

 

 

なんとなく「具体的」であることの方が良く、「抽象的」であるのは悪いというようなイメージがあります。しかし「具体的」に説明し出したら、膨大な量の情報のやり取りが必要になってしまう。

 

ただ「具体的」な説明を望む人からすると、「抽象的」であることは分かりづらいので、逆に困るんだろうな。

 

「日本を変える」という「抽象的」なミッションがあったとして、

自分で工夫してやりたいようにやるタイプの人なら、自由度が高いのはありがたいこと。のびのびと活躍できる。

でも「具体的」に何をするのかが見えない人からしたら不安でしかなく、どう動けばいいか分からなくなってしまうんだろうな。

 

しかも「抽象的」なミッションの、根幹の部分がぶれていなければ、「具体」の部分では矛盾しているようなことも起こるし、言っていることが急に変わるようなこともある。何がしたいのかわからない、と思われるのも無理はないなぁ。

 

どちらがいいか悪いかではなくて、ミッションや信念は自然と「抽象的」なものになっていくだろうし、それを実現するために計画し行動に移すことは「具体的」なものになる。

その両方のバランスが大事ってことなのだろう。

 

 

「抽象」の度合いが高い人には、その人に適したことがあるし、

「具体」の度合いが高い人には、その人に適したことがある。

 

 

 

あと、なるほどなぁと思ったのが「パクリ」について。

 

「具体性」の高いものを真似すれば、それはパクリになる。

しかし「抽象的」な、ものに関しては合法的に盗み放題。

 

一見して「これはあれと似ているなぁ」と思わせてしまうということは、「具体性」が高すぎるからなのだろう。結局それは真似ではなく、単なるパクリになってしまう。

 

 

「具体的」であること、分かりやすいことが重視されすぎてしまったことが原因かもしれません。

 

「抽象」の方から「具体」は見えますが、「具体」の方から「抽象」は見えません。

 

ノウハウ本のようなものよりも、「抽象」の度合いの高い、難しそうな本を読みたくなるのは、そういうところから来ているのかも。まさに、縦糸の読書。

縦糸が通っていれば、「具体」はいくらあっても取り込むことができる。

「具体」ばかり追ってしまうと、縦糸が構築されず、いろんな情報のなかで右往左往してしまう。

 

巷の働き方改革にしても多忙化解消にしても、「具体」の部分で考えすぎてしまっているような気がして、私がなんとなくもやもやするところは、そこなんだと思います。

 

いやー。読む前と後とでは大違い。

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪

1年間『学び合い』で算数をやってみての、まとめの話。

 

いよいよ明日で2月が終わります。

そして2年生算数の教科書の内容も、明日でちょうど終わります。

ちょうどいいタイミングなので、これまでの学習の様子をまとめてみました。

 

 

 

基本的には、教科書配当の単位時間で進みました。

肝となる部分について「~について説明しよう」という課題が多かったです。

ただ技能を身につけることに重点化したいときは「~できるようになろう」にしました。

 

 

 

最初の頃は自分の言葉でまとめるということに慣れていないので、時間が掛かりました。

特に「時刻と時間」については、配当時間のわりに内容が多く、大変でした。

アナログの時計を読む経験も少なく、まず理解するので手いっぱいで、それをまとめて説明するというのはかなり苦労していました。

 

 

 

「たし算・ひき算の筆算」はいい感じでした。

 

私は最初に、筆算の技能を身につけさせるようにしています。

 

よく例題の一問についてじっくりと解き方を話し合う、という授業の展開がありますが、場合によっては時間内に終わらず、練習問題に進まないということがあります。

これでは筆算の仕方は説明できても、技能が身につきません。

 

筆算を間違えるパターンとして多いのは、初歩的な計算ミスです。

解き方が分からなくて、ではありません。

初歩的な計算ミスなら、繰り返し練習して、まずは定着させてしまった方が良いと思います。

 

とりあえず筆算ができるようになった後で、筆算の仕方についてまとめ、説明し合いました。

 

 

ということで、私は筆算についてはかなり教えています。

授業時間内に、問題プリントでいっぱい計算練習をさせています。かなり私主導。

そのうえで、分からないときは相談してもいいよと伝えています。私も教えに入っています。

 

ただ、単元の最後に筆算の仕方についてまとめる時には、なるべく自分の言葉でまとめられるようにね、と伝えました。

 

知識・技能はある程度授けることができても、思考力や表現力は授けられません。これは子どもたちが思考し表現する中で高まっていくものだと思います。なので、この時には介入はなるべく控えるようにしました。

 

 

 

そのあとの「長さの単位」についてもそうです。

 

1年生でやった直接比較や間接比較を思い出し、任意単位を用いての表現をしました。そして普遍単位へと、その必要性について考えながら学習を進められるようにしました。普遍単位を使う最初の単元です。こうしたことについては知っておいてほしいと思ったので、かなり私が教えました。

 

1cm=10mmという数量関係については覚えてもらうしかありません。いろいろなものの長さを測って、おおよその長さの感覚をつかんでもらうしかありません。活動の後に、その日の学習をまとめ、説明し合いました。それを繰り返しました。

 

 

 

次は「100より大きい数」です。

 

10円玉が10枚で100円。100円玉が10枚で1000円。

お金を例にすると、10のまとまりが10個で100、100のまとまりが10個で1000というのは、すぐに理解していました。ノートにまとめて説明することにも慣れてきていたので、この単元では、まとめもどんどん進みました。今までは教科書のことを写したのもが多かったのですが、「お金で考えると分かりやすいです。10円玉が~」という風に、まとめや説明の仕方に工夫が見られるようになってきました。

 

大きな数のたし算やひき算についても、「一の位の0を消して計算すればいい」ということは分かっていても、どうして「消して考えてよいのか」というのは子どもたちだけでは難しかったようです。

ただここでもお金を例に、「10円玉や100円玉の枚数を先に計算して、後から金額に直せばいいんだよ」というと、理解できる子が多かったです。

あとは理解した子たちが説明する中で、徐々に全体的に理解が深まっていきました。

 

 

 

1学期最後は「かさの単位」

 

この辺りから、学習の様子が変わってきました。

というのも、普遍単位の必要性や数量の表し方、そして測定する活動という単元の構成は「長さの単位」とほぼ同じだからです。

c(センチ)とd(デシ)の違いはあれど、考え方はほとんど一緒なので、私が説明しなくともどんどん学習が進みました。まとめに困ったときも、「長さの学習のまとめを見て思い出してごらん」と言うだけで分かってしまいます。予想よりも短い時間で単元の内容が終わりました。

 

 

 

そして1学期末の復習。

「100より大きい数」と「かさの単位」で浮いた時間があるので、まずは理解しきれていない様子だった「時刻と時間」。そして2年生でマスターしておきたい「たし算・ひき算の筆算」を中心に復習をしました。

 

問題プリントをひたすら解く子もいれば、今の1年生が2年生になった時に使えるように「教科書よりも分かりやすい説明書」を作ってまとめるような復習をする子もいました。

 

 

 

2学期の最初は「たし算・ひき算の筆算」

 

今度は式や答えの桁が増え、繰り上がりや繰り下がりの回数が増えました。

でも、基本的な筆算の仕方は同じ。それについては、1学期のうちに身に付けています。なのでほぼ教える必要なく進んでいきます。

まとめについても、最初はひっ算の仕方をイチからまとめていました。でもだんだんめんどくさくなってきたのか、「1学期にやったのと同じで、違うところは~」という風なまとめ方に変わっていきました。

自然と既習事項を活用しているわけです。すごいなぁ。

これまた時短にもなりました。かなり。

 

 

 

「三角形と四角形」

 

新たな用語が増えたので、私が教える内容や時間は多め。基本的には教科書通り。

感覚としては、「長さの単位」の時と似ていました。

 

 

 

2年生のメイン、「かけ算」

 

最初の、かけ算とはどういう計算か、については教えることが多かったです。

累加の考えで答えが求められることが分かれば、一緒にやるのは2と5の段もやれば十分で、あとは自分たちで九九を構成していけます。

教科書配当の時数の2/3くらいで済んだと思います。

 

浮いた時間はひたすら暗唱の練習に。

 

 

 

「長いものの長さの単位」

 

これは「長さの単位」と「かさの単位」の学習を生かして、ほぼお任せ。

 

 

 

1単元早く進み、「たし算とひき算の関係」

 

これはテープ図を使いながら、結構じっくりと取り組みました。

互いに問題を作って出し合ったりして、おもしろかったです。

 

 

 

これで2学期終了。学期末のまとめでは、九九の練習に、筆算の練習。

筆算については、互いに問題を出し合っていたら少しずつ難易度が上がっていき、桁が増えてしまいました。おいおい、これは3年生の学習内容だよ。

「教科書よりも分かりやすい説明書」として、「三角形と四角形」を取り上げる子が多かったです。新しく出てくる用語が多かったので、もう一度復習としてまとめておきたかったのかもしれません。

 

 

 

3学期の最初は「1000より大きい数」

 

これは「100より大きい数」を生かせばOK。

 

 

 

「はこの形」

 

ここでは「三角形と四角形」の学習が生かされます。

 

 

 

「かけ算のきまり」

 

「かけ算」の時に、「かけ算とはどういう計算か」ということを丁寧にやったので、この単元では、あまり説明する必要はありませんでした。

 

かつて、ひたすら九九練習に取り組んだ甲斐がありました。

ただ欲が出ます。

3年生で「かけ算の筆算」や「わり算」の学習があることを考えると、

もう少しパッと答えを出せるようになるといいなと思いました。

 

なので、「100マス計算」をたくさんやりました。

 

 

 

最後に、「分数」

 

折り紙チョキチョキ。楽しくやりました。

 

 

 

3月はまるまる2年生の復習に充てることができます。

「かけ算が3年生のわり算にもつながるんだよ」と言ったら、早速、自主学習でわり算に挑戦する子が出てきました。今ではあまりのあるわり算にも挑戦しだしています。

 

3年生の最初にもう一度出てくる「時刻と時間」

それに向けて、最後の最後に、攻略したい!!

 

 

 

ということで、

私の『学び合い』算数はこんな感じでした。

 

結構たくさん教えていますね。

知識や技能を授けることの多い単元は、特にです。

しかし一方的に教えていても身につかないですし、思考力や表現力は伸びません。なので、自分の言葉でまとめたり説明したりする時間を設けています。

最初は私の説明や教科書に書かれていることの真似が多いです。でも、別にそれでもいいと思います。

 

それは、その学習した内容を既習事項として、後の単元で使うことを見越しているからです。

 

2年生で学習する算数の単元、半分近くが被っています。

1学期に筆算。夏休みを挟んで、忘れかけた頃に2学期にもう一度。そんな感じ。

既習事項を生かしてその単元の学習をすることが、既習事項の復習にもなっています。

 

こうしていくうちに、私が説明する必要はどんどんなくなっていき、子どもたちの思考力や表現力がどんどん高まっていきます。そして時間がどんどん浮いていきます。

 

復習にじっくりと時間をとれます。そしてその復習の仕方のレベルも上がっていきます。

 

前1学年分の内容を分かっていれば、それは既習事項として多く説明しなくても済みます。

後1学年分の内容を見越しておけば、今身につけておきたいことに重点化できます。

 

 

一斉に指導した方が良いかなということは一斉に指導しますし、ここはあれこれ相談しながら考えたほうが良いかなということは、学び合っています。

 

どっちも大切。どっちもなきゃ成立しません。

学習内容や実態、状況で判断して、最適だと思う方を選択すればいいと思います。

 

 

その背景には、「一人も見捨てず、みんなで助け合い高め合おう」という想い。

 

 

一斉指導と学び合いは、どちらも不可欠な両輪。

『学び合い』は原動力、エンジンのようなもの?

 

 いや、それだと『学び合い』無しでは走れないことになってしまうから、違うな。

 

 

「○○に行きたい!」という想い、かな。

 

 

例えがよく分からなくなってきた(^^)

 

 

 

おもしろおかしくやるんべぇ♪